他に方法はない──最後にベルトニア王がそう付け加えた。もっともほとんどの人間は上の空で聞いてはいなかったが。
「聖水の効力は絶対なのよ。でもまだ道はあるかもしれないし」
何故か先刻から必要以上に気を配るクレス、フレッドは聴こえているのかいないのか無表情のままどこか一点を見つめていた。
生まれてこの方誰かに切に必要とされた覚えもなかったがここまで死を望まれた記憶もない。
「俺がしくじらなきゃ今頃はルーヴェンス大臣がファーレンの玉座に座ってたのかもな。言われても仕方ないか、それだけ違う意味で歴史を変えたわけだし……」
諦めに似た疲労がいろいろな感情と混ざって一気にこみ上げてくる。それらに蓋をするようにひとつ嘆息して、フレッドは落ち着きを取り戻そうと努めた。対して、顔色を急激に変えた者がいる。きっかけはフレッドが何気なくこぼした愚痴の中に潜んでいた。
「フレッド……、今、何て?」
強張ったクレスの顔を見て、フレッドは一瞬躊躇した。良くも悪くも一瞬だ、胸中で自らの台詞を復唱したがどう考えても今となっては大した意味を持たないはずだ。
「何って別に。俺たちは次の王にルーヴェンス大臣を推していた、失敗に終わったけどな」
呆れかえった反応が返ってくるものとばかり思っていた。が、フレッドの勝手な思い込みに反してクレスは確認するや否や形相を変えてフレッドを睨みつけた。
「やっぱりあんたたち……何も分かってない。取り返しがつかないことをしたのよ!! あんたたちは! ……ルーヴェンスですって? そうね、確かに彼は財力も権力も国を牽引していく能力も持ち合わせてるわ。けど、それが善心だとは限らない……!!」
クレスは唇をかみしめた。悪意に満ちた瞳の矛先を、どこへも向けられず瞼を強く閉じる。
「何なんだよいきなり……っ、どういう意味だ」
「ルーヴェンスこそ反逆を狙いファーレンの独裁を企んでいた張本人よ! 私と一部の護衛隊でマークしてたのに……! あんたたちはファーレンの独裁化をお膳立てしたようなものじゃない!」
クレスの絶叫が玉座の間に響き渡る。フレッド、ルレオはただ唖然とするだけだ。
「何でそんなことが言える……? 独裁してるのはファーレン十三世だろ?」
「いや、彼女の言うことはあながち間違いでもないかもしれん……」
ベルトニア王が眉をしかめて顎に手を当てる。ありがちな体勢で唸ってから王は静かに口を開いた。
「ベルトニアにも似たような情報は入っていたし、何より今の状況だ。ファーレンとの通信が途絶えたのはもしかすると……」
「まさかっ……」
半分ひきつった笑みで弱弱しく否定するフレッド、言葉とは裏腹に鼓動は早鐘を打っていた。やり場のない苛立ちともどかしさで震えるクレスの指先を目にして、更に動揺が広がる。
「ベオグラードの所在が不明なのもファーレンで何かが起こっているからよ。このままいけば確実にルーヴェンスの思うつぼね」
クレスが投げやりに言い捨てるのを聞き流しながらフレッドは葛藤を繰り返した。素直に納得できないのは、くだらないプライドのせいだ。ないに等しいくせにこういうときだけやたらに出しゃばってくる。無意識に溜息が漏れた。
しかしその仮説はものの数秒で証明されることとなった。フレッドの首を縦に振らせるきっかけが、突如として後方、入口に出現する。不躾に扉は開かれ、そこには息を荒らげ多量の汗を滴らせる若者が立っていた。顔色は真っ青だ。フレッドたちの姿を目にすると呼吸もままならない状態で深く敬礼した。
「御来賓の前での無礼をお許しください……! 陛下、至急ご報告したきことがっ」
「何事だ。お前はライン経由で送った使者のひとりだな。構わん、話せ」
再び若者は敬礼する。数秒横目で三人を見やった。
「申し上げます! ファーレン、ベルトニア間のラインは完全に封鎖、ファーレンに入国することは不可能でした」
「何だと? 通行証は」
「はっ! 国王交代のためこの通行証は無効などとわけのわからないことを……しかし現に兵は見慣れない顔ばかりです。あれはたしか大臣殿の衛兵ではないかと……」
ただ唖然とするしかなかった一行の顔色が変わった。ベルトニア王も険しい顔つきで瞼を閉じる。
「報告御苦労だった。兵舎にさがり休むが良い」
若者はまた、この事態の発端であり中心人物であるフレッドたちに視線を送って敬礼した。扉が閉まるのとほぼ同時にルレオが嘆息する。もう彼らにはクレスの仮説を否定する要素が何一つ残されていない。
「さーてどうする? このまま明日の晩までここで情報を待つか? つってもラインが封鎖なんかされてるんじゃその情報も下りてこないわけだ。お手上げだな」
眉と肩を同時にあげる。クレスの刺すような視線を気にともめずルレオは欠伸を漏らした。ここまで動揺しない男も希少価値だ、ある意味で感心しながらフレッドはゆっくり瞼を閉じた。心は決まっていた。
「ファーレンに戻ろう……。俺はこのことをベオグラードさんに伝えに行く」
クレスが顔をあげた。フレッドの決断と発言が意外だったのだろう、すぐに微笑して小さくうなずいた。
「分っかんねぇ奴だな、ラインは通れねーって言ってんだろ。帰りたくても帰れねぇの、俺らは。だいたい今戻ったらそれこそ逆効果じゃねえのか? みすみす殺されに行くつもりかよ」
「じゃああんたはここに残るんだな? いいんだぜ別に、そっちの方がスムーズに進むわけだし」
「なんだと! てめぇ!」
ルレオがフレッドの胸座を掴む前にクレスが国王に向き直る。
「国王陛下」
そして掴んだ矢先、クレスの声で二人の動きが止まる。と言っても最初からフレッドは無抵抗だ。ルレオが舌打ちとともに身を引く。
「小さいのしか残っていないがそれで良ければ船を用意させよう。……ファーレンの混乱はベルトニアにとっても関係のないことではない。できうる限り君たちに協力しよう。まずは彼の言う通りベオグラードに会い情報を共有するのが良かろう」
「ありがとうございます……! 明朝に経てますか」
「うむ、急ぎ準備させよう。今日は明日に備えてゆっくり休むがいい」
その後二三クレスと国王が確認の会話を交わして、三人は玉座の間を後にした。フレッドが扉を閉めた途端、
「おい」
振りかえると半眼のルレオが突っ立っている。フレッドは直感的に嫌な予感を覚え胸中で唾を吐いた。このやりとりに気づいたクレスは十メートルほど前方で二人を待っている。
「ファーレンに戻ってもやり方は同じだぜ。俺はお前のすることに口出ししねぇし助けもしねえ。けど次に失敗したときは容赦なくぶっ殺すからな。……覚悟しとけよ」
冗談を言っている風ではなかった。フレッドは無反応なまま歩き始め、ルレオの横を素通りする。
「おい……!」
「それはあんたにも言えることだからな。自分が何もヘマしてねぇなんて言わせねぇぞ」
すれ違う瞬間、ルレオの耳元で小さくつぶやく。数秒視線をかち合せて、互いに興味なさそうに顔をそらした。無論クレスに会話の内容は聞えていない。
「……上等じゃねえか。野郎……」
握りこぶしを更に強く握り返してルレオは独りごちた。二人の亀裂はここにきて修復どころかさらに激しく広がっていた。彼らに共通するのは嫌悪を相反する気持ちだけである。
三人は各々好き勝手に過ごし明朝を待った。時代の歯車が音を立てて動き始めたのを、彼らはこのとき知る由もなかった。