Fine Snow Chapter 13

 三日三晩ベルトニアで平凡な日を過ごした。それはフレッドにとっての話で、その間ミレイは負傷したベルトニア兵の看護に当たっていた。もちろんフレッドもルレオも真似ごとのようなことはしたがそんなものはせいぜい三日三晩が限度である。つまり、今だ。耐えきれずサンドリアの部屋へ向かう途中だった。誰かの(もはや分かりきっているが)舌打ちが不意に耳をかすめる。
「てめぇもかよ。大人しく身内の看病でもしてりゃあいいものを」
「生憎俺はブラコンじゃないんでねっ」
そんなことは改めて言われるまでもない既知情報だが、昼夜問わず皮肉が挨拶代わりの男にはこれくらい面白くもない応答が妥当だ。スイングと言えば、彼は第二ラインのことをフレッドたちに(半ば強引に)託した後、力尽きたように意識を失った。命に別状はない、というのが軍医の見解だ。今は信じるしかない。
「開けろよ、用があるんだろ?」
サンドリアの部屋の前で二人は仲良く並んで突っ立っている。出会いがしらに気分を害したフレッドとしては微々たる反撃のつもりで、顎先でそうルレオに促した。
「開けろだあ? 誰に向かって言ってんだ、てめぇが開けやがれ」
ここでゴングを鳴らしてももちろん構わないのだが、フレッドは口の中で嘆息をすると無表情にドアノブに手をかけた。無駄に血気盛んなときのルレオはスルーに限る。それが賢者の判断というものだ。
「二人揃ってどうしたんだね? 珍しいな。私に用かい?」
 声は部屋の中からではなく、フレッドたちの背後からかけられた。事もなげに突っ立っているサンドリアに苦虫をつぶそうとしたところに、それよりも早く──やはり無駄に機敏な動きで──ルレオが勢いよく詰め寄った。
「どうしたもこうしたもねぇ! いつまで待たせる気だぁ? 化石になるぜっ」
「せっかちだなぁ君は。そろそろしびれを切らす頃だとは思っていたよ。丁度今君たちを呼びに行こうと思っていたところだ、何、手間が省けたな」
刺々しいルレオを鮮やかにかわして軽快に笑うサンドリア。その業に感心していたフレッドだったが自分にはできない業だと悟るとすぐに肩を落とした。肩すかしをくらったルレオは勢いを失って舌打ちだけを残す。
 いつも以上に機嫌の良いサンドリアに連れられて、二人はベルトニア城の裏の岸壁までやって来た。ほんの三日前までここは戦場で、大罪に倒れた兵で埋め尽くされていた場所だ。今は打ちつける波の音だけが激しく響く、いつもの光景を取り戻していた。
「フレッドさーん、ルレオさーん! 見てくださいよこれっ。これで海渡れるんですよ~」
ミレイが足場の悪い岩の上で嬉しそうに跳ねている。理由はすぐに分かった。
 大きな籠がある。その上方に籠の十倍はあろうかという大きさの風船が、その巨体をふらふらさせて揺れている。風船の中央にはベルトニア王家の紋がこれ見よがしに描かれていた。
「これってひょっとして……気球、ってやつですか。水素で浮くとか浮かないとかいう……」
「お! よく知ってるな。いかにもこれは気球、立派な空飛ぶ船ってやつだ! テスト飛行は済ませてあるが十分気をつけるように!」
フレッドはサンドリアの適当な説明を適当に聞き流して、気球なるものの全貌を眺めまわした。とにかくふわふわしている。この絶対的な第一印象をどう改善すればいいのか、考えが及ばず項垂れた。横目でルレオを見やったがそう違わぬ反応だ。違うのは、それらの拒否反応を前面にアピールするところである。
「おい、ふざけてんのか。第二ラインだぞ? 海流だけじゃなく、ラインに沿って気流も乱れてんだろうが! こんなしょぼいので上空になんか行けるか!」
「あら、意外と博識」
焦点のずれたところに感心するクレス、彼女は別段この気球については不満はないらしい。フレッドにはその方が意外だった。
「乱気流っていってもそんなに警戒するほどのものじゃないわ。ファーレンの母艦だったら何の問題もなく越えられる程度よ」
「だったら何でファーレンは第二ライン以北に関してはノータッチなんだ。軽く超えて、領土でも何でも好きに増やしゃあいいじゃねえか。お得意分野だろ?」
サンドリアが後方で冷や汗を滝のように流している。無論目視はできないからフレッドの想像の範疇にすぎないのだが、青筋を浮かべたクレスと白々しく素知らぬ顔をするルレオの顔を眼球だけで追う様を見れば何となく胸中は読める。
「メリットが薄いから、でしょ。そもそもライン以北にはとりわけ重要視するような大陸も無いし、まず人が住んでない。第二ライン沿いにある島はファーレン領だけど、あそこは海路で十分事足りる」
「あーそうかよ。で、俺たちはそのなーーんにもメリットのない第二ラインに、この風船で行って? 何をどうするって言うんだよ。赤髪のガキが来るまで待ち伏せるってか?」
「何の言い訳もしなければそういうことになるわね」
「はあ? お前本気か?」
 ルレオの言いたいことは分かる。本音を言えばフレッドも彼寄りの感慨だったから、その身も蓋もない発言に訂正を加えようとは思わないが賛同はしない。何気なしにミレイに視線を移した。それを見越したように彼女もにっこりと微笑む。
「大丈夫、来ます必ず」
「ほらな、待ち伏せるしかねーんだよ。駄々捏ねてないで乗れって」
気球そのものに不安はあるが、第二ラインに向かうことには迷いはない。ミレイが自信満々に頷かなくともフレッドは強行する気でいた。〝第二ラインの解放"により、再びあの悲劇繰り返されるのだとしたら──。
 フレッドはかぶりを振った。今は何も分からない。考えて答えの出る問題でもないから、分からないなりに動くしかない。その方法論が見当違いではないことはクレスやミレイ、そしてサンドリアの賛同が得られれば十二分に分かることだ。やけに目立つ一部の反対勢力は基本的に目をつぶっていい。というより、基本的に奴はいついかなるときも反対勢力だ。
 籠の中に各々陣取る。ルレオが胡坐をかいただけで随分窮屈な空間に感じられた。
「飛べ! さっさと! あがれ! 進め!」
「うるさいわね……そんなにすぐ浮くわけないでしょう……」
クレスが眉をひそめた刹那、散々罵声を浴びせられた哀れな気球は当てつけのようにゆっくりと腰を上げた。不安定に左右に揺れながらも、徐々に平行になり景色を下へ下へ流していく。サンドリアの歓声や忠告、激励や餞別なんかがどんどんと遠ざかって、やがて米粒大になると視界から消えた。下ばかり見ていたフレッドがそこでようやく視線を真っ直ぐに戻した。目の覚めるような青空! が眼前に広がる前に大あくびを漏らすクレスが視界を塞いでいる。
「……クレスは軍艦に乗ったことあるんだよな?」
「え? ああ、空母? 偵察なんかで乗るわよ。なんで?」
自分から訊いた割にはつまらなそうに返事をするフレッドにクレスが小首を傾げる。彼女のうしろに広がる空を、眺めた。
「俺、空飛ぶの初めてかも」
そして思わず呟く。ミレイのように身を乗り出して思いきりはしゃぎはしないが、心臓が良い緊張でいつもより早鐘を打っていることは自覚していた。クレスにはそんなフレッドが少年のように映って微笑が漏れた。
 風は比較的穏やかだ。それが絶対的な安堵をもたらさなことは知れているが、序盤くらいは優雅に空の旅を決め込んでいたいところだ。否が応でも第二ライン(海境)に近づけば空も海も荒れる。
「昨夜サンドリア隊長と話したんだけど、予想される乱気流に突入するのが約二時間後。そこからどれくらい距離をとって滞空していくかが問題になるわけだけど──」
「何だよ、ノープランか」
クレスの額に再び青筋が出現する。浮かれていただけのミレイが仲裁に入り、狭い空間内で大人げなくののしり合いを始めるルレオとクレス、無関心を装うために景色に集中するフレッド、その因果があるのかないのか何とも言えない各々の行動が結果的には功を奏した。しかしそれもいち早く事態に気づく、という点でのみの話だ。図らずとも監視役を引き受けていたフレッドが血相を変えて振り向く。そのままずりずりと隠れるように身を伏せた。



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