SAVE: 09 ア─Part.1─


 いつも通り、京は一人保安課の自分のデスクに居残っていた。いつも通り書類に埋もれて、いつも通り打つ気もないノートパソコンを開いたままにしている。そしてやはりこれもいつも通り、見るともなしに黒いアクリルファイルを広げていた。
「アイナンバーの下一ケタは7……プリズムアイ……」
「そして額に銃痕」
独り言のつもりで呟いたのに、予想だにしない横やりが入った。過剰に驚いて振り向く前に、乙女の端正な横顔がすぐ隣にあることに気付いた。結局それにも驚いて、二重に肝を冷やすことになった。
「びびらすなっ。性格悪ぃな」
「心外ねー。無駄な残業で電力を無駄遣いしてくれるブラック社員に、注意をしにきただけでしょ」
「そりゃ俺のことか」
「他に誰がいるのよ」
 京は苦虫をつぶしながら壁にかかっている時計に目をやった。午後10時。確かにもうそろそろ帰宅すべきかもしれない。ここ最近は大きなセイブもなかったから、保安課内には誰も残っていなかった。小さく嘆息してノートパソコンをシャットダウンさせる。
「はいはい。帰りゃいいんでしょ、帰りますよ」
席を立ちながら、ファイルを所定の位置に立てかけた。
「こっちも……できるだけ手をつくす。今さら焦って、どうなるってものでもないでしょ」
 京は一瞬目を点にして、それから居心地が悪そうに後ろ手に頭を掻いた。金熊と似たようなことを言う。それとも彼の差し金だろうか。思い直してすぐさまかぶりを振った。これはおそらく、乙女なりの気遣いなのだろう。
(もう充分助かってるけどな)
口には出さずにおいた。代わりとばかりに自分に言い聞かせる。
 焦るな、集中を切らすな、平常心を保て、そして常にアンテナを張れ──何かのまじないのように最近は繰り返しこれを唱える。京が、スプラウトセイバーズに入社してから金熊に教わった心構えだ。唱えて、確認して、いつも通りの自分を保つ。
 京は大あくびを漏らしながら、早くも廊下の電灯スイッチに手をかけた乙女の後を追った。


 翌朝の保安課は、いつもより幾分慌ただしかった。というのも、金熊が本社会議から持ち帰った事案を発表するとか何とかで、いつもより始業時間を早めたからである。午前7時、普段なら天気予報からの誕生月占いに全神経を投入している時間だ。
「なんだ浦島、そのしかめっ面は。今さら異議申し立ては聞かんぞ」
金熊が保安課の扉をくぐるなり、目敏く京の表情を注意する。高血圧の金熊には想像にも及ばないかもしれないが、大抵の二十代から三十代、いわゆる働き盛りというやつは揃いもそろって朝が弱い。不規則家業はなおのことだ。
「異議というか……どうしても気になることが」
京は金熊から視線を逸らすべく、小さく俯いた。その仕草がやはり金熊の目に留まる。デスクに使い古した皮の鞄を置きながら片眉を上げた。
「なんだ。手短に話せ」
「……今日の俺は、一体全体、全12ヶ月の中で何位相当の運気に当たるのかなって」
「よーし、みんな。アホはほっておいて手元の資料を見てくれー。今回のターゲットである狩野製薬の概要から説明するー」
 保安課の各々が無言で資料の表紙をめくる。あんまりだ。誰ひとり冗談が通じない。この時点で本日の運勢ランキングが10位以下であることは明白である。こういう日こそお助けラッキーアイテムをチェックしておきたいというのに。
 京も渋々資料をめくったのを視界の端に確認すると、金熊は仕切り直しとばかりに小さく嘆息した。
「以前ちらっと話した通りだ。本日よりしばらくは本社と各支社で連携して、この、狩野製薬の動向を監視することになる。具体的には管轄内にある事務所ビルと研究施設、だな。この期間は普段のバディに限らずローテーションを組んで監視班をまわしていく。メンバー割は最終頁にあるから、後で確認しといてくれ」
 こういうとき、大抵の二十代から三十代、いわゆる働き盛りというやつは揃いもそろって早速最終頁を繰る。確認も何も回すメンバーはここにいる少人数だ。金熊のわざとらしい溜息も聞こえないふりで流して、京も半眼でメンバー割に目を通した。
 感想はおそらく全員同じである。それにいち早く反応、というか反論したのが珍しくも荒木だった。
「いやいや……、課長。これだと通常業務はどう回していくんです。総動員、待機人員なし、これだと保安課が機能しないでしょう」
荒木の呆れ声に皆胸中で頷く。同時に自分の資料に不備がないことと何かの見間違いでないことも知る。監視のローテーションメンバーには金熊自身の名も記されていた。
 荒木のもっともな批判を一身に浴びても、金熊は動じる様子を見せない。
「まさか……冗談でしょう」
「そのまさか、だ。通常業務はストップ。不足人員は生活課、システム課からも補充するように指示を出す。いいか、保安課全職員はこの案件の解決に最善を尽くすよう命令が下った。皆、そのように承知してくれ」
 諦めたようにかぶりを振りながら、資料をもとの頁に戻す荒木。露骨な彼とは対照的に、京は小さく苦笑いをこぼしただけだった。
 金熊は昔堅気の、少し古臭いタイプの人間だ。良く言えば情に厚すぎる。それだから冷徹冷酷に徹するには、あるいはそれを演じるには爪が甘いところがあった。今回もその不器用さが見え隠れしていて、京としては苦笑いで済ませるほかなかったのである。「最善を尽くしてくれ」ではなく、「尽くすよう命令が下った」ということは、それが金熊本人の意思ではなく本社の意向であることを暗ににおわせてしまっているではないか。
 金熊も心底納得しているわけではない、それさえ分かれば十分だ。
「話を戻すぞ。狩野製薬にかかっているのは麻薬製造、売買の疑いだ。端的に言うとな。通常ならまるごと警視庁扱いのはずなんだが──次の頁をめくってくれ」
 何故今回に限ってセイバーズが首をつっこむのか──それも全社をあげて──その理由は、製造・売買されているとされる麻薬の効能にあった。資料に目を通して、やはりいち早く荒木が特大の溜息で遺憾を顕わにした。
「は~……狩野って言ったらそこそこ大企業じゃねぇか。何でこうわざわざ危ない橋を全力疾走するかね」
「まぁでも、これなら本社が臨戦態勢に入るのも納得ですね。警察屋さんよりも先に“ホシ”を挙げないとセイバーズ全体の沽券にかかわる、と」
城戸が皮肉っぽく強調した言葉に、皆肩の力を抜いて思わず笑いをこぼした。
「そういうことだな……質問はあるか。内容に関して」
金熊の振りには、小雪が挙手をして応えた。
「このドラッグの効能、『スプラウトを意図的にブレイクさせる』ってどう解釈したらいいんですか? そこに何か、有益性があるってことでしょうか」
「あるだろうな、どういう団体にしろ組織にしろ反スプラウト派には。遺体売って、それをビジネスに変える連中がいるんだ。不思議じゃないだろ」
 小雪の問いには京が答えた。それも若干食い気味に。
「それよりも。実際に被害が確認されて、その原因がこの新種のドラッグで、更にその売買ルートに狩野が絡んでるってとこまで判明してるのに、今さら俺たちが何を押さえればいいのかって方が疑問なんですが」
京の言い草は先刻の城戸よりも、更に嫌味と皮肉の利いたものだった。金熊の配布した資料には、その手の情報が一切記載されていない。被害状況、それに関する全ての詳細、ドラッグの頒布状況、それに関する全ての詳細、書かれていてよいはずの内容が何一つない。あるのは狩野製薬の企業パンフレットをコピーしたとしか思えない会社概要と重役の紹介だけだ。

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