SAVE: 09 ア─Part.2─


「それは失礼。まぁ俺の方も、あんたに特に興味はない。もっと言えば、そろそろ邪魔だとも思い始めている。……早々に行方をくらますことをお勧めする」
サングラスの男が差しだした黒い皮鞄を、麻宮はひったくるように受け取った。その手が、口元が震えている。
「ひとつ、確認させてちょうだい。ここにある大量の“ブルーム”はどうするの。短期間で処分できる量じゃないわ」
「おやおや……社長秘書殿は主力商品の概要をご存じないと見えるな。“ブルーム”は必要最低量を残して今日中に処分する。ここはもうすぐ『設備の老朽化による漏水事故』で水浸しになる予定なんでね」
「……淡水に浸けて無害化するってこと」
「“成分変化”の方が正しいな。おっと失礼、言葉遊びはお嫌いでしたね」
 男は口角だけをあげて微笑んでいるように取り繕った。麻宮はそれにさえ恐怖を覚えて、何も言い返さず踵を返す。入り口に近づいてくる激しいヒールの音に、放心状態だった小雪も身を起こして扉の陰に潜り込んだ。麻宮はここへ来たときと同じように、わき目も振らず去っていく。足音が遠ざかってもなお、小雪は態勢を立て直せずにいた。
(何……今の会話……)
驚愕と混乱と極度の緊張が思考を鈍らせる。それでも脊椎で判断するならば、今は一にも二にも安全な場所へ移動し、事の子細を報告するべきだ。ジャケットの内ポケットに手を入れた刹那──
「あんたとはよく会うな。セイバーズのお嬢さん」
 上から声が降ってきた。すぐ隣に、男が立っていた。肩幅が広く長身、頬骨が浮き出た顔におまけのように乗っている、ロイド型サングラス──。



「駄目です……っ、つながりません」
 スプラウトセイバーズ藤和支社保安課、横の即席作戦本部。みちるが受話器を耳に当てたままかぶりを振った。眉尻を下げる彼女とは対照的に、宇崎は眉根を寄せて遺憾を顕わにする。
「あれほど報告を怠るなと、念を押したにも関わらずこのざまか……!」
 みちるは聞こえないふりをして、再びリダイヤルボタンを押した。先刻からディスプレイに流れつづけているのは小雪の社用ケイタイの番号だ。そして、みちるの耳に届くのは先刻から同じ「電源が切られているか、電波の届かないところにいる」旨の女性の冷たい音声である。
(せめて浦島くんが居てくれたら……)
そう思ったのが顔に出てしまったのだろうか、諦めたようにかぶりを振る金熊の姿がみちるの視界に映った。顔色が悪い。ふと視線をあげると隣の電話の受話器を持ちあげたまま頭をかきむしる荒木がいた。怒りをこめて受話器を投げ置く。
「ああっ、もういい! 俺が出る! 宇崎部長、構いませんね? システム課も何人か──」
「馬鹿を言うな。これ以上無駄なことに人手は割けない」
「はい? いや、おっしゃいますけど、白姫はうちの大事な戦力で……」
「何度も同じことを言わせるな。戦力なら戦力らしい働きをさせろ! この状況下で荷物になる奴はここには必要ない!」
 荒木は何度か言葉を遮られた挙句、そのまま開いた口がふさがらないようだった。代わりにみちるが席を立つ。素知らぬ顔、聞こえないふり、それらが限界に達したようで沈痛な面持ちのまま部屋を出た。感情的になってはいけない局面だ、それくらいは分かる。自らを制そうと誰もいない保安課のドアを開けた。
「……え」
誰もいない、はずだった。それだから、みちるは珍しく溜息全開でドアを開けたのだから。
「あーらら。どうしたの、みちるさん。この世の終わりみたいな顔しちゃって」
場違いにゆるい声で場違いな笑顔を振りまいて、場違いな男が課長席の前に突っ立っていた。
場違いもここまでくると一周回って救世主だ。
「浦島くんこそどうしてっ」
「あー、俺は昨日出しそびれた早退届とこの先の有休願をわざわざ出しにねー」
「じゃなかった! そんなのどうでもいいの!」
聞かれたから答えたのに、どうでもいいとはあんまりだ。みちるに言われると何故か二倍傷つく。苦笑いで取り繕おうとしていると、みちるが駆け寄ってきて京の二の腕をすがるように掴んだ。
「……みちるさん、そんなに俺のこと心配して……」
「そうじゃなくて! お願い浦島くん、何とかして小雪ちゃんを助けて……!」
 京の腕を掴んだみちるの両手は、かすかに震えていた。それでもできるだけ簡潔に冷静に、状況を伝えた。みるみるうちに京の顔色が変わる。それに気づいてみちるは思わず手を離した。ありていに言えば、別人のようだった。少なくともみちるの知っている浦島京介とはかけ離れた人物のように思えた。
 京は話もそこそこに、みちるの肩をたたくと無言のまま保安課を後にした。向かう先は決まっている。廊下の突き当たり、作戦本部のドアを開けるとそのまま反対側の壁にたたきつけた。
 騒然としていた場は、その音を合図として一瞬にして静まり返った。置物のように静止した職員たちの間をすり抜け一直線に宇崎を目指す。
「浦島っ、お前何を」
フリーズしていた職員の中で、いち早く解凍されたらしい金熊が立ちはだかろうとするも時すでに遅し。京は宇崎のシャツの襟を力任せに鷲掴みにしていた。十八番の罵詈雑言も吐く暇なく、宇崎はうめき声をあげる。京と宇崎の身長差だ、宇崎はつま先立ちでかろうじて気道を確保している状態だった。
「浦島、貴様ぁ……」
「よせ! 浦島、手を離さんか!」
金熊が後ろから羽交い絞めにしようとするも歯が立たず、荒木が遅ればせながら参戦。が、京はあろうことか直属上司群を振り払って、宇崎をデスクの端に追い詰めた。
「……あんたにとって部下は、使い捨ての駒かなんかなのか」
「つけあがるな……! セイバーズは、組織だ。組織に於いて代替の効かない人間など、ただの一人もありはしない」
 宇崎は常に正論を述べる。現実をつきつける。それを恐ろしく冷静に受け止めて上へのし上がった人間だ。彼は何一つ間違ったことを言ってはいない、京も当然それを理解していた。
 腰にまきついた金熊と、それをサポートする荒木、二人の懸命な努力によりようやく京を宇崎からひっぺ返すことに成功する。宇崎はデスクに倒れかかるように崩れ、咳を繰り返した。誰も駆けよらない。京は真っ直ぐに宇崎の目を見た。
「スプラウトセイバーズは、スプラウトの命と尊厳を守る組織だ。あんたのその正論の下で、俺は働けない」
京は再び、置物と化した社員たちに見向きもせず出口に向かう。一分一秒が惜しかった。
「京介!」
それだから金熊の呼びかけにも、半ば鬱陶しそうに肩越しに振り返っただけだ。
「使用許可を出す、持って行け!」
何を、という目的語は示されなかった。しかし京は瞬時にその意味を理解し、頷いてその場を後にした。
「金熊課長……浦島、いや藤和支社はこんなことをしてただで済むと思うのか……!」
襟元を正しながら宇崎が固定電話に手を伸ばす。受話器を掴んだところで、その手を金熊が勢いよく押さえこんだ。
「何の真似だ!」
「いや、あれ、おかしいな。手が勝手に……はははは」
金熊の突然の暴挙に、隣で見ていた荒木はまたも開いた口がふさがらないようだった。冷や汗を流しながらも金熊は力を緩めない。
「あいつの好きにやらせてやっちゃーくれませんかね」
「お前ら、やってることの意味がわかってるのか」

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