God alone knows Chapter 21

 クレスが横たわっていた床は冷たくもなく硬くもなく、感触と呼べるものがなかった。自分がどういう経緯で何故この場所にこうしているか、思考を巡らせるが思い当たらない。記憶の最後は死神に遭遇したという事実だけだった。現在地も実のところはよく分かっていない。彼女に無条件で提供されている情報は、耳元をかすめる波の音だけだった。
「この千年くらいは時計、あなたに持っていてほしかったな」
そこへ新たな情報が加わる。聞き覚えのある幼い声と、鎖がこすれあう金属音。クレスは精神力を振り絞って瞼をこじあけると、ピントの合わない視界の中にあの懐中時計と、それを手元で弄ぶ死神の姿を確認した。体を起こしながら胸元に手を当てる。首から下げていたはずの懐中時計はやはり無くなっていた。
「あなたが……死神、いえ、神……? この星と、ラインをつくった……」
自分が拉致された理由、現在地、目の前の少年が口走った言葉の真意、それらをさしおいてクレスの口からはありのままの疑問しか出てこなかった。少年の髪は血のように赤い。その髪が潮風にさらされて柔らかく揺れた。否定も肯定も返ってこない。クレスの質問は独り言となって空気中に消えた。
「もうすぐここへあなたの仲間が来るよ。ラインを解放してしまえば……“そのとき”が来ればみんなひとつに還るのにね」
「何を……言ってるの……?」
定期的に鳴る波の音は、この空間の静寂を裂くには役不足だった。むしろこの重苦しい静けさに貢献していると言える。意識が朦朧としていることもあってか、クレスに焦りや不安はなかった。
「ねえ……あなたの本当の目的は何? あなたがラインの解放にこだわる理由は何なの? そんなに人間が……嫌い?」
死神は大きくかぶりを振った。
「箱庭の中のものはみんな好きだよ。だけどそろそろ新しくしなくちゃいけない。リセットするんだ。でないと人はどんどん余計なことを覚えていく──。人間が好きだよ、でも人を戒めるのは……僕にしかできない」
クレスは息を呑んだ。その音が全ての他の音を一瞬だけ遮って、全身に響く。先刻の疑問がまた形を変えて渦巻いた。「神」と呼ばれるその少年は、クレスの知る慈悲深い存在とはほど遠いものだった。
「昔話をしようか、クレス。箱庭のはじまりの話を」
頷くことはないがかぶりを振るわけでもないクレス、もともと同意は不要だったのか死神は一呼吸置くと、手のひらで弄んでいた時計の蓋を開けた。
「むかしむかし、この星が出来立ての頃。人はお互いを慈しんで暮らしていました。でもそれもほんの僅かな間のこと、人は智恵を身につけるとすぐ、お互いを妬み、恨み、争うようになりました」
いつかシルフィが語ったことに、似たような一節があったことを思い出してクレスは耳をすませた。歴史を語る神、それはつまり自分の日記の読み聞かせをしているようなものだ。その相手に何故自分が選ばれたのか──当然の疑問を抱いたが口にはしない。たった今、ごく自然に呼ばれた自分の名についても同様である。
「日記をつけるのが苦痛になった神は、箱庭をつくり直そうと考えました。そこで目をつけたのが東西を分ける不思議な形の山脈です。神は、この星を分断する山脈を封印地『ライン』として全ての罪を封じ込めることにしました。……罪を封じ、その罰は魂に与える。前世の罪を来世で償う。君たちが『大罪』と呼ぶシステムはこうしてつくられた」
「ちょ、ちょっと待って。第一ライン<国境>はあなたがつくったんでしょう?」
死神は静かにかぶりを振る。
「大地そのものをつくるには、途方もない時間がかかる。時間は、箱庭における絶対ルールだ。ルールを破れば箱庭そのものがぐしゃぐしゃになってしまう。それは嫌だったんだよ、そのときはね」
クレスは再び言葉を失う。第一ラインは世界──神は“箱庭”と呼ぶ──の成長と共に長い時間をかけて大地が隆起したものだった。死神はそれを利用したに過ぎない。そうなると死神だけでなく、この星そのものさえも「分断する」必要性を感じたということなのだろうか。人はまたそれを、あさましくも<国境>として利用した。
「新しく始まった歴史にはラインを守る特別な人間をつくった。万が一ラインの封印がとけて大罪が漏れ出たりなんかしたら大変だから、彼らにはルールを少しだけねじ曲げる能力を与えた。でも、それがいけなかったんだ。人は今度は、大地を巡って争いを始めた。彼らが住んでいた大陸もその標的になった。……武器をつくり互いに殺し合った」
抽象的に語られてはいたが、それはクレスの知っている世界戦争の概略と相違なかった。シルフィに聞いた話では、この罪が第二ラインの素になっている。
 クレスは相槌も打たず黙って話を聞いていた。声は振り絞らないと出ない、であれば下手に体力を使わず黙っておくほうがいい。応答は、逸らすことのできない視線が代役を果たしてくれていた。
「……初めて後悔したよ。人間をつくりだしてしまったことを。だから裁きを与えた。もう一度星をリセットするため、第二ラインは僕が作った。この、時計を使ってね」
大きな音を立てて懐中時計の蓋が閉じられた。その音が金縛りを解いたのか、クレスは今しがた諦めたばかりの発声を試みた。思いのほか音は声帯を通る。
「言っている意味が、分からないわ」
「そうかな。難しい? 時間は箱庭の絶対的ルール、その時間を操ることができる“ラインの守人”、人は罪を犯す、ラインの守人もまた人である……。命題の真偽はこれで解かれてる。もうひとつ材料を与えようか?」
「……時計は、ラインの守人によってつくられた」
「そう。君は頭がいいね。……ラインの守人は厳正なるルールの下で限定的に時を操る。でも彼らが、彼らの中のある大罪人が作ったこの時計は違う。これは箱庭のルールを完全に無視したものだ。針を進めれば時間が進む、戻せば過去に。ルールはない、だからペナルティもない」
 フレッドの言葉が脳裏をよぎった。時が止まっている間秒針が動く音がした、と彼は言った。ラインの守人がつくった特殊な時計が、その末裔であるシルフィの時間魔法に呼応したというのなら話のつじつまは合う。混乱しきった頭を何とか整理して、クレスは大きく溜息をついた。
「あなたは……間違ってる。リセットすれば確かに全てなかったことになるわ。でも過ちを犯したからこそ学ぶことだってある。それさえもリセットしてしまったら……人は永久に変わらない……っ。何度ラインを作っても、何度大罪を与えても、争いは繰り返される」
死神は大きな瞳を更に丸くした。
「そうだね。だから楽しいんだよ。歴史は争いなしでは成立しないんだから」
屈託なく笑う、その笑顔の真偽を見極めるには材料が足りなかった。
 神は世界をつくった。ルールをつくった。人間をつくった。大罪をつくった。そしてそれを後悔した。クレスは冷えた体を震わせながら、死神の手の中にある時計を見つめていた。


「なんというか……こう来られるとグウの音も出ないな」
 第一ラインと第二ラインの交わる場所、星の中心と呼ばれるその場所でギアが珍しく唖嘆と感嘆の入り混じった吐息を漏らした。眼前に、ギアの理論武装を以てしても説明しがたいものが存在しているのだから無理もない。艦内で立ち尽くすギアを押しのけて、フレッドが躍り出た。海のど真ん中にそびえ立つ、霧に覆われた塔。はっきりと虹彩に映し出されているにも関わらず、それが近いのか遠いのかよく掴めない。
「こん中に居るんだろ? 入るぞ」
「果たして入れるのかどうか……」
腰が引けたギアとは対照的に、フレッドはこの塔そのものに対しては驚愕を示さなかった。気配なくいきなり現われたり消えたり、宙に浮いていたり、死神の存在自体がもとから説明不可能なのだ。霧がかった、いや霧でできているような曖昧な輪郭の塔がいきなり海上にそびえたったからといって今さら不思議がることはない。



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