SAVE: 09 ア─Part.2─


 都心から郊外へ向けて走る安出線、麻宮法香はその11号車入り口付近に立ったまま車窓を眺めていた。背の高い建物は徐々にまばりになり、公園や娯楽施設、何かしらのホールなど敷地面積を要するランドマークが景色に混ざりはじめていた。
 電車が一度大きく揺れる。かと思うと徐々にスピードが落ちる。
「まもなく樫ノ屋に到着いたします。お出口は左側。扉付近のお客様はご注意ください」
 アナウンスが流れると同時に、麻宮が顔を上げた。寄りかかっていたからだを起こす。小雪もそれに合わせて身構えた。電車が止まる、扉が開く、麻宮がホームに降り立った。
「白姫です! 対象、樫ノ屋で下車します」
思わず声が大きくなった。言いながら自分も慌てて下車する。
「宇崎部長」
『白姫君、深追いするな。樫ノ屋近辺に狩野関連の施設は無いし、麻宮の私用である可能性も高い』
 小雪の催促に答えたのは金熊だった。そしてそれに対して応答したのは小雪ではなく、宇崎だ。
『そのまま追え。何かあったら増援を送る、報告を怠るな』
「分かりました。このまま麻宮を追います」
言うまでもなく、足は既に麻宮の軌跡をたどっている。辺りは一面田園風景が広がっていた。たわわに実った稲が首を垂れて金色に光る。その中に申し訳程度に民家が建ち、古めかしいポスターを貼った商店が建ち、やたらに大きな病院が建っていた。何かの工場、何かの倉庫、人が居てもいいはずの建物もどこか閑散としている。
 金熊の言うように近辺に狩野の持ちビルは無い。しかし私用にしては、腑に落ちない点がいくつもあった。麻宮のスーツはどう見てもこの田園地帯には不似合いであるし、平日の昼間にここまで出向く必要のある用事というのもそうそうないのではないだろうか。何よりこの空気──麻宮の歩く半径5メートルは、全ての異物を排除するかのような緊張感に満ちていた。それについては無線では説明しがたい。肌を刺す、この現場の緊張を表す言葉を小雪は持っていなかった。
(桜井が殺されたってことは、麻宮も狙われているってことなのかな……。それを知っていてこんなところまで逃げてきた……?)
それにも疑問符が浮かぶ。麻宮の挙動は何者かの追跡を警戒している風ではない。というよりも周囲に目を配るほどの余裕すらないように見えた。ただ足早に、一心不乱に目的地を目指す。足音を立てずにそれを追うのは至難の業だった。
 麻宮の足が止まったのは、セメント造りの壁に周囲を覆われた工場施設の前だった。社名だか施設名だかを掲げそうな鉄の門の前には何も記されていない。麻宮は強張った表情のまま無人の詰め所を通り抜けた。
 小雪は門の手前で一度周囲を見渡すと、ジャケットの内ポケットからモバイル端末を取り出した。無線の範囲からはとっくの昔に外れている。5、6コール鳴らしてようやく金熊の声がした。かけたのは作戦本部の固定電話だ。
「白姫です」
「白姫君! どうした!」
「あ、いえ。無線がもう届かないので」
予想外の切羽詰まった金熊の声に気圧されながら、小雪は慌てて声を潜めた。通話口の向こうは慌ただしい、を遥かに越えて修羅場のようだった。桜井誉殺害の情報が怒声となって飛び交っている。報告のために駈けつけた本社保安課の職員で作戦本部はごった返し、無線の報告と別の電話のコール音が絶えず鳴り響いていた。
「お取り込み中にすみません、麻宮が工場施設に入りました。無人のようですが施設の詳細は不明です。現在地を言います」
 金熊は素早くメモをとると、すぐ後ろでシステム課と通話中だった荒木にそれを回した。荒木がメモを読み上げる。システム課ならこの手の調査は朝飯前だ。餅は餅屋に頼むのが手っ取り早い。ほとんど間を置くことなくなされたシステム課の返答を、荒木がそのまま復唱した。
「廃棄薬品の最終処分場だそうです。ただし二年前から稼働していません」
「不動産リストは5年以上前の物件も洗ってあっただろう。漏れていたのか」
 二人の会話を耳にして、宇崎が立ち上がった。
「すぐに調べさせろ」
 荒木が一瞬何のことかと考えていると、宇崎の後ろで狩野関連の不動産リストを振る金熊の姿が目にとまった。すぐさま土地の権利者を問い合わせる。
「狩野名義どころか法人でもないみたいですね」
 いつの間にやら受話器は宇崎が握っていた。
「白姫、聞こえたか。証拠品があるとしたらそこの可能性が高い、君はそのまま麻宮を追い目的を確かめろ」
宇崎はそれだけを早口に指示するとすぐに受話器を置いた。
 小雪に、躊躇うという時間は与えられなかった。当然返事などできるはずもなく、一定間隔で鳴りつづける通話終了を示す機械音だけが鼓膜を支配していた。固唾をのむ。隣には誰もいない。たったそれだけの事実が、やけに緊張を誘った。そう、これは緊張だ──門の向こうに佇む薄暗い工場の壁を見つめながら、自分に言い聞かせた。その言いようのない心のざわつきが確かな「不安」であることに、小雪はもう気付いている。しかしそれをあっさり肯定したら、次の一歩が踏み出せなくなることも知っていた。
(大丈夫、やることは変わらない。落ち着いて、私は私のやるべきことをやるだけ)
 日が西へ傾いていた。夕陽は広範囲に拡散した千切れ雲を照らしだし、空は一面朱色に染まっている。美しい音色で鳴き始めた虫、その声をのぞけば周囲も自分も静寂に包まれていた。
 小雪は静かに息を吐くと、門の隙間から工場敷地内に潜入し麻宮法香の軌跡を辿った。目を皿にして彼女の姿を追う必要はない。不自然に灯りがついた廊下と、その先の区画を目指して自分は暗がりを移動すればいい。
 廊下は台車がすれ違えるようにか、車道並に横幅が広かった。小さな資材部屋から中規模の倉庫を通り抜け、大規模な貯蔵庫として使用していたらしいだだっ広いスペースに出る。その鉄扉の陰に小雪は身を潜めた。同時に口元を覆う。僅かな呼吸音さえ反響してしまいそうな空間で、小雪はあろうことか思わず悲鳴をあげそうになった。
 薄暗い明りの下に、三人の男女が立っている。広い、そしてほとんど物のない資材置き場の中央に寄り集まっていた。一人は言うまでもなく麻宮法香、小雪が驚愕したのはその隣で薄笑いを浮かべている男に見覚えがあったからだった。肩幅が広く長身、頬骨が浮き出た顔におまけのように乗っている、ロイド型サングラス。
(『赤りんご』に居た男……! あいつが黒幕なの……!?)
限界まで身を乗り出して、食い入るようにその姿を焼き付ける。散らばっていた点と線が、凄まじい勢いで繋がり始めている感覚があった。そしてその中のひとつに、また悲鳴をあげそうになった。
 京が追っていたのは、この男ではないのか──。小雪の推察は、この時点で強制的に遮断された。
「他人事みたいに言わないでほしいわ……! あなたが殺したんでしょう」
 小雪にもはっきりと聞こえる声量で、麻宮が唐突に金切り声をあげた。落ち着いたライトグレーのスーツと妖艶なワインレッドのルージュに似合わない、甲高い声だ。サングラスの男が肩を竦めておどけてみせた。
「銃刀法違反をしてまで処分したい男じゃないな。拳銃はどうも、苦手でね」
薄笑いはくずさないまま、自らのこめかみの少し上をトントンと中指で打ち付ける。傍らにいる背の低い、小柄な男が口元に手を当てて笑っているのが見えた。迷彩柄のウィンドブレーカー、そのフードをすっぽりかぶっているため背格好以外は分からない。
「言葉遊びをしているんじゃないわ。あなたが指示して、専務を殺したんでしょうと言ってるの」
「不服そうだな。そのおかげで君は大金を抱きしめたまま高跳びできるし、我々も必要なデータをとることができた。……その死が人の役に立つなんて万人に一人いるかいないかだ。大抵の人間は人生の搾りかすのようにただ死ぬ」
「勝手なことを! あなたの宗教観なんて興味ないのよっ」

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