「無駄だとは……俺は思わない」
クレスを諭したつもりはない。フレッド本人はただ自分に向けて確かめるように呟いただけだ。それがこの時ばかりはやけに目立って皆の注目を集めてしまった。
「何もしないうちから諦めるのは嫌だ。神だか死神だかの顔色を窺って生きるのも、嫌だ。どっちにしたってルーヴェンスをこのまま放っておけば、俺たちの大事なものは全部無くなってしまう。……俺は俺の、守りたいものを守りたい」
いつもより飛びぬけて速い流れに、フレッドは逆らおうとしている。沈黙の中でこの男、言うまでもなくルレオだが、彼だけは緊張感なく大音量のくしゃみなどをかましていた。唾液をそこらじゅうに飛び散らせて他者をのけ反らせる。
「あーっ! フレッドにしちゃあ良いこと言ったな。気持ち悪ぃけど。ルーヴェンスも死神様も、そうやろうとしてることは変わらねぇじゃねえか。それでルーヴェンスは罪人で神は免罪、か? どう考えたって馬鹿げてるぜ」
「そうですよっ。私だって予言者ですから、死神になんか負けません! 頑張りましょう、クレスさん!」
クレスは苦笑して肩をすくめた。よりにもよってこのメンバーに励まされるのは屈辱だ。しかしそう悪い気はしない。皆が皆、らしくない台詞を吐いていることに気づいていないあたりもクレスの失笑を促進させた。そしてそんな連中に生温かい目で見守られていることが恥ずかしくなって、照れ隠しとばかりに咳払いをした。
「そうね。やれるだけのことは、やりましょう。ここまできたんだもの、ベルトニアや協力してくれる人たちに合わせる顔がないわ」
今までのどの瞬間よりも、この三人の存在が大きくて温かくて力強く感じられた。クレスの早い立ち直りを受けて、今度はフレッドが失笑を漏らす。剣を手に取り、窓の外に目をやった。先刻よりも吹雪は勢いを失っている。
「……みんなもう行っちゃうの? その、なんだっけ。ファーレンって国に帰る……?」
ひとり席に着いたままのシルフィ、眉尻を下げてフレッドに何かを訴えてくる。その目は寂しさと不安の入り混じった、孤独という感情を代弁していた。
呼び止められて、振り向いて、そのシルフィを視界に入れて、フレッドは立ちすくむ他術がない。クレスもそんな様子に気づいて足を止めた。刹那──。
ゴスッ──後頭部に角ばった、おそらく誰それの肘部分の骨をもろにくらってクレスは二三歩よろめいた。
「何するのよっ」
すぐさま振り向いて鬼の形相を肘鉄の張本人に向ける。ルレオが意味深な嘲笑を浮かべて満足そうに立っていた。クレスは後頭部をさすりながら疑問符を浮かべてその目を睨みつける。
「もう少し普通の呼び方ってものがあるでしょうが……」
「そうそう、そうでないとな。諦めてくれるのは勝手だが、あんたらしくないのも気持ち悪い。いつも通りキーキー喚いてないとこっちの調子が狂うぜ」
クレスの目が点になる。一応注釈を入れるがルレオの表情は決して優しげでもなく、ましてや爽やかさなんてものは欠片もない。皮肉のたっぷりこもった視線をいつも通り斜め上の方から下ろしてくるだけだ。そしてそれがどうしようもなく彼らしい。クレスは特に苛立ちもせず、それを彼流の励ましだと受け取った。
「キーキー喚いているのはお互い様でしょ」
会心の笑みを浮かべてクレスはまたいつものように──どこかいつも以上に──胸を張って真っ直ぐに前を見た。
その少女の屈託のない笑みを見て、フレッドは考えていることを口に出すべきかどうか迷った。中途半端な優しさと善意が、彼自身にその許容を越える責任を背負わせることは言うまでもない。フレッドは現時点でわけのわからない出所の責任を既にいくつか背負う羽目になっているし、この期に及んで自ら手を挙げて負担を増やそうなどとは思えない。そんな風に思考を巡らせて無意識に後ろ手で頭を掻いた。シルフィはそれを見逃さず、ゆっくり背を向けると大きく伸びをしてみせた。
「あーあっ。久しぶりのお客さんで疲れちゃった。洗い物してお昼寝しよーっと」
フレッドはばつの悪そうな顔を晒して再度頭を掻いた。言わざるを得ない、気がした。
「えーと……、一緒に……来る、か?」
自分で自分に探りを入れるフレッド、その恐る恐る投げられた爆弾発言にフレッドより数段苛立ったふうに頭を掻きながらルレオが割って入って来た。実にリズミカルにフレッドの胸座を掴んで、実にテンポよく口元をひきつらせる。掴まれた態勢のままフレッドはかたくなに明後日の方向に視線を送っていた。
「おい兄ちゃん……いい加減にしろよ、大概にしろよ、馬鹿げたことぬかすなよ? こんなもん引き連れて今後どうすんだ! 運動会じゃねえんだぞ!」
「分かってるって、放せよっ」
分かっているからこそ極限まで躊躇した。うんざりした目でルレオの荒業から抜け出ると手早く襟元を正す。通算?回目の見飽きた二人のやりとりをクレスは腕組みをして黙って睨みつけていた。
「どうせ事が済んだらベルトニアに戻る、それまでの間だよ。後は王にでも相談してどうにかしてもらえばいい。どっちみちここには置いていけないだろ」
横目でちらりとシルフィを見やると喜色満面で頷いて賛美の拍手を送っているところだった。
「好きにしろっ。でもいいか、保護者はあくまでお前だぞ。こいつが何かやらかしたときは責任はぜんっっぶてめえにあるんだからな!」
「分かったって……」
聞いているのかいないのか生返事をしながらフレッドは出口へ向かった。シルフィはというと、ルレオを悪魔でも見るかのような目つきで睨んでアカンベーなんかを繰り出している。地味で古典的な方法だがルレオのような男にはこういう方が効果がある。さっそく怒鳴り散らそうとするルレオを押さえてシルフィは救世主となったフレッドにしがみついた。
「さっすがフレッド! こんなところにお姫様を放ってはおけないもんね! 一生ついていくわっ」
歓喜のおたけびをあげるシルフィにもルレオと同じような生返事を返して、フレッドはひとり自分の今後について頭を悩ませていた。穴があったら入りたかったがおそらくそれは墓穴というなの穴だ。フレッドが小さく嘆息する横で、クレスは観察もそこそこに窓の外に視線を移した。
「それはそれとして……私たちはどうするの。気球はもう使えない。ここを脱出する手段が他に?」
「船ならあるよー。ちゃんと整備してあるやつ」
シルフィがあっけらかんと応答する。クレスは顔色を変えずただかぶりを振った。
「船は第二ラインに落ちるでしょう? それにあの辺りは海流も荒れてるし……」
「ずっとじゃないよ。短い夕凪の時間には海境はうんと狭くなる。その時間と、ポイントさえ知っていれば船で十分海境は越えられる」
「それを──」
「もっちろんシルフィが知ってるよ。ね? さっそく役に立つでしょ?」
クレスは肩眉をあげて思わずフレッドを見た。彼も同じような顔で苦笑している。北の大陸のおませな少女は、お荷物どころかもしかしたら思わぬ拾い物なのかもしれない。
「そうと決まればその船のところに行こうぜ。いつまた吹雪くかも分からないわけだし──」
そう言いかけて、フレッドは口をつぐんだ。できれば見なかったことにしたい状況が視界の隅で始まろうとしていた。否、それはもうすでに始まっていて、しかしこれから始まることである。談笑を交わしていた中でミレイがひとり、俯いて唇を震わせている。これを目にしたときは瞬時に覚悟を決めなければならないときだ。
「ミレイ」
「その船で、第二ラインに向かうのが先決です。ルーヴェンス軍が、来ます……! 船は一隻、とても大きなものです」