Swirl Complex Chapter 2

 ウィームの村からわざわざ小一時間かけて王都にあるベオグラード邸へ出向いたにも関わらず、フレッドは特に何の観光もせずまっすぐ自宅へ帰った。それでも一日仕事で、自宅の玄関の扉を開けるころには夕日さえ見えなくなる時間だった。
「ただいまー。マリィー、ごめんな遅くなった」
返事はないが台所から包丁の音がする。芳しい夕食の香りに、顔をほころばせた。
「マリィー? 悪い、すぐ手伝う――」
台所に足を踏み入れた途端、自分で自分の顔を想像することができた。口元が引きつるのを必死に制してフレッドは言葉を飲み込む。
「あ……おかえり。夕食、すぐできるから」
 マリィでは、なかった。今の今までフレッドの呼びかけが独り言と化していたのは、彼女がここに居たせいだった。
(……忘れてた)
 目をそらしたまま口の中で呟いて、フレッドは台所に背を向けた。まさか笑顔で料理を手伝うわけにもいかない。フィリアが何か言いたげに彼の背中を凝視しているのも気づいていて無視することに決めた。
「あっ、お兄ちゃんおかえりなさい。ごめんね、夕食すぐできるから。フィリアさんが手伝ってくれたんだよ」
 片手にいつもの杖を、もう一方の手には数本の薪を抱えて裏口からマリィが顔を出した。フレッドがすぐに駆けよる。浮かない顔を完全には隠せないフレッドを目にして、マリィがすぐさま訝しげな表情を作った。
「……どうしたの?」
「ああ、うん。せっかくだけど、俺夕飯いいや。ちょっとニースんとこに用事あってさ」
「ええ!? 今から? せっかくフィリアさんが作ってくれたのにっ」
 マリィが顔を顰めるのも無理はない。実のところニースには用事どころか話すことすらまるでなかった。それでもフレッドは、フィリアとの気まずい食事よりもニースとの暇な沈黙を選んだ。
「ごめん、俺の分は食っちゃっていいから」
適当にその場を取り繕ってフレッドは再び玄関に戻り靴ひもを結びなおした。背中には痛いほどの視線を感じる。それがマリィのものかフィリアのものかは分からなかったが、フレッドは振り払うようにかぶりを振ってドアノブに手をかけた。
 ガチャ――フレッドはまだ押しても引いてもいないがドアはひとりでに開いた。一応付け足しておくが自動ドアでは決してない。
「ただいま。遅くなったな」
 ほぼ同じタイミングで外側からノブを回したらしい、スイングの帰還のおかげでフレッドはまた顔を背ける羽目になった。
「おかえり。ちょうど夕食できたところよ、私が作ったんだからっ」
先刻とは打って変わって足音が弾んでいる。振り返らなくてもそれが手に取るように分かった。
「すぐ食べるでしょ?」
「そうだな、頂こう」
 フレッドに見向きもせずに二人は彼を挟んで楽しそうに新婚恒例行事を繰り広げている。気まずさに苛立ちがミックスされると怒りの限界点に達するのも早かった。
(いい加減にしてくれよ……!)
奥歯を噛みしめてドアノブを一気に回す。と、その手首を思いきり掴んで、スイングがフレッドの逃亡を阻止した。
「どこか行くのか?」
 フレッドがドアをこじ開けようとしても、一ミリも動かない。何食わぬ顔でスイングは返答だけを待っている。
「別に……関係ないだろ」
掴まれた手首を逆側にねじり返して拘束を断ち切ると、素早くドアを開ける。早くこの場から抜け出したい一心で家の敷居を跨いだとき、背後から別人のように低く冷めた声がした。
「逃げるのか。みっとみないの一言に尽きる」
 おもむろに振り返る。スイングが微笑を浮かべたまま立っているだけだ。それがフレッドにはひどく異質な光景に見えた。背景には笑い合うマリィとフィリア、スイングとフレッドのほんの僅かな距離の間には見えない、けれども頑丈な境界線があった。
「いい加減フィリアにあたるのはやめたらどうだ。子どもじゃないんだ、見ているこっちが恥ずかしい」
「お前、知ってて……!」
 頭に凄まじい勢いで血が昇ってきた。スイングが呆れたように浮かべるうすら笑いに指先が震える。
 スイングは小さく溜息をついただけで、補足も返答もしなかった。口ごもったフレッドの、視線の行き場はもはや自分の立つ床半径50センチに満たなかった。
「……隠すつもりがあるならその態度を改めろ。そうでなくてもいちいちお前を中心に事物が廻ると思うな」
「は? いつ俺がそんなこと言ったよ」
スイングの溜息が今度は深く、長く、床に落ちる。
「その態度──」
「そうさせてるのはあんただろ!」
 思わずがなったせいで場が静まり返った。開けかけたドアだけが、場違いにも今更申し訳なさそうに閉まる。
「あんたは凄い。何をやっても完璧以上なんだからな。誰だって比べたらあんたを選ぶ。……けどコケにされる筋合いはこれっぽっちもねえだろ……! 好きで兄弟になったわけじゃない!」
「お兄ちゃん!」
 マリィが間髪入れず大声を張る。妹に諌められて口走ったことのまずさレベルを知るが、言うまでもなく後の祭りでフレッドは身動きが取れずにいた。というのも精神的な話で、左手は実に機敏にドアを引いている。眉間にしわを寄せたまま脇目も振らず外に出る。
 ドアだけがまた一拍置いて、申し訳なさそうに閉まった。
「『好きで兄弟に』か。そんな奴がいるなら見てみたい」
スイングが独りごちて含み笑いをこぼした。
「ごめんなさいフィリアさん。お兄ちゃん、いつもはあんなじゃないんだけど……どうしたんだろ」
「うん、大丈夫。気にしてない、わ」
 どことなくぎこちないフィリアの笑みに、マリィはただ見当違いの不安を募らせるだけだった。


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