Causal Relation Chapter 14

 平常ならこれで終わる。クレスが早々に気持ちを切り替え、後れをとりつつもフレッドもそれに倣う。しかしそのセオリーが、今回に限っては適用されなかった。ルレオの言う〝あんな船"はクレスにとってとても深い意味のあるものだった。そしてそれを、自らの手で沈めたという事実はクレスの脳裏に、心に絡みついて離れない。
(事実……)
クレスは胸中で反芻した。これもまた、事実。彼女自身の判断と行動の結果であり、揺らぐことはない。
「ライン越えるよー! 気をつけてっ、この船ぎりぎりみたいだから!」
 小さな船頭が力いっぱい声を張り上げた。予想される衝撃だの傾斜だのに備えようとした矢先、船体は底なしの谷に臆することなく飛び出した。船は焦るわけでもなく急ぐわけでもなく、僅かな風のその速度でゆっくりと進む。そして、傾く。
「だぁぁぁ! チビ! 傾いてるぞ!」
「だからぎりぎり何だってば。先端に寄り集まらない方がいいかも」
悠長に構えるシルフィを押しのけて、ルレオが這いつくばるようにして船尾へ走り抜ける。それが無駄な振動を生み、無駄な混乱を招いていることなどお構いなしだ。マストにしがみつきながら、今度こそ渾身の力で文句を垂れてやろうと睨みをきかせるフレッド。しかしまたもやタイミング良く、船首がラインをまたいだ先の海面に到達する。平行になる船体と感覚にほっと胸をなでおろしたのもつかの間、ルレオがまたも全速力で船首の方へ駆けだした。確かに少し考えれば次は船尾が宙ぶらりんになることは明白だが、それにしても他者への助言や忠告は全くしないところが彼らしい。
 船首に移動しながら、フレッドは興味本位で海面を覗き込んだ。そこに海面はなく、あるのはただ深淵のみ。北側と南側から延々と海が滑り落ちていく。滝壺のない巨大な滝は、怖ろしく静かだった。この世のものとは違う、としか形容できない異質な風が深淵からこの世界へ放たれていた。
(見るんじゃなかった……)
生唾を音を立てて飲み込むと、彼は彼の暮らす世界へ逃げるかのごとく、船首へ向けて這った。
 僅かながら心地よい風が吹きはじめる。そしてやはり控え目にではあるが波の音が思い出したように鳴り始めた。一定のゆるやかなそのリズムに鼓動を合わせるように深呼吸する。
「やった……! やりましたねー! ライン超えました! シルフィちゃんの言う通りっ」
各々に地味に胸をなでおろす中、ミレイが両手を挙げて興奮を顕わにした。得意そうに反りかえるシルフィを除けば、残りのメンツは実に冷めていた。同意を得られないことに何らかの空気の摩擦を感じ取って、ミレイもすごすごと両手を下ろす。
「さすがサンドリア隊長ね。迎えの船をよこすなんて気が効いてるわ」
クレスが独り言のように呟いたとおり、ベルトニア王家の紋章をはためかせた大型汽船が厳かにこちらに向かってきているのが見えた。一行はここでようやく安堵のため息をつく。クレスが素早くシルフィに視線を送る。
「この船も収容してもらおっか。……おじいちゃんの船だもんね、こんなところに放っておくわけにはいかないでしょ?」
「え、う、うん!」
不意をつかれてどもるシルフィをクレスは優しい笑みで以て返した。先刻フレッドに対してきつい言葉を浴びせていた当人だとは思えないほど快い笑み──時間を要しても必ず気持ちを切り替えるのがクレスだ。
「おーい! みんな無事かねー? 今拾い上げるからなぁぁ」
甲板で手を振っているのはサンドリアだ、顔など見えなくても一発で分かる。
 そこまで貧相というわけでもなかったシルフィの祖父の船は、ベルトニア軍艦に並ばれるや否や一気に小さなボロ船のように成り下がった。軍艦など、ましてや国所有のそれなど目の当たりにしたことのないシルフィは開いた口を閉めては、また開けていた。それに乗り込む、考えただけで瞳が輝いた。キラキラした目で期待と好奇心に胸を躍らせていると、先刻大声でこちらに手を振っていた中年男性とフレッドが、甲板で力強く握手を交わしていた。
「うむ! 全員無事のようだな、よろしいよろしいっ。それで第二ラインは……どうなった?」
気のよい近所の大将から、軍人の顔へ変わる。工面したベルトニア製の気球がどうなったかなどには目をつむってくれるところがありがたい。フレッドもそれに合わせて二、三度生真面に頷いた。
「死神と直接は対峙しませんでしたがルーヴェンス軍の大型汽船を一基沈めました。当分は第二ラインは安全だと、思いたいですね。それとは別に収穫もありました。……えーと、この子のことなんですけど……」
「この子?」
フレッドが視線を泳がせる先を見るが、サンドリアの視界には海と空が広がるばかりだ。と、突如懐から何かが視界に割り込んできた。すぐさま下方に眼球を向けると、サンドリアの巨体に合わせて懸命に跳ねるシルフィの姿があった。
「おぉ! こりゃまた元気お嬢さんだ、娘と同じくらいかな?」
「シルフィです。よろしくお願いしまっす」
小さな体を折り曲げて丁寧にお辞儀をするシルフィ、サンドリアは感嘆を漏らすばかりだ。
「しっかりしてる娘さんだなっ、感心感心。この子は一体?」
シルフィに微笑みかけながら、サンドリアは視線だけをフレッドに移した。そう単刀直入に問われても一言では説明できない。言葉を濁して頭を掻いているとサンドリアはフレッドの胸中を察してか、何度か頷いて勝手に納得しようとしていた。
「まあ、詳しい話はベルトニアについてから聞こうか。どのみちいろいろと報告してもらうことになるだろうし。到着までゆっくり休むと良い」
「……はい、そうさせてもらいます」
 ゆっくり休む、それは今のフレッドにとって重要なことである気がした。睡眠をとれば少しは胸中が晴れるかもしれない。そう考え実行に移したのもつかの間、浅い眠りに突入してから数十分後には船はベルトニア港に入港した。中途半端な休息はフラストレーションを生み、フレッドはより一層胸中に靄を抱える羽目になった。


 ベルトニア城の廊下、そのアーチ型天井の下を通るとき、フレッドは決まって機嫌を悪くしていた。いささか長すぎる廊下だが、とりわけ不満を抱くようなものではない。芸術的な天井にも無論因縁はない。たまたまフレッドの機嫌が悪いときに、たまたまここを通り抜けなければならない用があって、それが百発百中という偶然が重なっているにすぎない。とにかくフレッドは、この時点で既に苛立ちを隠せずにいた。
「フレッドさん、ここは堪えましょうよ……っ。ぐっと」
後から付き人のごとく小走りで追ってくミレイ。そんな必要はないのだが何故かびくついている。彼女の態度が余計に神経を逆なでしたらしい、フレッドの歩幅はより一層大きくなった。
「何がぐっと、だ。ゆっくり休めって言った割に、到着早々報告会だぞ? 丸々二日は寝てないってのに」
「私だって寝てませんよぅ」
「嘘つけ。船の中でも、北の大陸でも結構寝てたぞ」
 フレッドは追ってくるミレイを肩越しにあしらうとこれみよがしに嘆息した。
 ベルトニアに到着するや否や、フレッドたちはベッドから、船から、安息から引きずりおろされた。彼が毒づくように、サンドリアの言葉とは裏腹に大した休息もとれずこうして収集に応じている。言ってしまえばたかがそれだけのことに、フレッドにしては随分苛立っているようにミレイには映っていた。本人もまた、自覚している。そしておそらく、苛立ちの根幹がもっと前、まったく別のところにあることもどこかで分かっていた。
 廊下が終わる。玉座の間の向かい側、ホールの吹き抜けを挟んだ先にこれまた大げさな両開き扉がある。フレッドは勢いそのままに、その「会議室」の扉を押しあけた。
「遅いよーフレッド」
中央にある縦長いテーブルに座っているシルフィが身を乗り出す。フレッドとミレイ以外のメンバーは、既にそのテーブルに着いていた。
「主役が来たところで会議を始めようか。事の顛末はフレッドくんを待っている間にざっと聞いておいた」
サンドリアがこちらに向かって話をしてくるので、フレッドも会釈して入り口に一番近い椅子を引いた。サンドリアに概略を説明したのはおそらくクレスだろう。ルレオのどうでもいい横やりやシルフィの補足があったにせよ、いつも通りなら彼女がそつなく客観的に、面倒な工程を終わらせていてくれるところだ。それに関して、今日に限っては少しの不満を抱いていた。船内でのやりとりを思えば、クレスが「客観的に」事実を説明したかどうかは疑わしい。
「諸君ももう気づいているはずだ。これはファーレン王位争いの枠を超えた戦いとなったんだ。──ラインを解放された時点でね。次に成すべきことは、もう見えている」
この部屋がそうさせるのか、これから話そうとする内容がそうさせるのか、サンドリアはいつになく軍人らしい緊張感のある顔つきを作っていた。クレスが続きを引き受ける。
「ファーレン、つまりはルーヴェンスのことだけど、完全に死神に利用されてるわ。あいつが死神と行動を共にしている限り被害はファーレンだけにとどまらない。……死神に下手に手出しができない以上、現時点でできることはサポート役をつぶすこと」
「ここにきて当初の目的に戻る、か。まあそうなるだろうな」
「国の決定としてベルトニア軍を公に動かすことになる。……つまり、全面戦争になるということを理解しておいてくれ。長期戦にはならないだろうが多大な犠牲は出る。双方に、だ」




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