ここでフレッドは惜しげもなく眉をひそめた。サンドリアの目に、不快を顕わにした顔つきが映るのをもはや厭わなくなっていた。
「……何故今になってベルトニアが動くんです。ルーヴェンス側にはもうスイングもいない。下手に事を大きくしても犠牲ばかりが増える……」
「フレッド……!」
クレスが椅子から腰を浮かせる。サンドリアは腕組みをしたまま無表情を貫いていた。
「もう一度言うわ。これはもう私たちだけの問題ではなくなった。それにベルトニアはここまで私たちを全面的にバックアップしてくれた上、死神による甚大な被害を受けているのよ? それを……」
「だとしても!」
クレスの甲高い声をせき止めるために、フレッドはいつもより低く声をあげた。机上で握りしめたままの拳に更に力が入る。
「スイングがルーヴェンス側にいないってことは、〝多大な犠牲"の筆頭は俺の家族と村だ。はいそうですかって素直に受け入れられるわけないだろ……!」
悪あがきであることは承知の上だった。面倒そうに嘆息するルレオや、無表情のまま少しだけ目を伏せたサンドリア、そしてフレッドと同じように不快を顕わにしたクレスを睨みつける。真一文字に結ばれていた彼女の唇が、ゆっくりと静かに開かれた。
「……もとはと言えばあなたの不始末が原因じゃない」
「おい、クレスくんっ」
今度はサンドリアが、意表を突かれて目を見開いた。が、クレスは黙らなかった。
「スイングは確かにもういない。だけどあなたの友人がルーヴェンス側には就いてる、それも見たところかなりの側近として……。それが分かっていてあなたは彼を討たなかった。あのとき確かにそうできたにも関わらず──」
フレッドは席を立った。椅子が勢いよく後方に倒れる音が、クレスの言葉を遮るように鳴り響く。しかしそれも彼女の苛立ちを留めるには至らなかった。
「これはフレッドと彼の喧嘩じゃない。懸ってるのは国で、犠牲になるのは国民なのよ! それをあなたは何も分かってない! 分かろうとしてない! あなたが私情で動くだけで犠牲は出ているの!」
「生憎俺はあんたと違って愛国心も軍人意識も持ってない。私情がなきゃ誰が好き好んで死神相手に戦うってんだ!」
フレッドの守りたかったものは国ではない。ましてや国王でも皇女でもない。彼は彼の家族や友人、生まれ故郷、愛する人を守りたかった。変えたいと望んだはずの日常を、ただただ平凡でつまらない、そしてどこか懐かしくて温かい日常を取り戻したいだけだった。それはいつからだったか。始めからそうだったのか、いつの間にかそうだったのかはフレッド本人にも分からない。だが今はそれが確かに原動力となっていた。戦う理由になっていた。
「……例えば皇女が〝必要な犠牲"だと言われたら、斬るのかよ」
「馬鹿言わないで。皇女と彼とじゃ──」
「それが傲慢だって言うんだよ。人の命に甲乙つけて理想ばっか語ってんな」
「フレッド君……! いい加減にしないか! クレス君も……っ。今日はもうよそう。全員部屋に帰ってゆっくり休みなさい」
サンドリアがようやく声を荒らげた。聞き覚えのある台詞を吐いている、もとはと言えばその休養とやらがほとんど与えられなかったせいで必要以上に頭が重いのだ。フレッドが苛立ちの矛先をじわりとサンドリアに向けていた最中、クレスは黙って部屋を出た。
目で追う気にもならないのは、口走った言葉が本心だったからに他ならない。フレッドも静かに席を立って自室へ向かった。個室の方向が真逆であることはせめてもの救いだ。自覚しているいくつかの自己の非と、それでも譲れない思いが胸中でせめぎ合っていた。
シルフィは暫く時をおいて、クレスの後をつけることにした。というのも、彼女が自室とは別の方向へ歩を進めるのが見えたからである。好奇心とは別の、もっと複雑で深いところの気持ちがシルフィを駆り立てた。廊下の突き当たりにある半開きのままになった扉が手招きする。シルフィは息を殺してゆっくりと、扉を押した。
「どうかした? つけてたでしょ、ずっと」
扉のすぐ横の壁に体を預けて、クレスはシルフィを待ちかまえていた。意表を突かれて思わず背筋を伸ばして小さく悲鳴をあげるシルフィ、クレスの口元から笑みが漏れた。
「お部屋に帰らないで何してるのかなーと思って……っ」
シルフィも愛想笑いで誤魔化す。クレスは答えず、部屋の中央に厳かに構える黒いグランドピアノの椅子をひいた。そして鍵盤をひとつ、軽快にはじく。ふたつ、みっつ、指を滑らせてとりとめのない旋律を奏でる。シルフィはピアノの脇に立って、暫く微動だにせず耳を傾けていた。美しい音色がまるで魔法のようにクレスの指から生まれる。それはすぐに消えるうたかたのようでもあったし、いつまでも残る幻のようでもあった。
クレスが息をついて指を離すと、タイミングを見計らった拍手がこだました。
「凄い! クレスってば、ピアノ上手なのね! ね、もっといろいろ弾いてみせて?」
「いいよ、そうね……」
シルフィの歳に不釣り合いないつものしっかりした表情が崩れ、内から無邪気さが溢れだした。平然とした顔で難しい言葉を並べる少女は、ピアノの奏でる音色に本来の表情を思い出したようだった。
クレスはゆっくりと、流れるように鍵盤をたたく。彼女が選んだのは『ラルファレンスの指輪第三楽章「瞬間」』──その名の通り、奏でられる一音一音が儚く繊細、シルフィは鼓膜を震わせる初めての感動で言葉を失っていた。また、拍手が響く。
「今のは? 今のはなんて曲? すっごく綺麗!」
「ああ、そっか。話は知ってるのよね? 今のがラルファレンスの指輪よ、第三楽章。残念ながら私は改定後の話しか知らないんだけど、曲は同じだから。……話の方はシルフィがフレッドにあげた本の方が本来のものらしいわ」
「そうなの? だったらフレッドから借りてクレスも読んだら──……っと」
今その名を口に出すのはタブーなような気がして、シルフィは慌てて口をつぐんだ。クレスの顔をおもむろに見上げてその反応を見る。特に目立った変化はなかった。
「そうね、今度借りて読んでみることにする。私も気になってたしね」
その口調は穏やかで優しかった。先刻とは打って変わって、である。そのギャップに戸惑って、シルフィは唸りをあげた。
「……どうかした?」
「うーん、あたしてっきりクレスはフレッドのこと好きなんだと思ってたの。でも今日の二人見てると恋人とかって以前の問題よね。嫌いなの? フレッドのこと」
齢二ケタに満たない子どもの言う台詞ではない。やはり侮れないとクレスが息をのんだ。
「嫌い、じゃないわよ。恋人なんかではもちろんないけど。ただ──」
一瞬言葉を詰まらせた。クレスの喉元まで通っていたはずの言葉は、そこで検問に引っ掛かったらしい。音声になることなく呑みこまれる。
「何でもない。気にしないで」
「あ、子どもだからってはぐらかそうとしてない? そうはいかないんだからっ」
目ざといというかあざといというか、図星をつかれてクレスの背に新しい種類の汗が伝う。取り繕った笑顔で何とかその場を乗り切ろうと話題を変えた。
「そうだ。ラルファレンス、教えてあげようか。シルフィならすぐ覚えられると思うし」
「え、いいの?」
また表情がくるりと変わる。大人顔負けの的を射る発言と、この子どもらしい嬉しさをこらえきれない口元、ギャップどうので言えばシルフィのそれの方が顕著である。何にせよ、うまく話を切り替えられたようでクレスは人知れず安堵のため息をついた。
「そうね、覚えやすいフレーズからいこうか」
再び指を躍らせる。シルフィは上下する鍵盤とクレスの顔を交互に見やりながら煮え切れない気持ちを表に出さないように努めた。クレスにしてみればうまくはぐらかしたつもりなのだろうが、シルフィからすれば、そんなものはこちらが取り繕ってあげたにすぎない。
(結局ライバルとして認めていいのかなあ……? クレスって案外いい人だから、そうなると困るなあ。……美人だし)
考えていることと、指先は器用に別の動きをしてくれる。クレスが弾いたフレーズを、そのままなぞるように繰り返して、つたないながらも「ラルファレンスの指輪」を覚えていくシルフィ。呑みこみの早さにはクレスも驚くばかりで、照れるシルフィの分まで引き受けるようにその上達を喜んだ。
即席ピアノ教室は日が暮れるまで行われ、二人は他愛ないときを過ごした。仲の良い姉妹のようにピアノを囲んで歌い、飽きもせず同じ曲を繰り返す。それはクレスがシルフィを通じて伝えようとしたメッセージだった。それを当人以外が知るのは夜が明けてからのことだ。今はただ、美しく儚い夢のように「瞬間」を謳うのみ──。