A Lunar Eclipce Chapter 3

 嘘のように静かになった。これが本来の王城の静けさなのかもしれないし、特別な夜故の特別なそれなのかもしれない。いずれにせよ、小言製造機が一台消えただけでフレッドの周りの空気は一気に緊張を増した。
 所在の分からない時計の針の音が耳につく。遮ろうと踏み出した一歩が思った以上に響いて逆に苦虫を潰す羽目になった。体の末端が震えている。
「ここまで来て今更、だよな……。やるしかないんだ」
 自分に言い聞かせるように呟いて固く拳を握りしめた。指先から汗が滲む。今度は物音ひとつ立てぬように息を殺し、ルレオがそうしたようにドアにぴったりと体を張り付けた。
(穏便に……済ませたいな、できれば)
 手荒になれば騒ぎになりやすい、騒ぎを起こせば自分の身も危うくなるだろう。ぶら下げている長剣は抜かずに終わるのが最良だ。
 不本意だが、またもやルレオと同じように僅かに開けたドアの隙間に体をねじこんで外へ出る。きらびやかな廊下に見向きもせずにすぐさま隣のドアノブにてをかけた。
(開いてる……!)
確認のために添えた右手からドアが静かに離れていく。フレッドは息を呑んだ。誘われるように踏み入る。
 皇女の部屋の中は微かに明るかった。鉄格子の窓際に立つ白いドレスが仄かに青く光り、それが星明かりのせいだと気づく。ヴェールが風に揺れた。皇女は肩越しに振り向いただけで微動だにしない。
「ファーレン十三世第一子、第一皇女セルシナ、だな。月食が終わるまで協力してもらう」
わざと剣の鍔を鳴らした。その瞬間、ヴェールの奥の顔が微笑をこぼしたように見えた。
「それは脅しのつもり、それとも本気? 私に手を出せば終身刑は免れませんよ。……あなたの家族、恋人、友人知人、みな罪を背負い人々から蔑まれる。覚悟した上でのことですか?」
「物騒なこと言うお姫様なんだな……。大人しくついてきてくれれば何もしない」
「そういうわけには参りません。抵抗はしますわ」
 取り繕っているにしては完璧な皇女の冷静さに、フレッドの方が動揺を隠せずにいた。彼女にとって、城内で男一人に剣を向けられることは絶体絶命を意味しないのかもしれない。自分の優位に確信を持っているなら、お飾りの剣は脅しにもならない。
 フレッドは剣を抜いた。刃がまた青白く星明かりを反射する。
「悪いけど」
「それはこっちのセリフよ」
 あくまで優位姿勢を崩さない皇女、それを無視してフレッドは軸足を蹴った。窓際まで一気に距離をつめて振りかぶる。大袈裟に見せて、その実後頭部を力いっぱいぶん殴るつもりでいた。
 おそらく注意すべき点は多々あった。その機会も、何度か用意されていたはずだ。それらを全て見過ごしたのはやりフレッドが持っていた恐怖と緊張のせいで、最終段階まできてようやく彼はそれに気づいた。
 皇女はそのときもヴェールの奥で妖艶に笑っていたし、狼狽することもなかった。ただしなやかに体勢を低くしてドレスの裾から、より一層青白く光る何かを引き抜いた。それが、“ただの脅し用”のフレッドの剣を弾く。軌道を逸らされた剣先が窓ガラスをたたき割った。
「これは合図よ。直、近衛兵がここへ駆けつける」
「お前……!」
ゆっくりと、流れるようにヴェールが落ちる。美しい顔立ちだった。但し、彼女が携えていたのは微笑などではなく怖ろしく冷徹な視線と小剣、フレッドの目を一瞬奪う。見事なブロンドが夜風になびいた。
「セルシナ皇女の髪は……もっと短いはずだ。影武者、ってやつか」
 判断が遅すぎた。冷静を装ってはみたが、それに意味があるかはフレッド自身が一番よく分かっている。
「そうだったとして、それが分かってもどうしようもないわね。ここまで忍び込んでくるには城内の手引が要る。あなた何者? 黒幕は誰?」
「答えないだろそれ、普通……」
「答えてもらうわ」
小剣のリーチが思ったよりも長い。女が突きつけた刃の先端がフレッドの喉元をかすめた。反射的に息を止める。今しゃっくりが出ようものなら自爆間違いなしだ。
「自己紹介しましょうか。ファーレン王国護衛隊長クレス。名前くらい聞いたことあるでしょう?」
「ベオグラード隊の男を十人抜きする“百戦錬磨のクレス”さん、か」
「……よくご存じ」
小剣が咽喉をちくちくと刺激する。このまま膠着状態を続けるわけにはいかなかった。もたもたすればするだけ事態は悪化する。
 あごの下で鬱陶しく光る白金の刃に視線を落としながら、フレッドは腹を決めた。
「護衛隊の幹部に支給されるのはこういう頼りない小剣?」
「はあ? 何を──」
 白金の悲鳴がクレスの応答を遮った。フレッドは足もとに散らばったガラス片を大雑把に蹴散らしてそのまま渾身の二撃目を振りかぶる。当然クレスは素早い反応でそれを受け止めるが、その条件反射こそがフレッドの狙いだった。
 先刻よりも激しい不協和音を奏でる。その終曲には逆に一際美しい金属音が響いた。クレスの細い小剣の半分から上が弦のようにしなりながら宙を舞った。
「あなた、何……!?」
「答えないって言ったろ」
ベオグラードの使いパシリを長年続けていれば誰でもこのくらい朝飯前だとは口が裂けても言えない。少しだけ補足するなら、フレッドは常人よりも耳だけは良かった。何度か刃
を打ち合ったのだから、この小剣の脆い部分を見極めるくらいなら彼の得意とするところの範疇に含まれている。
 クレスの鼻先から首の付け根へ、剣先をゆっくりずらす。


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