Grand Piano Chapter 5

 白く重いファーレンの城壁とはまるで正反対の赤茶けた煉瓦が城の周りを囲んでいる。温かいような柔らかいような、不思議な印象を受けた。城門の前の兵士が二人、こちらに気づいて恭しく敬礼した。正確に言うとこちら側にいるサンドリア総隊長に向けてだ。
「暫くここで待っていてくれ」
先刻の気の良いおじさんはもういなくなっている。顔つきも口調も、立ち振る舞い全てが城内に入るなり騎士のそれになった。威厳が漂う背中を見送って、フレッドたちはしばしの時をぼんやり過ごすことになった。
 城門の前には小川がせせらいでいる。城門は倒すとこの小川に架かる跳ね橋となり、下町と城を繋ぐ。穏やかな水の流れが、緊張や疲労を奪い去るようだった。
 特に会話もないまま暫くが経ち、サンドリアが入り口で手招きしているのが視界に入った。
「入っていいみたいだな。やけにあっさり話が進んで気味悪いけど」
「サンドリア隊長は器の大きな方で有名だわ。もっと言えばベルトニア自体が大らかな気質なのよ」
 独り言のつもりだったそれにクレスが応答する。フレッドは口にした割にはつまらなそうな生返事だけして先を急いだ。
 すぐに違和感を覚える。実に簡単な理由だったがすぐには気づくことができなかった。
「こっちこっち。王もお待ちになってるよ。全員中に入って」
 左右対称に弧を描いた階段があり、上りきった中央に人一倍大きな扉が構えている。さほど派手な装飾はないにも関わらず内から異彩を放つ。サンドリアに呼ばれるままに階段を上り扉の前に立った。無意識に息をのむ。
「あの……玉座の間、ですよね。俺入れないですよ、その……貴族じゃないんで」
 ファーレンでは王城に入れるのは王職に従事している者か貴族と決まっている。ルレオなどははなから入室する気もないらしく壁にもたれて天井のシャンデリアを眺めていた。
「ああ、階級か。安心しなさい、ベルトニアにそんな制度はない。だから城内にも、玉座の間にも民は自由に出入りできる」
 違和感の正体はそれだった。辺りを見渡すと一般市民の姿がちらほらあって、その誰もが物おじすることなく好きなように徘徊している。この国はファーレンとは違う──一番
単純な認識の仕方で解決すると、やけに気持ちが楽になった。フレッドがうなずくと同時に、サンドリアは扉を押しあけた。
「ファーレン王位継承の日にわざわざ“ここ”へ来たということは何か非常事態が発生したのだね……。サンドリア隊長、人払いは?」
「既に」
 ぼんやりとしか知らないファーレン国王よりも年老いていることだけは分かる。ほとんど真っ白な髪と、濃く深い皺がそれを物語っていた。などとまじまじ観察しているフレッドをよそに、クレスが猛烈なスピードでしゃがみこむ。よくよく見るとそれも、美しい姿勢で跪いているのだと理解できた。いくつかの頭のネジがすっ飛んでしまったフレッドはのんびりと段階を踏んでようやく自分のすべきことを悟り片膝をついた。ルレオにまで遅れをとったことは不覚である。
「頭をあげなさい、とりあえず状況を詳しく説明してもらいたい。何が起こったというのだね」
クレスは許可が出るや否やすぐさま顔をあげる。どうやら一通りの説明は彼女に任せて大丈夫そうだ、但し途中からおそらく見解の違いが派手に浮き彫りになるのだろうが。
「お初にお目にかかりますファーレン護衛隊長のクレスと申します。この度は緊急とは言え、このような特例措置をいただき感謝致します。……簡潔に申し上げますと、我が国の王位は継承されておりません。……いえ、正確には皇女セルシナではなく、一般人が聖水を飲んでしまい──」
「なんと……。ファーレン立国以来の事態だな。その民の所在は」
 三人の動きが止まる。とりわけフレッドは一瞬ではあったが心臓さえも身動きが取れない状態だった。まともな返事どころか反応が見られないことに、ベルトニア王の方が困ったような顔をした。
 クレスが口元をひきつらせておもむろにフレッドを指差す。
「……彼がそうです」
一言、声に出すのが精いっぱいだった。小刻みに震える眉を制そうとクレスは瞼を閉じている。今度はベルトニア王の動きが静止した。目が点と化した世にも珍しい国王を目の前にして、フレッドにできることは作り笑いくらいだ。フレッドの涙ぐましい努力の界もなく、王は眉ひとつ動かさず凝り固まっている。
「いや、すまなかった。……気が動転してな。君が、聖水を飲んでしまったんだね? 何故そんな真似を……」
それを訊かれても困る。何故と問われて返す言葉を生憎彼は持ち合わせていなかった。それどころかそんなものがあるなら教えてほしいくらいだった。黙りこむしか、対処のしようがない。
「聖水を口にしたのは偶然だと思われますが、彼と、そこにいるもう一人は始めから今夜の王位継承を阻止するつもりで動いていました。それも……ファーレン護衛総隊長であるベオグラードの差し金で、です」
王が不審がる隙も与えずクレスは実にあっけなく事を暴露した。こうなるとただ黙っていたのではこちらが悪者にされてしまう、それだけは避けなければならない。フレッドはベオグラードの紹介状(殴り書き)を取り出して国王に見えるように広げた。
「今言ったことは全て本当です。でも国王もご存じのはずです、今のファーレンの現状を。貧困、飢餓、階級格差……十三か月戦争が終わっても内乱は絶えません。ベオグラードさんは貴方なら力を貸して下さると、そう言いました」
「ちょっと……! まるでファーレンが民を苦しめてるような言い方はやめてくれない!? それに皇女が即位すれば現状も変わるはずだったのよ。それをあなたが勝手に邪魔したんじゃない!」
間髪いれずクレスが口出ししてくる。フレッドも今度は黙っていなかった。
「事実だろ? あんただっていくつか内乱を制圧しに出てるはずだ。気づかなかったのかよ。この国は狂ってるって」
「狂ってるのはあなたでしょ!? ベオグラードに何を吹き込まれたのか知らないけど、国を変えるのはテロリストじゃない! 新しい国王よ!」
「……おい」
盛大に叫んだ直後、ルレオがうんざりした声でクレスの二の腕を引く。ここは玉座の間で、すぐ傍にはベルトニア王がいる。クレスは向き直ってすぐに頭を下げた。
「申し訳ございません……! 神聖なる玉座の間でとんだ失態を……」
また熱の冷めない火照った顔を床に向ける。国王は特に皮肉も言わず優しく微笑した。ふてぶてしくも顔をあげっぱなしだったフレッドの目にもそのおだやかな顔が映る。
「君たちのような人間がいる限りはファーレンは死にはしないだろう。ベオグラード、彼はできる人間だ、何か考えがあってのことだろうとは思う。……夜が明ければこちらにもいろいろと情報が入ってくる。それまでは休んでいなさい、ラインを越えてきたなら疲れもあるだろう。私もできうる限り君たちの力になろう」
最後の言葉を耳にして、クレスは咄嗟に頭をあげた。
「ありがとうございます……! 身に余る光栄です!」
クレスの固い敬礼に国王は苦笑して、サンドリアに後を託す。フレッドたちは玉座の間を辞去し、サンドリアの案内のままに城の奥へと進んだ。
「上手く事が運んで良かったよ。聞いていてハラハラし通しだったけどねえ。ま、何はともあれ客室へ案内しよう。ベルトニア市民でも城で寝泊まりは流石にできないよ。ラッキーだねぇ、君たちはっ」
軽快に笑いを響かせてサンドリアはリズムよく城内を突き進む。続くフレッドたちは半ばあきれ気味に適当に相槌を打っていた。最後尾の男は、輪をかけてダラダラ歩いている。
「明日には情報が、か。やってらんねぇってんだ、明日になったらさっさと帰っていつも通りの生活に戻るぜ、俺は。お前らがどうなろうが、どうしようが俺には全くもって関係ねえしな。んじゃあな」
通された部屋のドアを思い切り閉めて、ルレオは視界からいなくなった。だたのドア一枚にこんなにも感謝したことはない、フレッドは胸中で礼を述べながら自分もまたあてがわれた部屋のドアを閉めた。
 ベッドになだれこむ。何もかもを忘れてフレッドは意識をシャットアウトした。


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