SAVE: 09 ア─Part.1─


「証拠だよ。……物的証拠」
金熊がひと際長い嘆息で疲労を顕わにした。これぞ「THE 板ばさみ」である。
「……ないんですか、ここまで詰めといて」
「そう、ない。だから全社で狩野の関連ビルを監視して、そこに胡散臭~い笑顔で載ってる上役たちと接触した者を本社へ報告する。以上、これが本日からの我々の業務!」
最終的にはやけくそに締めた。金熊は覚悟していた。絶対に、十中八九突っ込んでくる奴がいる。荒木か、京か、素直に聞いている素振りのシンか。
「し、証拠品の押収じゃないんですか……」
予想外というか、それを口に出したのは小雪だった。思わず金熊も言葉を詰まらせる。
「白姫くん、聞いとったかね。我々の業務は『狩野の上役と接触した者を、逐一、リストアップして、本社に報告する』以上だっ」
金熊は困ったとき、技巧に走らずごり押しする。つまり今、極上に困っている。これは察して見て見ぬふりをするのが優しさというものだ。銘銘に伸びをしながら席を立ち、重い足取りでローテーションの指定箇所に向かう準備を始めた。
 京もうなじを掻きながら立つ。呆ける小雪の頭に軽く手を置いた。
「華々しいのは本社の精鋭陣が根こそぎ持ってくからねぇ。ま、俺たちは俺たちの業務をやろう。地味で退屈そうだけどな」
「浦島、聞えよがしに言うなっ」
歯ぐきをむき出しにして怒る金熊に、京はいつも通りの愛想笑いでへらへら頭を下げていた。
 小雪は何故かその光景に、いくつかの違和感を覚えた。ざっと思い返しても、どの時点でも通常運転の京だ。それがやけに造られたもののような気がする。
 彼は何を焦ってるんだろう──根拠もないのにそんな考えがよぎる。それはひどく、小雪を落ち着かない気分にさせた。


 名目上は、麻薬事件における本社との連携捜査であり、確かに聞こえは良い。しかし実際は本社が持つべき案件、もっと言えば本社はおろか、金熊のこぼしたとおり警視庁が抱えるべき事件のとばっちり捜査であった。もっともっと正確に言うならば、これは捜査でもない。
 手狭な割に十階建と、縦長い造りのショッピングビル。その九階にあるカフェレストラン「赤りんご」、その窓側カウンター席からちょうど、狩野の事務所ビルの出入りが一望できる。小型の望遠鏡を使えば限定されているとは言え、いくつかの室内も監視することができた。
 小雪はかれこれここで三日間、タウン誌を広げて、この『秋の新作スイーツ大特集!あつまれ、マロン、メープル、むらさきいも!』のページを眺めている。マロン、メープルまで横文字できておいて何故最終的に純和風の『むらさきいも』で締めくくるのか気になって仕方が無い。それでも、三日同じページを眺め続ければその違和感もどうでも良いものになりさがっていた。
 不躾に小雪の隣の椅子がひかれた。そこにはつい数分前まで荒木が頬づえをついて座っていたのだが、今、大あくびと共に腰をおろしたのは京だ。
「いつまで続けりゃいいのかね」
開口一番これである。やる気は皆無だ、椅子にこれみよがしに浅く腰かけて、ずぶずぶと斜めに沈んでいく。
「見る?」
小雪が指さしたのは例のスイーツ特集。流石の京もこれには苦笑しか返せない。
「付箋なんかつけちゃって」
「そうじゃなくて。今日分のリスト。昨日よりは出入りが多いみたい」
雑誌の下にB5のペらいち用紙が敷かれていた。良く見れば、スイーツ特集の前のページには狩野製薬の重役たちの顔写真が挟みこまれている。京の目が、即座に何かあり得ないものでも目にしたかのように訝しげに変わった。何か言いたげに小雪の顔をしばらく凝視した後、結局何も言わずにうなじをさすった。
 京は少し困ったとき、よくこの仕草で自分を誤魔化す。今度は小雪が、観察対象のへちまでも覗きこむように上目遣いに見やった。
「なんか……未だかつてない熱い視線を感じるんだけど」
「気のせいよ。それより何か頼んだら? 一日一杯までは経費で落とせるって」
「それも何て言うか、おかしな話だよな。一日中居座るのに一杯までって」
言いながら軽く片手を挙げると、ほとんどなじみになりつつあるアルバイトの女性がすぐに駆け寄って来た。
「おねーさん、俺、今日コレ。この『赤りんご特製赤くないりんご5種の生しぼりジュース』」
 アルバイトの女性は快く返事をすると、「生しぼりおひとつ」と端的に復唱して踵を返した。カフェあるあるなのだろうか、客に長々しい(時にはこっぱずかしい)商品名を言わせる割には店内部では適当な略称が定められている、あのパターンだ。京は全く以て気に留めてもいないが、小雪は明日注文するつもりでいたそのジュースのことは「生しぼり」で通じることを学習できたことに密かに礼を言った。
「こうしてるとさー。仕事の合間に抜け出してランチに来てる、社内恋愛カップルってかんじ?」
「え? ううん? 全然?」
小雪は笑顔全開で、全く動じることもなく全力でかぶりを振った。切り返しの早さといい切り捨て感といい斬新である。などと感心している場合ではない。思い返してみれば、この三日間、こうして小雪の隣を独占している状況下でまともに会話が弾んでいないではないか。おかしい、おかしすぎる。社員旅行以降、二人の距離は劇的に縮まっていたはずだ。
(……テレカクシ!)
 すぐに単純明快、腹落ちする結論に至った。なんだ、そうか。それなら仕方ない。もう少しこの状況を楽しむくらいの余裕を持てということだろう。神は意外にまどろっこしい試練を与えるものだ。
 青ざめたり目を見開いたり、最終的に極上に気持ち悪いふにゃふにゃした笑みを浮かべる京を、小雪は言うまでもなく冷ややかな目で遠巻きに見ていた。
 その遠い視線が、カウンターの一番端の席の男を捉える。小雪がここに座り始めたときから既に居座っている若い男だ。明るく色を抜いた髪は肩の長さまで適当に伸ばされている。小雪と同じくらいか、それ以上に長いかもしれない。だから何だと言われればそれまでなのだが、その男の様子が少しだけ気になった。スマートフォンの液晶をタップする、その指圧が必要以上に高い。コツコツという音がこちらの席まで届くほどだった。
「なんで出ない……! くそっ」
何度か舌打ちをする。それに気づいて頭がお花畑モードだった京も、何気なく視線を向けた。
「遅い、遅い、遅い……! なんでなんだよ、ちくしょう」
タップ、機器本体を耳もとへ、舌打ち、タップ、少し前からこの一連の流れがループしている。これにたった今リズム隊が加わった。すなわち、超高速貧乏ゆすりである。
 京はできるだけ無表情を保ったまま、顔の向きを再び窓の外へ戻した。小雪にも暗にそうするように促す。障らぬ神に何とやらだ、最善の選択はこのまま無我の境地で「赤りんご特製赤くないりんご5種の生しぼりジュース」の到着を待つことであろう。
「あの人」
小雪が話を振ろうとするのを止めるべく、京は小刻みにかぶりを振った。それをさっぱり無視して小雪は京の袖を軽く引く。彼女の視線は、猛烈タッピング男の方ではなく、自分たちの眼前にある一枚張りのガラスへ向けられていた。
「あの人、毎日のように居るのよね」
 ガラスには、店内の様子が隅から隅まで反射している。入り口付近で会計を済ませようとしている若いカップル、それぞれにブランドのショッピングバックを下げておしゃべりに夢中になっている女性三人組、営業途中に寄ったのだろうかネクタイをゆるめながら注文を述べる男性、そして入り口から入って角の席に座っているロイド型サングラスをかけた長身の男。
 誰のことを言っているのか、聞く必要はなかった。小雪が言うのは十中八九この男のことだろう。位置的には、京と小雪の座る窓際カウンター席のちょうど真後ろにあたる。京は相手に悟られないように意図的に視線を泳がせながらも、神経を研ぎ澄ませた。

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