SAVE: 08 保安ダイナマイト・パニック


 一体誰が元凶で、事態がここまで収束不能に膨れ上がったのか──。
 浦島京介を始めとするスプラウトセイバーズ藤和支社保安課のメンバーは、さして広くもない課内にひしめき合って、揃いもそろって微動だにできずにいた。許されるのは、固唾をのむことくらいである。とりわけ京は、しきりにそればかりを繰り返していた。
「指一本でも動かしてみろ……こいつの頭から脳みそ引き摺りだしてやる……!」
 京の寝癖頭を押さえつけて、男はサバイバル用の折りたたみナイフを突き付けていた。男は、というにはいささか幼さの残った顔立ちだった。しかし少年は、と言うにはその目はあまりにも淀んで見えた。
 京は自身を人質にとられながらも「いやいや、俺の頭の中からは脳みそは出ないから」だとかの的確かつどうでもよいつっこみをかかさなかった。無論、胸中での話だ。実際は、ナイフの刃先と男の顔との間で視線を泳がせながら、思いきり歯をがちがち鳴らしている。そして時折、恨みがかった目を、一向に進む気配のない「だるまさんが転んだ」状態の同僚たちへ向ける。皆、冷や汗を流しながら神妙そうな顔つきをつくっていた。
 京には分かる。連中はこの表情の裏で、そろそろあくびをもらしはじめている。荒木と城戸は、先刻から見えない位置で互いの肘を小突き合っているし、シンは振動し続けるモバイルが気がかりでジャケットの裏ポケットを気にしてばかりいる。極めつけはこの女だ。
「はーー……」
 法務課主任、辰宮乙女はくっきりと縦じわの刻まれた眉間をほぐしながら、これでもかというほどオーバーに溜息をついた。悪びれもせず。
「何だよ、それ……。くだらないって、言いたいわけ」
「あら、意外に察しがいいじゃない」
(お~と~めぇぇぇぇ~……!)
 膠着状態は打破したいが、荒療治すぎる。京は口パクで懸命に訴えたが、乙女の視界には入っていないようだ。入っていたとしても餌を催促する金魚が口をぱくぱくさせている程度にしか映っていないだろう。
 冷たい汗で、京の背中はぐっしょり濡れていた。血の気は当に引いている。朦朧とする意識を繋ぎとめたのは、何かが切れる不吉な音だった。
「お前らの、せいだろ?」
切れたのは、かろうじてつなぎとめていた男の理性だ。
「お前らのせいで全部無くなったんだろ! 今までの分も、これからの分も、幸せ全部お前らが奪ったんだろうが! ……返せよ。二人分、死んで返せ!」
 男の意識が京を離れ、京に突き付けていたナイフを離れ、乙女の冷めた眼に吸い込まれていくのが分かった。それでも京はしっかりと羽交い絞めにされたままだったから、一気に形勢逆転とはいかない。薄れゆく意識の中で、京はただひたすらに「刺さないでください」と小さく呟くだけだった。


 ──はじまりは、一本の電話だった。
 ランチタイム、普段ならスキップかツーステップのどちらかで食堂に向かう京が、千鳥足でデスクに辿り着く否や崩れるように突っ伏した。額には冷却シート。その様子を目にして、苦笑いを浮かべながらも冷水を差し出してくれるのがみちるで、思いきり舌打ちをするのが小雪だ。
「うざっ」
あまつさえこの台詞を吐く。
「小雪……それが重病人に向けてかける言葉か。お父さんはお前をそんな子に育てた覚えはないぞ」
「記憶障害まで起こしちゃって、可哀そうに。いい? 京。私とあなたは今までもこれからもミジンコほどの縁もゆかりもないのよ? 分かったら復唱してみて、はい。『私と白姫さんは今までもこれからもミジンコほどの縁もゆかりもありません』」
「私と白姫さんは……って! みちるさぁん! 小雪がっ! 俺が弱ってるのをいいことにとんでもない暗示をかけようとしてくるんですがぁ!」
「暗示じゃない。事実だから」
 興奮したせいか、京は蒸気をあげて(あくまでイメージ)再び机上に上半身を投げ出した。相も変わらず書類に埋もれて机の表面は見えない。それでも空気中よりはこの紙の表面の方がいくらか体を冷やしてくれるように思えた。いちいち大げさな動作で周りの気を惹こうとする京に、小雪は今度こそ深々と嘆息をしてみせた。
「なんていうか、もうちょっとこう……みんなに心配かけないようにとか、そういう配慮はできないの」
「ノン! これが正しい配慮ってやつだよ、小雪ちゃん」
右の頬を冷やし終え、左の頬を冷やすため高速で振り向く。やはり紙面ごときの冷却機能では、京の熱を吸い取るには及ばない。
「いいか、俺がこの37.2度の熱をひたむきに懸命に誰にも言うことなく我慢したとする。こそこそ薬をむさぼり、青白い顔でふらふら徘徊して、最終的にそこらじゅうのもんなぎ倒して大の字ダウンだ。無理がたたってそのときには38.4度! で、お前ら口をそろえて言うわけだ。『一言言ってくれれば』ってね。……というわけで俺の判断は正しい」
「そのやたらに具体的な数字はどっから出てくるのさ……」 
「よせシン。適当の究極系がアレだ。相手にしたらうつるぞ」
 荒木が三段がさねの弁当を包みから取り出しながら、呆れ返ったシンをたしなめる。京は立てかけたファイルと帳簿の壁の隙間から、いつものようにその三重塔を羨ましそうに見ていた。給料日前になると荒木の昼食は、決まってこの三重塔になる。いわゆる、
「愛妻弁当ですか」
城戸が隣から覗きこんで、分かりきったことを口に出す。その単語に誘われて、小雪が、みちるが次々と荒木の弁当を覗き込んだ。
「残りものの詰め合わせだっ。いちいち寄ってくんなっ」
「いいじゃないですか。あっ、たこさんウインナー!」
「小雪ちゃん、こっち見て! たまごやきがハート!」
 今ほど──。
「いいなー。僕も誰か弁当つくってくんないかなー」
「シン、お前それオペ課行って社内放送で流してみろ。明日には弁当で万里の長城ができるぞ」
 今ほどせつに、出動要請ベルを請うたことはないかもしれない。何でもいい、この羨まし過ぎる光景をぶち壊してくれるものなら何でも。京のそんな歪んだ羨望の眼差しを感じて、荒木は何でもないようにファイルの隙間に別のファイルで蓋をした。そんな矢先。
 電話が鳴る。外線直通を示す歯切れのよいコール音だ。そのテンポとは真逆のテンションで、京がのっそりと受話器を取った。
「はい、スプラウトセイバーズ保安課」
しばしの沈黙。受話器の向こうからは相手の声ではなく、バイクのアイドリング音らしきものしか聞こえてこない。
「もしもーし。どちらさまですかねー」
京がおもむろに身を起こすと、弁当トークで盛り上がっていた連中もいくらか視線をよこす。例のハート型たまごやきを頬張りながら、荒木が顔をのぞかせた。視線が合ったので、京も肩を竦めて相手に応答がないことを暗に示す。受話器を置こうと上半身ごと倒したときだった。
『そこにセイバーズのトップはいるか』
思わぬ応答があった。しかし想定内ではある。京は体は起こさぬまま、横着に受話器だけを左耳に当て変えた。
「トップは支社にはおりませんので、苦言でしたらわたくし浦島が承りますが~」
 そこで唐突に通話は切れた。後にはお決まりの虚しい電子音が繰り返されるだけだ。

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