Tactile World Chapter 10

 次に目を覚ましたとき一番最初に目に入れたのは見慣れた自宅の天井だった。但し自室の、ではない。意識が戻ってしばらくは薄ぼんやりとリビングの高い天井を眺めていた。それに飽きてくると眼球だけを動かして見える範囲の様子を窺う。ミイラ状に包帯を巻きつけられて同じく横たわっているのは間違いなくベオグラードだ。容態を案じたのはほんの一瞬だけで、重厚ないびきが聴こえていることに気づくとフレッドは安堵と、その倍以上に脱力を覚えた。
 マリィには気の毒だが、眉尻を下げて懸命にベオグラードの手当てに当たる妹の姿はフレッドに安息と、この場所にいる実感をもたらしてくれていた。できれば暫く、ごく短い暫くで構わないからその光景だけを眺めていたかったが視界の大半は非現実的な要員に占められているから不可能だ。寝がえりをうってごまかそうとしたのを、予想外の人物に妨害された。
「てめぇ起きたんならそう言えよ。何タヌキ寝入りかまそうとしてやがるっ」
視界がルレオの顔面で一杯になった。これが現実だ。悪あがきだとは思ったが瞼を閉じた。
「フレッド、気がついたの?」
「お兄ちゃん!?」
できれば最後の問いかけには両手を広げて応えてやりたいところだ。しかしそうはできない理由──一般庶民宅の薄汚れたソファーに腰掛けている王族の姿がフレッドの意識レベルを引き下げていた。顔をしっかり見たことはなくても、そこに佇むのが皇女セルシナ(本物)であることは分かる。内からにじみ出る品格が彼女の身分証明のようなものだ。そしてその横に乞食さながらの覇気のなさで以て虚ろに宙を見ているファーレン十三世。もはやかつての、という補足が必要になった哀れな王の抜け殻がそこにあった。
「なんか……あり得ない光景だな」
言いながら身を起こす。自分自身がどこをどう負傷しているのかいまいち分からないのは、ミイラ男、もといベオグラードに負けじと包帯を巻きつけられているせいだ。窮屈さばかりが先行するがおかげで痛みや熱が和らいでいることも確かだった。
「ベオグラードさんは……ずっとあのままか?」
皆が口をつぐむと高いびきがやたらに響く。心配するのもバカらしくなりフレッドは質問しておきながら答えを待つのをやめた。深く長く吐息を吐きながら次のどうでも良さそうな質問を考える。まだ面倒なことで思考回路をフル回転させる気力がなかった。
 普段ならそんなフレッドの心情を察するマリィだが、今回ばかりはそうもいかずぼんやりした表情の兄をもどかしそうに見つめる。迷った挙句結局口火を切った。
「お兄ちゃん、フィリアさんが二階で寝てるんだけど……ずっと下りてこないの。私心配で……」
「は……? フィリア……?」
思わず席を立つ。無意識に呼びなれた彼女の名前が口をついて出た。
「地下牢の奥に監禁されてた。彼女があの“スイング”の──」
クレスは対照的に出かけた言葉を呑みこんだ。その事実を確認することがこの場では、とりわけ彼の前ではひどく場違いなことのように感じられて、螺旋階段を上る背中をただ黙って見守る。続きを口にしたところでおそらくフレッドの耳には入らなかったようにも思える。と、段の途中でフレッドが思い出したように振り返った。
「悪い、ベオグラードさんが起きたら教えてくれるか。しばらく上にいる。呼べば聞こえるから」
「あ、ええ。わかった」
クレスが頷くのを確認してフレッドは怪我人の割に急ぎ足で階段を上った。呼べば聞こえるから──、要するに二階には立ち入って欲しくないのだろう。フレッドが先刻見せた無意識の反応、一瞬のそれがクレスにあれこれ思索をめぐらせた。
 ドアノブを静かに握る。閉ざされた扉の前で今一度、その名を呼んだ。
「フィリア」
室内に気配はあるが返事はない。わかっていたからフレッドは反応を待たずにドアを押した。ベッドの上で上半身だけを起こして窓の外を見ているフィリア、視界の中央に捉えたがフレッドは慎重を期した。後ろ手にゆっくりとドアを閉める。
「ノックは?」
「ごめん、寝てるんだと思った」
扉が閉まる。フィリアの方が先手を切った。切り返してはみたがその後のカードを何一つ準備していなかったことに気づき、僅かに沈黙が訪れた。
「マリィが心配してる」
「……もうしばらく休んで、下りようと思う。ごめんね、フレッドも大怪我してるのにベッド占領しちゃって」
「そんなのは……いいけど」
顔色の悪いフィリアが、それでも他人のために笑顔を作るのを見かねてフレッドは視線を落とした。話を切り出すタイミングを下手したら逃しかねない。どうでもいい会話で構わないから沈黙を避けたかった。そのどうでもいい会話が出てこない。
「助けてくれてありがとう、フレッド。もうここには帰って来られないと思ってた」
「俺じゃないよ。仲間が見つけたんだ。俺はさっき聞いて……」
呼ばれ慣れたはずの名前に鼓動が高鳴った。やつれた彼女のささやくような声に、忘れたふりをしていた感情がくすぶり出す。
 フレッドは大きくかぶりを振った。そしてまっすぐにフィリアを、その瞳を見た。
「スイングと会った、城内で。……俺、やっぱり……フィリアには悪いけど、あいつ許せそうにない……! 俺だけじゃなくベオグラードさんにまで平気で……!」
「分かってる。スイングが何をしようとしているのか、何を考えているのかは私にもわからない。だけどね、フレッド。忘れないでほしい……あの人はやっぱりあなたのお兄さんなんだってこと。私のことはいいの、でも二人がいがみ合うのは……傷つけあうのはもうたくさん」
 胸が痛む。ただ漠然とした得体の知れない痛みにフレッドは眉を顰めた。
「そうだな……ごめん、無神経なこと言った。俺にとっては天敵でもフィリアにとっては……違うもんな。あいつが馬鹿なことする前に止めるよ。フィリアにも謝らせなきゃな」
できるだけ優しく穏やかに、フレッドにとってその意味での作り笑いは容易だった。あの頃のようにフィリアに全ての感情をぶつけても仕方がないことを理解していた。
「マリィには俺から伝えとくからもう少しゆっくり寝てろよ。きついのに話させてごめんな」
あっさり振り向いてドアノブを握る。と、フィリアが小さくかぶりを振ってフレッドを呼び止めた。
「フレッドは……どうするの」
「まだ分からない。ベオグラードさんと相談して決めるよ、どっちみちここに留まっても……始まらないしさ」
フレッドは振り返らずに答えた。そのまま部屋を出て後ろ手にドアを閉める。しばらくその場で俯いて気持ちの高ぶりを抑えていた。スイングへの怒り、自分への歯がゆさ、フィリアへの想い、その全てが混ざりあいフレッドの表情を険しくさせる。歯を食いしばり瞼を閉じてこみ上げてくる何かに耐える。
「お兄ちゃん!」
妹の慌てた声に咄嗟に顔を上げた。下をのぞくとベオグラードが白い繭のように包帯でくるまれた両手をぶらぶらと振っている。
「おい何が呼べば聞こえるだタコ! 三回呼んだぞ三回!」
ルレオの罵声を浴びながら階段を下る。ベオグラードの前まで来て軽く会釈した。



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