Crystal Line Chapter 26

 朝日が、静まり返ったベルトニア城を柔らかに照らす。半壊してはいるが寂莫した情景ではない。窓から見えるラインにはぼんやりとした霧がかかり、今日も変わらず霊峰の威厳を漂わせていた。
 フレッドは剣を下げた腰のベルトを今一度確認すると、柄にもなく小さく気合いめいた声を上げた。あくまで小さく、だ。それからやはり柄にもなく、鏡の前に立ってしばらく自分と見つめ合った。特段変わったところはない、こちらも相変わらずうだつがあがらない顔つきだ。数秒の間そうして、フレッドは部屋を出た。誰を伴うわけでもなく、そのままひとりで城を出て港へ向かう。城下もやはり静まり返っていたが、時折、鳥がさえずる声がどこかから鳴った。視線の奥に港が見え始めると、ちらほらと人が行きかう姿も目に入る。
「早いな。よく眠れたのか?」
朝日に輝く空母を眩しそう見上げていたベオグラードが、フレッドに気づいて振り向いた。
「ベオグラードさん、なんでまだ……まさか泊まったんですか」
「そうだ、見送ろうと思ってな。俺にはそれくらいしかできん」
ベオグラードの問いには答えず、ましてや朝のさわやかな挨拶というやつも忘れて、フレッドは目の前の疑問だけを口にした。ベオグラードも気に留めず答える。
「ベルトニア王と、セルシナ殿下には悪いが遠慮してもらった。健闘を祈ると伝えるように言われたよ」
「あ、そうですか」
「っていうよりあなたの見送りも別に必要ないんだけど。……なんでいるの?」
空母の中からギアに手を取られてクレスが降りてくる。こちらも一切合財の挨拶を省いて、朝から露骨に顰めつらを晒す。ギアも辺りを一瞥して小さく溜息をついた。
「というより逆だなぁ。まさかギャラリーがこれだけとは……一気にやる気そげるなぁ」
見送りに来て邪険にされる人も珍しいが、確かにこの国でこの男にこの場に立たれることほどやりづらいことはない。証拠に、作業を手伝いに来たベルトニア兵やギアの部下たちはいちいちベオグラードに頭を下げて横切らねばならなかった。そこで一寸も罰が悪そうな素振りを見せないのがこの男の厚かましいところであり、清々しいところだ。
 ほどなくしてあくび交じりのルレオとミレイ、シルフィが合流する。ギアが空母の強化部分について逐一うんちくを語り始めたものの、乗っているだけの当人たちにしてみればさして興味がないのは仕方がない。
「──というわけで、こいつは隕石が落ちても壊れない無敵戦艦に生まれ変わったというわけ。唯一気に食わないのは、最強の盾と最強の矛が共存できなかった点で主砲が現行のファーレン戦艦並に──」
「とにかく、ちょっとやそっとじゃ墜ちないんだよな。この艦なら」
フレッドがしびれを切らして要約。ギアは口を開けたまま数秒間、銅像のように微動だにしなかったが、すぐに気を取り直して咳払いをした。
「ちょっとやそっとじゃない。絶対に、墜ちない」
これほど躊躇無く「絶対」を口にする人間もめずらしい。しかしギアは、そこに根拠と自信がない場合そもそもその言葉を口にしない。彼自身が信用の置ける人間かどうかはさておき、彼の腕とその作品は100パーセント信用して大丈夫だ。
「じゃ、帰りの心配はしなくていいわけだ」
「当然だろう。誰が設計したと思ってる」
フレッドは苦笑して、先陣を切って艦に乗り込んだ。外装もそうだったが、内装に関してはより簡素になっている。戦艦というよりはシェルターのような、安堵と圧迫が同居する居心地の悪い空間だ。ギアやその部下たちの夢とロマンが詰め込まれていた、かつてのハーレム戦艦の面影はない。「最強の盾」としてそれを実現するために、艦は心を捨てたようだった。ギアが最強を誇りながら少しも喜々としないのは、そういう理由があるからだった。
「……最後まで、よろしくな」
独り言のつもりだった。それはそれとして成立したが、感傷に浸る暇は与えられなかった。膝裏を足蹴にされて情けなく前方によろける。
「とっとと入れよ、後が詰まってんだろうがっ!」
「それはすいませんでしたねぇ……!」
病み上がりのキックにしては十分な威力だ、などと感心すら覚える。ルレオに続き、全員が艦に乗り込んだのを確認して、最後にギアが肩を翻した。それを引き止める男がひとり。
「何か?」
半身だけをまた港の方へ向ける。ベオグラードがそれを見上げる形で立っていた。無表情というしかない顔つきだ。それがファーレン護衛総隊長の真の顔であることを、ギアは知っている。道化者の正体は大抵こうだ。それは自分も例外でないからよく分かる。
「君は今も『世界の終末に興味がない』か?」
 だからこの唐突な質問は、本心からなされたものだ。それも分かる。
「ないですよ。それが何か」
ギアは同じような無表情で小さく肩を竦めて見せた。これでも本心には本心で、誠意を持って応えたつもりなのだから始末が悪い。ベオグラードは応答しない。変わらず視線をまっすぐに伸ばすだけだ。
「だったら君は、何故この艦に乗る」
「興味の対象が根本的にあなたとは違うってだけでしょう。世界がどうなろうが俺には関係がないけど、彼らがどうするかは興味深い。捨て駒にするには惜しい連中だと思っただけです」
「……それが聞ければ十分だ。彼らをよろしく頼む」
 おそらく、ベオグラードはこの一見無意味な確認をとるためだけに見送りにきたのだろう。死神討伐隊の編成を告げたとき、彼はこれ以上無いくらい渋い顔をした。それを思い出して、ギアはまた小さく肩を竦める。
「心配なら乗ります?」
「いや……英雄を気取るには私は歳をとりすぎた。それに汚れてもいる。この汚れはもう、落ちんよ」
ここでギアがめずらしく、腹を抱えて大笑いした。開けっ放しのハッチからその笑い声が艦内にまで響く。
 ベオグラードは腹を立てる気力も奪われ、片眉を派手にあげて呆れるだけだ。ギアもまた同じように片眉をあげる。
「それはあなたがお飾りじゃなかった証拠だ。今後もせいぜい汚れ役を買ってくださいよ、新しい国王が綺麗でいられるようにね」
ギアは言い逃げるように踵を返した。笑い声を聞きつけて不審に思ったフレッドが入り口から顔をのぞかせていたからだ。ギアはそのフレッドの肩を軽くたたくと、彼を追い越して艦に乗り込んだ。後にのこったフレッドの視線の先で、ベオグラードが苦笑しながら手をふる。わけも分からずフレッドは会釈を返した。
 動力部が轟音と共に稼動し始める。結局最後に乗り込むような形でフレッドはハッチを閉めた。徐々に離陸する艦、「座れ」だの「気をつけろ」だの指示が無かったせいで、フレッドだけがバランスを崩してよろめいた。
 会話が無い。いつもなら抜け目無く揚げ足を取りに来る男は、自分の座り込んだ正面の窓を、あるいは窓の外をぼんやり見つめている。こういうときの頼みの綱であるムードメーカーのシルフィは、フレッドから離れた位置で膝を抱えて口をつぐんでいた。少女には不似合いな、神妙な顔つきで何やら思慮に耽っている。
「シルフィ」
顔をあげると同時に、シルフィの手の中に小さな包みが転がり込んできた。きょとんとした顔──いつものシルフィだ。そのあどけない顔で、フレッドとその丸い包みを交互に見やる。
「やるよ、それ」
疑問符を浮かべたまま包みを開くと、薄い水色の玉が現れる。それの名をシルフィは知っていた。しかし味を思い出すことができない。
「〝キャンディー″だっ。……ありがとね、フレッド」
シルフィは一度開いた包みをまた丁寧に巻き直して、ポケットに詰め込んだ。嬉しそうに膝を抱えてフレッドの顔をにこにこと見上げる。
「……食わねぇの? 嫌いだったっけ?」
「ううん。もったいないから後で食べるの」
「そんな高価なもんじゃないってっ」
笑い飛ばすフレッドをシルフィは満面の笑みで見ていた。
 その飴玉には、フレッドが考える何倍もの価値があった。少なくともシルフィにはあった。ポケットの中の小さな包みを、ぎゅっと握りしめる。それは勇気をくれた。安堵をくれた。優しさをくれた。フレッドの手と同じように。
「緊張してんの?」
フレッドは? ──と聞き返す前に、いつもの合図が頭の上に乗せられた。大丈夫だよ、の合図。フレッドの大きな手がシルフィの頭を撫でる。それは勇気をくれた。安堵をくれた。優しさもくれた。そのすべてに言いようの無いせつなさが混ざる。フレッドがこうするのは、シルフィにだけだ。それが特別なことなのだと思っていた。ずっとそう思っていたかった。
 困ったように笑うシルフィに違和感を覚えて、フレッドは隣に腰をおろした。視線の高さが同じになる。ようやくそれで、シルフィが安堵の笑みを漏らしたのが確認できた。



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