「お、乙女さんっ」
小雪は呼びなれない名を、何とか口にして呼びとめた。こう呼ばないと乙女は振り向かない。
「用が済んだから課に戻るわ。あとよろしく」
「あの……」
「何か、訊きたいことがある? それは、私に?」
小雪は無意識に口をつぐんだ。その理由を瞬時に考える。おそらく、乙女の切り返しが的を射ていたせいだ。
「いえ。違う、と思います」
「あら、そ? じゃ、それは本人に訊くといいわ。そうそう、小雪ちゃんの啖呵も蹴りもなかなか良かったわよ」
乙女は悪戯っぽく笑うと後ろ手を振りながら保安課を後にした。当然、片づけと事後処理は放棄だ。あちこちで鳴り響く電話のベルと、金熊と荒木の怒声とで課内は一気に騒がしくなった。いつの間に招集されたのか、システム課の連中が何やら文句を言いながら京が横たわった担架を運び出していく。城戸とシンが、央太の身柄を拘束して引き渡しの準備をし始める。
隔離されていた空間が息を吹き返す。止まっていた時間が動き出す。そんなふうに息苦しかった間も、時計の針だけは容赦なく動いていた。短い昼休みがやがて終わる。
その目に、どこかで出会っているような気がした。反抗期真っ只中の中学生スプラウトだったか──違う。5年間付き合った彼女の二股が判明した友人だったか──それも違う。
瞼を閉じると、どういうわけかそれがすんなり思い出せた。
そう遠くない過去に、鏡の中にその目の少年は住んでいた。朝も昼も夜も、その少年の目は暗く淀んでいて、一切の光を受け付けなかった。その目が映す世界もまた、当然のように暗かった。故障したレンズで撮影した、明度の低い写真のようだった。
鏡に映った自らの淀んだ目を見た時、京はまず自分がブレイクしたのではないかと疑った。そしてすぐにそうではないことを確信した。ブレイクスプラウト特有の、断続的な濁りとは明らかに違う。それは終わりのない闇だけを映すレンズだった。
もう鏡の中にその少年は住んでいない。朝起きて身だしなみを整えるときも、あくびをしながらパトロールをし社用車の窓ガラスに映ったときも、誰かの瞳に映り込む自分の瞳を見たときも、京の世界には色があるし光がある。
(眩しいな……)
瞼の裏が必要以上に明るい。無意識に眉を潜めた。ごく近くで、リズム良く林檎の皮を剥く音がする。空間に響いているのはどうやらその音だけのようだった。静かで心地よい。
京は虚ろな意識で、何とか状況を整理した。穂高央太との大立ち回りが決着を迎えたところまでは覚えている。その後デスクで一休みしようとして、誰それの悲鳴や怒声が聞こえてきて、記憶終了。ということは、ここはおそらく医務室かどこかで林檎を剥いてくれているのは彼女しかいない。
「小雪ぃ!」
「何だ、気が付いたか。いきなり起き上がるなよ、手元が狂う」
勢いをつけて上半身を起こすと、そこには絶望が待っていた。眉間に深い皺を刻んだ金熊と、クオリティの高いうさぎさん林檎が同時に京の視界に割り込んでくる。とりあえずやるべきことは、目を逸らすことか。
「課長、なんでここに」
「なんでって、お前が派手にぶっ倒れたからだろう。……泣くなよ、気持ち悪い」
泣きたくもなる。派手に倒れたなら、何故起きた瞬間に心配顔の同僚や部下に囲まれていないのだ。金熊の顰めつらにオプションがうさぎさん林檎ではやりきれない。悲嘆に暮れながら、ついでに辺りをぐるりと一瞥した。I-システム課の一画にある医務室に居ることは間違いなさそうだ。特に寝心地の良くないベッドに、京は頭をかきながら座りなおした。
金熊は納得がいかないように小首を傾げて、形の整ったうさぎさん林檎をフォークごと京に差し出す。京は黙ってそれを受け取った。
「穂高央太、どうなりました」
「お引き取りいただいたよ。天野由衣子ちゃんも迎えに来たしな。まぁいろいろ誤魔化して、厳重注意で済むようにしといたから」
「相変わらずだなー……」
「お前がそういう方向に持っていったんだろうが」
「あれ、そうでしたっけ?」
京の白々しい笑みに、金熊は歯ぐきをむき出しにして対抗したかと思うとあっさり席を立った。
「えー。課長、行っちゃうんですかぁ。俺一人をここに残してー」
「京介」
京の笑みが消える。金熊が自分の座っていたパイプ椅子に、茶封筒を置いた。乙女が持ってきたものだ。金熊がこれを持っているというこは、無論中身を検めているはずだ。京は黙って金熊を見上げた。
「あの事件に関して、お前が独自に動くことに今さら苦言を呈するつもりはない。ただ、焦りすぎるな。必要なところはちゃんと周りを頼れ、いいな」
一瞬、返す言葉を考えた。しかしすぐに思い直した。
「分かってますって。了解」
京と金熊、各々思うところは別にあるが同時に苦笑を洩らした。金熊はそれ以上何も言わなかったし、京も特に補足をしなかった。
金熊が退室してから京はのそのそと手を伸ばし、その封筒を手に取った。中は数十枚の写真だ。この手の資料は定期的に乙女から手渡される。中身を引き出そうとし、すぐに止めた。熱は引いたのか気分は悪くないが、とにかく何か気だるさが残っていた。
天井を見上げながらそのまま仰向けに寝転んだ。
「思い出は……ヤワじゃない」
乙女の口癖を、いつしか自分の口癖のように口ずさむようになっていた。彼女の考え方には共感できるところがいくつもあって、それはセイバーズとしての京を何度か救ってきたし、支えてもきた。バディを組んでいたころもそうだったし、今もそれは変わらない。
「ヤワじゃないから、困るんだよな」
体力の回復を図るため、再び瞼を閉じた。すぐに睡魔はやってきて、京を深い眠りの世界へいざなってくれる。意識が墜ちる瞬間、京はまた、あの目をした少年に出会ってしまった。絶望という名の淀みを持ったその少年はまだ、瞼の裏に息を殺して住んでいた。