SAVE: 07 社員旅行はの味


「ママァァァァ! 人食い鮫があああ! 人食い鮫がぁぁぁ!」
(冗談でしょ!)
 湖の中腹で、小雪は青筋を浮かべて立ち泳ぎをした。案外に深い。ボートが転覆したら少女も犬も十中八九溺れまくるに違いない。しかし今のところ重視すべきは、起こり得る最悪の事態の想像ではなく、現在進行形の少女の混乱だ。
 そもそもどうしてこの少女は(そして犬は)こんな夜更けにボートに乗って、うまいことオールを失くして、湖のど真ん中で往生しているのだ。罠か。助けた瞬間、湖に引きずり込まれるんじゃないだろうか。いやいやいや。自分の考えこそ混乱していることに気が付いて、小雪はずぶぬれになった頭を何度か振った。そこへ、気だるい指示が飛ぶ。
「小雪ー! そのままゆっくり平泳ぎでー!」
 岸を見ると、京とシンが手を振っていた。
「できるよなー! 平泳ぎー」
 小雪は肯定のサインとして右腕だけで半円を作った。なるほど、人食い鮫に間違われないためには平泳ぎが有効らしい。早速実行すると、今の今まで馬鹿みたいに繰り返されていたあの負のロンドがぴたりと止む。少女は訝しげに小雪の姿を見つめ、犬は状況に飽きたのか首元を掻き始め、システム課の連中は黙り込んだ。
「で、なんでお前らが行かねーんだよっ」
 湖面から一旦目を離して、京は一番傍にいたシステム課のひとりの後頭部をはたく。
「……駆けつけてみたら、笑っちゃうくらい出来上った状況でしたって、なんか最近もあったような……」
「僕それ、記憶から抹消してるから余計なこと言わないでよ」
シンが冷めた目で踵を返す。
「タオルとってくる」
「二人と一匹分な」
「あれ、めずらしい。行かないの」
「行かないよ。必要ないでしょ」
つまらなそうに生返事をしてさっさと引き返すシン。京は再び真っ暗な湖でうごめく影に視線を集中させた。ボートの横まで辿り着いた小雪が、何か少女に話しかけているようだったが、このあたりで心配する要素はまずない。予想通り、少女が小雪にしがみつくのが見えた。予想外だったのは犬まで小雪にしがみついている点だ。
「犬の野郎……! なんて羨ましい……っ」
「てめぇの嫉妬は犬にまで及ぶのかよ……」
豆塚が呆れかえってつぶやく。いよいよ酔いは醒めたようだ。そんな豆塚はとことん無視して、京はひたすら戻ってくる小雪の様子を注視した。頭が巨大化して見えるのは、おそらく例の羨ましい犬が乗っかっているせいだろう。岸まで5メートルという辺りで、自分の足が届くのを確認すると、小雪はまずオシャレ過ぎる帽子を振り落とした。
 全く手を出さないつもりで岸にしゃがみこんでいた京だったが、結局気が付いたら膝下まで湖に浸かっていた。両膝に手をついて呼吸を整える小雪に手を差し伸べる。残念ながらすぐにはとってもらえないが。
「一応称賛と労いの手なんだけど……」
思いきり訝しげな視線を送られてから、ようやく手をとっていただけだ。このまま全身ずぶぬれの彼女を抱きしめてしまいたいところだが、ここは我慢だ。
「……ひょっとして、私の力量試したりした?」
「俺が? まさかっ。単に信用しただけだよ」
 そういう割には中途半端に迎えにきているあたりが腹立たしい。戻って来たシンからタオルを渡され、小雪はそれをぐるぐると肩に巻いた。横では、犬(雑種)が何事もなかったかのように全身を震わせて水切りをしている。救出した少女は、シンの顔を見るなり安心したのかまた泣きだした。ちゃっかり抱きついている。
「なんかどっと疲れが……」
「帰って温泉にでも入ろうかね」
京が苦笑するのに合わせて、小雪にも自然と笑みがこぼれた。


 金熊への報告は一通り京が済ませた。小雪が宿に帰ってまずすべきことは、報告より入浴だ。本人もそれを理解していたから、露天風呂へ直行した。頭の先からつま先まで全身が湖くさい。なんというか、オオカナダモくさいのだ。
 深夜の露天風呂は小雪の貸し切り状態だった。本来は既に入浴時間を過ぎているところを、女将の好意で開けてもらったからである。昼間に楽しめる雄大な景色とやらは拝めなかったが、代わりとばかりにイルミネーションショーのような星がちかちかと輝いていた。ありていに言えば宝石をぶちまけたような、そういう空だ。思わず感嘆を漏らしてしまうような。
「は~~~、美しいね~~。素っ裸で星空独り占めっていうのも悪くないな~」
 小雪は漏らしかけた感嘆を飲み込んだ。ごく近くで、つまりはこの竹細工の壁の向こうで先に感嘆を漏らした輩がいる。言うまでもなく、京だ。何度か無意味に「はあ~」を繰り返した後、惜しげもなく演歌を歌い出す。貸し切り状態とは言えとことん自由に振舞う京のせいで、女湯で一人、小雪は息を殺す羽目になった。結局漏らしたのは疲労の嘆息だ。そしてその微かな息遣いを目敏く拾うのが奴だ。
「あれれ~。先客ありだったかな~! 星空独り占めだと思ったんだけどな~!」
(わっざとらし!)
「課長がさー、褒めてたよー。フットワークの軽い良い部下を持って幸せだってさー」
「えっ、ほんとに?」
ああ、しまった。しまりすぎた。まさかこんな単純な手にひっかかるなんて。苦悩しても後の祭りである。
「あれ! その声はっ! まさか小雪!」
「……その演技、そろそろ腹立つんだけど」
大根役者の一人舞台のようで聞いている方が恥ずかしい。小雪は諦めて、改めて大きく嘆息するとボルボックス臭い体を洗い始めた。覗き魔も、まさか壁を乗り越えては来ないだろう。
「まだ怒ってんのー……?」
今度はいささか、不安そうな声が響いた。
「別にー。ただ、お風呂くらい一人でゆっくり入りたかったなーって思ってるだけー」
「やぁだ小雪ちゃんったら! それ二人で一緒に入ってるみたいじゃなーい?」
無視しよう。少し度を超えてうるさい蠅が、壁の向こうで騒いでいるだけだ。そのまま飛んで火に入れ。
 そのまま小雪が徹底して黙っていると、京の方も途端に静かになった。水音だけは微かに聞こえるからまだ居るには居るのだろう、無言は無言で不気味である。それが五分、十分と続くとさすがに一抹の不安を覚えた。まさかのぼせて沈んだとか。
「小雪ー」
 その心配は0.5秒で粉砕した。気だるさマックスで名前を呼ばれると返事をするのも億劫だ。しかし京は、小雪の反応を特にまたずに続けた。
「今日、よく頑張ったな。ゆっくり休んで、しっかり疲れとれよ」
大きな水音がした。おそらくそのまま脱衣所に向かったのだろう。珍しく聞く、普通の先輩のような台詞だ。小雪は少し迷った末、普通の後輩の台詞を返すことにした。まだ壁の向こうに居るのかは分からないが、聞いていないならそれでもいい。その方が、いい。
「ありがとう、信用してくれて」
 しばらく待ったが、京の反応は無かった。それがどことなく寂しいようで、大部分はほっとした。少しのぼせてきたように思う。小雪は振り返ってもう一度、満天の星空を見た。ありていに言うと、宝石をちりばめたような──。


 こうして一泊というか半泊というか、慌ただしい慰安旅行は終章を迎えた。行きと違って帰りのバスの中は嘘のように静かだ。五月蠅い連中を含めたほとんどの者が、ここぞとばかりに居眠りを決め込んでいるのが主な要因である。豆塚のあげる高いびきに耳を塞ぎさえすれば、非常に快適な静寂の空間だった。
 カシャッ──そこへ響く、モバイルのシャッター音。シンが座席から身を乗り出して小雪の寝顔をおさめたところだった。起きていた社員は全員目を見張る。
「小雪さんの寝顔ー。500円でデータ送信受付中ー」
ガタガタと音を立ててシンの席に群がり始めるシステム課社員一同。荒木が迷惑そうに顰めつらを晒し、その横で城戸が笑う。いつもの平和な光景だ。しかしいつもとは決定的に違う。一番先に他者を押しのけてきそうな男が、今回に限っては悠長にふんぞり返って座っているではないか。それも締まりのない笑みをにやにやと浮かべて。
「めずらしいね。いいの?」
シンがわざわざモバイル画面の中にいる、あどけない寝顔の小雪をちらつかせてきた。
「んー? べーつにー」
京は一瞬だけそれを視界にいれたが、すぐにまた思い出し笑いに没頭した。
「気持ち悪ー。今に始まったことじゃないけど」
座席の肘置きにひたすら積み上げられる500円硬貨を、シンはてきぱきと回収してきぱきとデータを送信した。
 京は思い出し笑いを噛みしめながら、あるひとつの確信を持ち始めていた。この寝顔は500円払わずとも近い将来独り占めできる気がする。昨晩のやりとりを思えば──当然、京は小雪の最後の台詞をこそこそ息を殺して聞いている。あとからあとからこみ上げてくる笑いに顔全体を緩ませて、京はひたすら根拠のない幸せな時間を抱きしめた。


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