Grand Piano Chapter 5

 忘れたころに決まってこの夢を見る。戒めのように、同じ夢を。
 夢の中のフレッドはまだ少しあどけなさの残る少年で、舞台は故郷ウィーム、しかし日常とはかけ離れたウィーム村だ。畑や道が灰や泥に覆われ、家屋は半壊、乃至は全壊している。時は八年前、時代は過ちの真っただ中、後に云われる十三カ月戦争の最中だった。
 トントントン、トントントン──幼いフレッドは足早に小道を駆けて教会の窓口を叩いた。背伸びをして、一心に窓をたたく。暫くして神父が勢いよく窓を開けた。窓は開いたが間には木製の網が張られており互いの顔は分からない。
「教会はいつでも悩める者、救いを求める者に手を差し伸べます。あなたの罪を告白してください」
機械のような味気ない声で神父が決まり文句を発する。
「……告解を」
「神の御前で罪を告白し、天国への門を開けていただくのです。さあ」
 フレッドは震えていた。真冬の夜に暖炉も何もない教会へ来れば当たり前だったが、原因は寒さだけでないことは明白だった。唇は真っ青で、手は凍りつくように冷たい。フレッドは震える口元を何とか制して言葉を発した。
「神父様、僕は……僕の犯した罪は許されない罪です。僕は、妹の足を、奪ったんです。帰りが遅くなって……心配した妹が外に出た途端、じ、……地雷、が」
「何故外に出たりしたんですか? ご両親に止められたでしょうに」
 村の神父は途中でフレッドだと気付いたに違いない。それほどに小さな村だった。それほどに平和な村だった。
「お父さんとケンカして、それで心配させてやろうと思って外に出ました。……妹が心配して捜しにきました」
 もうフレッドに寒さはなかった。あるのは抑えようのない不安とやり場のない悲しみ、そして恐怖。神父は頷いて祈りを捧げた。
「あなたの罪を許します。それはあなたが負うべき業ではない。……“大罪”なのです、あらかじめ定められた酬いだったのですから」
寒さを忘れたはずのフレッドの表情がみるみる内に凍りついた。かと思えば唇を噛みしめたまま目の前の木網に手のひらを叩きつける。網の向こうで神父が一瞬肩を震わせたように見えた。
「“大罪”なんて……! じゃあマリィがこうなることは生まれたときから決まってたっていうのかよ!」
「……神はあなたに赦しを与えた。何も気に病むことはないと言っているのです。神に感謝し、敬愛し、運命を受け入れなさい。全ては神の思し召しなのだから……」
 ぼんやりと神父の影が指を組み、また祈りを捧げているのが分かる。フレッドはかぶりを振って教会を後にした。
 マリィの両足が不自由になったことで、フレッドを責める者は誰もいなかった。父親も友人もこの神父も、そしてマリィ本人でさえもフレッドを許していく。それが彼には拷問でしかなかった。いっそ自分を責めてくれたらどんなに楽か、その望みはだれ一人として叶えてはくれなかった。


 目を覚ましてすぐは体を起こせずにいた。寝ころんだまま高い天井にぶら下がっているシャンデリアを何となく凝視する。
「ずっと見てなかったのにな……、何で今更」
ひとりごちて、ふと窓の外に目をやる。ベッドに倒れこんだのが深夜だったことは覚えている、が窓の外の景色は夕闇に染まっていた。沈みかけた太陽と青々とした森林はフレッドの記憶と時間感覚を見事に狂わせる。結局頼りになるのは柱に掛った厳かな時計である。針は仲良くそろって真下を指している。
(マリィ……心配してるだろうな)
フレッドは見えるはずのない我が家の方向へ視線を送った。高い城壁と森林、その向こうにラインがあり空と大地をはっきりと二分している。絵に描いたような美しい景色にか、ドラマのような自分自身の運命にかは定かではないが、フレッドの口からは絞り出すような深い嘆息が漏れていた。脳裏をよぎるのは残してきた妹と友、別れたままの仲間、そして──。フレッドはそこで自らかぶりを振って思考を遮断した。
 どうやら、という頼りない憶測はこの際意味がない。確実にフレッドは一日を寝過していた。昨晩死人のように爆睡して朝も昼もその勢いに任せて睡眠天国を満喫したようである。
 欠伸を漏らしながら気だるそうに部屋を出た。途端に馬鹿長いきらびやかな廊下が始まり、一気に目が覚めた。皺だらけの衣服を無造作に伸ばす。
「起こしに来ないってことは別段これといって事態は変化してないってことかな。あいつらも、何も言ってこないし……」
横目で面倒そうにルレオの部屋を見やる。いびきや寝言、歯ぎしりなんかは意外にも聞こえてこない。静寂に包まれた空気が胸中とは対照的で、居心地が悪い。逃げるように廊下を進んだ。ルレオの部屋、クレスの部屋、次々と素通りしていく。
(ほんとにファーレンとは大違いだな。外観も内装もあっさりしてる)
 暫くずんずんと突き進んで、やがて足が止まる。足元から天井まで一繋ぎの窓が両側面に延々と続く廊下に出た。窓は夕陽の全てをとりこまんばかりに、廊下を鮮やかなオレンジに染めていた。通行人フレッドの肌も眩いほどに照らされる。疲労困憊の溜息ばかり漏れていた口から、感嘆が久しぶりに漏れた。
 舞台のような美しい通路を抜け、すぐにまた別のものに視界を奪われる。開け放したままの大きな両開き扉、フレッドの眼はその奥にある黒光りしているグランドピアノにくぎ付けだった。無数の天窓と小窓の間から差す太陽光をチカチカ反射してはフレッドの興味を駆り立てる。まるで誘われているような、そんな妖しささえある。
 フレッドは人目を気にしながらおもむろにピアノに近づいた。近くで見るとやはり見事だ、傷一つない外観に加えて埃もない。
(流石王城、ちゃんと手入れはされてるんだな。……こんな凄いやつ、うちにはあったっけ……)
品定めしながら手は勝手にピアノの蓋をあげている。真っ黒な外観とはうってかわって真っ白な鍵盤が顔をのぞかせた。フレッドは蓋を固定すると、基準音を人差し指で恐る恐る押した。鍵盤へ軽快にめり込んで、室内に音を響かせる。



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