Crystal Line Chapter 26

「さっきの……『ありがとう』はこっちの台詞! お前がいなきゃきっと諦めてたよっ」
聞こえているはずだが、すぐには応答がなかった。シルフィは、フレッドの温かな背中にもたれたまま滲む涙を精一杯こらえていた。掠れた声を悟られないように、小さく彼の名を呼んだ。
「あたし……消えちゃうけど、忘れないでね?」
やっとのことで搾り出した声に、フレッドもすぐには応答しなかった。だからといって振り向く勇気が彼女にはなかった。口に出した途端現実味を帯びたそれに、恐怖を隠せず膝を抱えた。
「……は?」
かなりの間を置いて、振り向いたのはフレッドの方だった。当然手元は止まる。シルフィが目くじらを立ててフレッドの二の腕をはたいた。
「手! 止まってるよ!」
慌ててまた地味な作業に戻るフレッド。しかし鼓動が正直に早鐘を打っていた。今、何かとてつもなくおかしなことを聞いた気がする。それもひどく、現実的なものとして。
 シルフィは深く息を吐いて、逸る鼓動を制そうと努めた。しかし自分以上に早い鼓動が背中で鳴っているから、あまり意味が無い。
「時間を止めるのってね、『禁忌』なんだって。ラインの守人は、一生に3回だけそれを許されていて……えーと、つまり、シルフィは3回使っちゃったから消えちゃうの。ラインの『たが』になるんだって」
ファーレン奪還時、ルーヴェンスの放った砲弾を叩き割るために一度。崩壊する蜃気楼の塔からルレオを救うために一度。そしてこれが三度目だ。ファーレン領の無人島で見つけた石碑に、そのことが記されていた。ラインの守人だけが使っていた言語で彫られたそれを、全て正確に読めたのはシルフィだけだ。だからこの事実を、彼女はひとりで受け止めた。その上で三度目を使うことを選んだ。
「嘘、なんだろ……?」
「もー、また──」
うんざりした表情を作って振り向いたシルフィ。そのタイミングを見計らったように時計がチクタク音を立て始めた。シルフィが止めた時を刻みだす。無感動のフレッドの代わりにシルフィが驚愕し、歓声をあげてくれる。
「さっすがフレッド! 惚れ直しちゃうよっ」
シルフィはまた笑った。それがフレッドのすがるような願いへの回答だった。忘れた振りで誤魔化していた痛みが急に蘇る。ルレオの矢がえぐった腹と、シルフィの笑顔がえぐった心がたまらなく痛かった。
 時はなおも止まっている。時計を持つフレッドは、この空間で自由に動くことができる。が、彼はその権利を半ば放棄しているようなものだった。言葉を失い、心が止まった。秒針の音だけが空気を読まず馬鹿みたいに鳴っている。
「大好きだよ、フレッド! 絶対忘れないでね!」
フレッドは黙って頷いた。頷きたいわけではなかった。泣くわけにはいかない、シルフィが満面の笑みを浮かべている限り──そう思っていた刹那。
 ひとつ、またひとつ、きらきらと輝きながら宝石のような雫が地面に落ちる。タイムリミットが迫るにつれて、シルフィの涙は溢れて止まらなくなった。
「フ、フレッド、いっこお願いがあるんだけど……」
また無言で頷く。
「頭ぐしゃーって撫でてほしいな、いつもみたいにっ。……あ、安心するからっ」
シルフィが歯をガチガチ鳴らして震えていた。フレッドはシルフィの理想の王子様を完璧にこなしてやるつもりで、シルフィの頭をフードの上から思い切りなでまわす。シルフィが泣き笑いするのを微笑して見つめた。少女がこぼすとびきりの笑顔を、記憶に刻み付けた。
 彼女が自分で宣告をして、執行されるまでかなりの間があった。一度解き放たれた恐怖は押し隠すことが困難だ、シルフィが自分のためを想って涙や不安を堪えているのがフレッドにはたまらなく苦痛だった。その光景があまりに残酷で、言葉がのどを通らない。
 こんなもんか? ──ふがいなさと歯がゆさが胸中で渦を巻く。言わなければならないことがあるはずだった。それをきちんと伝えねばならない。
「……大丈夫。……ああ、そっかこれ、かな。大丈夫だから。俺は絶対シルフィのこと忘れたりしない。みんなだってそうだ。……シルフィの居場所はずっと、ここにある」
フレッドは右拳を握って力強く自分の心臓をたたいた。同時にシルフィの震えが止まる。
「今までありがとう」
「うんっ。フレッドも元気でね!」
 彼女は恋をしていた。出逢ってから今までずっと──最初で最後の恋をしていた。
「忘れないで、絶対だよ! 忘れちゃだめだからね! フレッ ────」
 シルフィだったもの──光の粒子や透明な雫、そういった綺麗なものが弾けて、混ざって、消えていった。フレッドの身体を包み込むようにキラキラと光沢を放って落ちていく。星の雨のように降り注いで、儚く空気に溶けていった。
 コトン ──何かが転がる音がして、見とれていたフレッドの視線が下へ。フレッドがしゃがみこんで確かめようとすると今度は別の音が耳を掠めた。今まで(時間が止まっていた間)動いていた懐中時計の針が一際大きく音を立てる。それは安息の終わりを意味していた。一気に熱さと振動がたたみかける。肌を焼きつくすような空気、立っていることが許されない揺れ。クリスタルラインは当然のように星の破壊を続けていた。
「何だよシルフィの奴……忘れていきやがって」
足元に転がるそれを摘み上げて独りごちる。見覚えのあるストライプ柄の包みの、丸いキャンディーは一度開封されていたから、少しいびつな形だった。それを大事そうにポケットにしまいこむ。それから懐中時計の蓋をはじいて開けると、針に指をかけた。馬鹿だとは思いつつ、後はひたすら奇跡を祈るしかなかった。神頼みしようにも、問題の神がこちらに頼りきりなのだからする意味が無い。力をこめたが、針は先刻まで気ままに動いていたのが嘘のように断固として動こうとしなかった。
「く……っそぉ!」
こんなときに限って家族の顔が浮かぶ。台所に立つマリィの後姿や酒瓶を振り回して寝転ぶ相変わらずの父親、腹が立つくらい無防備に笑うスイング、それを愛おしそうに見守るフィリア。次々に浮かんでは消えていく幻影を、振り払おうとかぶりを振った。それなのに最終的には「彼女」までがフレッドの脳裏に割って入る。

 ── フレッド。大丈夫よ、思い出して。 ──

 咄嗟に周囲を見回した。気がふれたのかと思うほど視線を走らせる。クレスの声がした。それがどこから聞こえたのか判断できない、いよいよもって頭がおかしくなったのか。

 ── 約束を、思い出して。 ──

 それが頭の中に響いているのだと気づくと同時に、「クレス」の声でないことも察する。もっとずっと長い間、逢っていない人の声だった。しかしその人にフレッドは逢ったこともなかった。わけがわからないまま、涙だけが勝手にこぼれて落ちていく。
「逢いに……来たのか」
その人が頷いて笑った気がした。フレッドが知っているのは、その笑みがクレスよりどことなく無防備で少女のように愛らしいこと。
「時計の針は私が廻す。あなたと一緒に、廻すわ。だから信じて手をのせて」
ソフィアの声がはっきりと頭に響いた。もう一度針に手をかける。
「言っとくけど、俺は『ランス』じゃないぞ」
「……約束をしたから。私は待ってるだけのエイティシャとは違う。自分の足で逢いに行く。……何千年の時を越えて、〝あなた″に。私は私の意志であなたに逢いに来た。神の力じゃない、この意味がわかる?」
「難しいな」
フレッドは苦笑すると左回りにゆっくり力をこめた。驚くほどあっさり針が動く。喜んでいる暇は無い。フレッドは無我夢中で針を廻した。
「輪廻は……想いでつながってくのよ。間違えないで、神がつくったレールの上を私たちが歩いているわけじゃない。私が望んであなたを探したの。そしてあなたはちゃんと見つけてくれた。だから『クレス』と『フレッド』はこの時代も出会ったのよ」
ソフィアの話は観念的で理解しづらい。ただ何となく、かなりポジティブな内容を言っているのだということだけは分かる。前世も今も、きっと来世も彼女はこうなのだろうか。強く、まっすぐに背筋を伸ばして前を見る。
 フレッドは指がちぎれんばかりに針を廻し続けた。帰ったときにはもっと自分も、強くなれればいい。想いと、それをつくる心が。帰ったときにはきっと──。



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