「おい! おいこら、クレス! 起きろってんだボケ、クレスっ!」
頬に軽く手のひらの感触を覚えて項垂れる。汚い暴言と手荒な仕打ちでクレスは目を覚ました。眼前10センチにルレオの顔が飛び込んできて、それを跳ねのけて辺りを見回した。見覚えがある風景だ。最初の蜃気楼の塔が崩壊するのをここで見た。星の中心を一望できる岬、その先端に佇むギア、座り込んだままのミレイ、そして突き飛ばされて尻餅をついたルレオ、確認できたのはその三人だけだった。
「何で外に……フレッドとシルフィは!?」
一番状況を把握してそうな男、ギアに駆け寄って力づくで振り向かせる。眼鏡がないことも手伝って彼の顔は一段と険しかった。クレスの顔が見えているのかも怪しい。
「……分からない。でもここには、居ない。それが何を意味するかは分かるだろ?」
「どうして! 私たちは邪魔だってこと!?」
クレスが期待した回答をギアは持ち合わせていなかった。曖昧に首を傾げるだけだ。皆、漠然と何かを分かってはいる。だからクレスがギアの胸倉を掴んで怒鳴るのを、誰も止めようとしない。
空は灰色。分厚い雲が全てを覆って、それを映す海もどす黒く淀んで見えた。ふとクレスは視線を海へ向けた。ギアがぼやけた視界で何をみていたか、それを確かめるために視線を共にする。
「壮観だろ……? 千年前の人間もこんな気持ちだったのかもしれない」
力なく笑うギア。その横顔が眩い光に照らされて、輪郭がぼやける。視界の中央に光の柱が聳え立っていた。空から突き刺されたのか海から伸びたのか、それは星を見事に貫いていた。地軸──クリスタルライン──その名にふさわしい輝きを放って、世界を終わりに導く。本能で単純にその美しさに見とれていた。そして同じく本能で、絶望を感じている。クレスは全身から力が抜けたように、ミレイと同じくその場に座り込んだ。
「……嘘、でしょ」
「あっけないもんだな。中点串刺しで何もかも終わりかよ」
ルレオのあっけらかんとした言葉が耳から耳へ抜けていく。気を失っていた間に何が起こったかはほとんど想像だけで補完できてしまう。この状況は「クレスが時計を進めた」という事実無くしてはありえないのだ。空が、海が、大地が悲鳴を上げて、クレスを批難しているようだった。が、実際に彼女を責め立てる者はなかった。それがもはや何の救いにもならない。視界に映るすべてを直視することができず、クレスはそのまま目を閉じ俯いた。
「……崩れます、蜃気楼の塔。……直にここも」
「それは予知……?」
クレスのすがるような眼差しにミレイは視線を逸らして曖昧に頷いた。
「来るぞ! 死にたくなきゃ伏せろよ!」
ルレオが声を張り上げた。彼の方は予知でも何でもなくただの直観だったが、ミレイの落ち着き払ったそれよりよほど現実味があった。風に色がついたように、空気が白く波打って塔を中心にして吹きぬける。刹那、一瞬の光の点滅の後。
ゴオ゛オォォォォ! ──
「伏せろっつってんだろ! 死ぬ気かよ!」
ルレオが半狂乱でクレスを伏せさせるまで、彼女は生気もなく一点を見ていた。一層輝くクリスタルラインと燃え尽きる蜃気楼の塔、消滅したと言ったほうが的確かもしれない。とにかくそれは跡形もなく光の中に消えた。姿勢を低くした面々の頭上を衝撃波としかいいようがない圧力と突風が襲う。地面に死に物狂いで張り付いていないと、あっけなく空の藻屑となるところだ。ほとんど自ら力をいれようとしないクレスを、ルレオは必死に地面に押さえつけた。
「ルレオ! クレスも、飛ばされてないな!? 耐えろよ!」
「耐えたってどうせ同じなんだろうけどな……!」
皮肉を吐きながらもルレオは二人分の力を振り絞る。この後何が起こるのか、考え出すと恐ろしい。しかし転機は前触れもなく訪れた。
「み……みなさん! ラインが……こんなことって……!」
突風の居残り組がまだ荒々しく吹きすさんでいたが、踏ん張れば顔くらいは上げられる。目を細めてミレイの言うとおりラインを見た。海が、いや星そのものがうねっているのがまず視界に入る。間髪いれず目を見開いた。
「ない……ラインが、クリスタルラインがない! クレス、見なよ! 間に合ったんだ、時間は戻ったんだよ!」
ギアが子どものようにはしゃいで立ち上がった。星の中心には何も無い。塔も、ラインもなく、そこにはただ高い波が厳かに飛沫をあげているだけだ。ルレオと支えあってクレスも立ち上がった。
「おい……っ、見ろよ」
驚愕はまだ終わらない。ルレオの指差した先には第二ライン〈海境〉が走っている。気が遠くなるほどの長い間、北と南を分断していた谷が埋まろうとしていた。傷を癒すように両側から海水が押し寄せ、みるみる内に海は平らな一枚の紙のように広く青く澄み渡った。
「海境が埋まったの……? どうして……」
それは世界大戦という人間の大きな過ちを封じた戒めのラインだった。神が人間を許したのか人間が罪を贖ったのかそんなありきたりな考えしか浮かばなかったが、実際は少し違う。その疑問にはギアが答えてくれた。
「神が神を許したんだ。でなきゃあれは消えない。不思議な空間だよ……〝星の生まれ変わり″に立ち会ってるんだ、俺たち」
ギアはいつもどおり一人で勝手に全てを理解している風だ。いつもと違うのは少し興奮気味であることが見て取れること。しかし注目すべき点はギアのそんな些細な違いなどではない。第一ライン〈国境〉までが、音を立てて崩れていく様が見える。美しかった山並が砂となり、風で宙に舞う。フレッドとルレオ、クレスが命からがらファーレン軍から逃れて越えた山。ベルトニアと協定を結びファーレン城奪還作戦の砦とした山。人類初の罪を封じたそれが軽快に潰れていく。それは壮大で神聖な儀式のようにも見えた。
「死神が……いえ、神様が、ラインはもう必要ないからって言ってます。私の頭に直接、そう聞こえるんです」
ミレイは静かに涙していた。それは予言ではなく、安らかな顔で神の言葉を告げる預言だった。
空は青く緑は美しく、風は柔らかく頬の涙をさらってくれる。当たり前の自然の恩恵がたまらなく愛しく感じられる。神が愛した世界に彼らは立っていた。
「クレスさん、きっとやってくれたんですよ。フレッドさんとシルフィちゃん。予知はできませんけど、私分かるんです。……分かるんです」
「そうだなぁ、でなきゃこんな奇跡、神なんかじゃ起こせないもんな」
風が優しい。波の音も嘘のように穏やかだ。ルレオは黙ったままクレスの肩を軽くたたいた。クレスはまだ一点を変わらず眺めていた。
これが星の新生。それを見届けた彼らの、長い革命の終わり──。
月日は容赦なく流れていった。定められた間隔で針を進め、規則的に太陽と月の交代を促す。誰も逆らわない、逆らえない普遍に人は当然のように身をゆだねていった。ファーレン王国、ベルトニア王国は両者の協定が功を奏して順調に復興が進み、見る影もなく破壊されていた城内や街にも昔のような活気が戻りつつあった。皆が元通りを望んだ。そこからの変化を受け入れた。そしてそれを守るための強さを持とうとしていた。
『大罪』を受け全身が麻痺していたスイングは、持ち前の精神力からか驚異的なスピードで回復し、徐々にではあるが以前どおりの生活を取り戻しつつあった。ギアが次々に調合する怪しげな薬をほとんど無理やり投与されてそうなった、ともいえる。精神力よりも彼の場合、運の方が強いのかもしれない。スイングの回復に貢献したギアは、例の仲間を引き連れてイズトフに帰っていった。もともと国家や軍など堅苦しい制度にはまるのを嫌っていた男だ、自由な夜の街は彼にとっての大事な家だった。以前と変わらず、気の合う仲間と勝手気ままに新たなハーレム戦艦をつくっている。
無論、変わらないものばかりではない。時間の流れに沿って変わっていくものがある、それも時の真理だ。ミレイは故郷のヴィラには帰らずファーレンに、王家の予言者として留まった。明日の天気や兵士の恋の行方など一見くだらないことから、国政に関する重大な決定事項まで彼女の仕事は多岐にわたる。忙しくも穏やかな日々の中で、ミレイもまた今を生きていた。
ルレオは、元が金目当ての傭兵だ。さっさと姿を消し、誰もみな二度と彼に会うことはないのだろうと思っていた。が、行方をくらましたのはほんの数日のことでそれ以降はファーレン城内を我が物顔でうろうろしている。ミレイはそんな彼とよく廊下ですれ違う。どうやらベオグラード絡みの仕事は金が入ると学習したようで、最近は王職まがいの仕事まで任されている。ベオグラードの秘書(非公式)の地位を得たと言えばそれなりに聞こえるだろうか。
体のいい駒を手に入れたベオグラードはといえば相変わらずだ。革命の責任者だった彼も、今や毎日リナレスやニースをいじり、ルレオを使って汚い仕事をし、ごく稀にまともに皇女の助言をしたりする刺激の少ない日々を過ごす。変わったことといえば外交大臣の肩書きを拝命したくらいだ。これで護衛隊の第一線から退いても王職に携わらねばならなくなった。セルシナ皇女の意向である。
何かが少しずつ変わっていった。それを当然とし、誰もが気に留めず時を過ごした。だから人は忘れかけていたのかもしれない。あの日の痛み、あの日の気持ち、あの日交わした言葉の意味を。
その中でクレスは、変わらないことを選んだ。何度か昇進の話が上がりその度に断り、以前のままの地位で以前と同じ職務をきっちりこなしている。それでも世界は変化を促してくる。同じ場所にいようとすると、それを押し流そうと流れを速める。その流れが強く激しく、クレスはそこに踏みとどまることに疲れてきてもいた。止まった時間を生きる者を、世界は相変わらず好まない。見えない何かに背中を押され続けても、クレスは立ち止まっていつも振り返った。遠くに目を凝らして、耳を澄まして、追いついてくるのを待っていた。