Grand Piano Chapter 5

 一昨夜、彼の日常は死んだ。父親と言い争うことも、妹の料理を口にすることも、友人とくだらないことで笑い合うことも、そして兄夫婦を横目に奥歯を噛みしめることも、彼の日常を構成していた全てが弾けて、消えた。今が非日常であることを忘れずにいれば、いつかは日常に帰れるものだと思っていた。無意識にそう思っていたから、この『非日常』の舞台や登場人物たちに必要以上に深く関わらないよう努めた。
 しかしフレッドは日常の死を知ってしまった。そして同時に思い出していた。それを望んだのは確かに自分自身であったことを。


 無意味に急ぎ足で城内を駆けている。そのすぐ前方を同じく急ぎ足で歩いているのはルレオだ。両者の表情はいつも通り両極端で、ひとりは平然と、もうひとりは青筋を蓄えている。ただいつもと違うのは、今日に限ってはフレッドが後者ということだった。
「しっかしあれだな。城のベッドってのは寝心地が違うよなあ? まさに地獄から天国だな」
間接をほぐしながらルレオが独りごつ。
「言っとくけど玉座の間で無礼な態度はとらないでね。今の私たちはファーレン代表としてここに居るんだから」
「犯罪者代表だろ。お前こそヘタレ男にムキになって取り乱さねえことだな」
クレスは出かけた言葉を飲み込んだ。反論の言葉はいくつか持ち合わせていたがこの男に何を言っても無駄である、早々に悟って冷静を装った。
 三人は再び玉座の間へ向かっている。数分前にベルトニア兵がフレッドたちを起こしにわざわざ部屋までやってきた。それがフレッドのご機嫌斜めの理由でもある。彼は部屋に入るためドアノブに手をかけた矢先だったのだ、一息つく間もなくこうして駆り出される羽目になった。
「わざわざ国王から呼び出しがかかるってことは、ベオグラードさんと連絡でも取れたかな。それとも何か重大な情報が……」
「単に夕飯とかな」
クレスの位置からは前の二人のやりとりがよく見えた。肩を落とすフレッド、笑いをこらえるルレオ、緊張感の欠片もない光景が視界を占拠している。良い状態、とは一概に言えないがライン越山時の二人の常軌を逸した言動を思えば今は安心して見ていられる。
 窮地に陥ったときの人間の無力さと醜さを、たった一晩で彼らは網羅してしまった。
「さてと。いい? 入るわよ、お二人さん」
無言の睨みあいを続ける二人に、近所の子どもを叱りとばすお姉さんのような口調でクレスが諭す。扉をゆっくり押しあけた。
「国王陛下、参上仕りました」
相変わらず教科書のように綺麗な敬礼の後、クレスは片膝を床につけ傅いた。フレッドもルレオも見よう見まねで取り繕う。
「そのようにかしこまる必要はない、顔をあげなさい。急ぎ調べさせた結果分かった情報を早急に伝えておこうと思ってな」
クレスが遠慮気味に顔を上げる、その目に一気に立ちあがって前に進み出るフレッドの姿が横切った。
「ちょ……っ!」
「ベオグラードさんの情報ですか!? 今どこに……!」
ベルトニア王はその勢いに目を丸くしつつも、すぐに気を取り直して咳払いした。
「いや、残念だが彼の所在ははっきりしていない。ベオグラードどころかファーレンそのものの動向が入ってこんのだ。定期の連絡船さえ途絶えている」
「どういう……ことですか?」
クレスが一気に不安色を露わにした。国王は一瞬間だけ目を伏せた。それがフレッドたちの不安を駆り立てる。
「ファーレンで何かが起こっているのは間違いないだろう。今、ラインから使者を出している。明日の夜には情報が入ってくるはずだ」
端的に国王の口から発せられる説明は何でもないことのようでひどく重い。思っていたより遥かに事態は悪化していた。
 完全に俯いたフレッド、同じ位置にクレスが進み出る。
「明晩まで事態ははっきりしないということでしょうか? その……それだったら他にご相談したいことがあるのですが……」
「私に答えられる範囲なら構わないが」
クレスは再び丁寧に敬礼してベルトニア王の心遣いに深く感謝の意を示した。僅かに視線をフレッドへ向ける。
「ファーレンの王位のことです。ご存じのとおり現在のファーレン国王は……彼、フレッドということになっています。もっともその事実は民衆には隠ぺいされているはずだと思いますが……。この先私は、彼はどう行動すべきなのでしょうか」
 フレッドが両目を見開いた。思いのほか彼女はこの先のことを考えている。目先のことに気を取られては考えることを放棄している自分が今更ながらに無責任すぎるように思えて、フレッドはばつが悪そうに奥歯を噛みしめた。
「俺はできれば相応しい人間に王位を戻したい……。ベルトニア王、なんとか王位を解消する方法はありませんか? ……もしあるんだったら多少の危険は」
便乗した、といえば聞こえは悪いがフレッドはこの機を逃すまいとありのままを口にした。彼が今やるべきことは国の平和を思うことでも他人の心配でも、ましてや革命などでもなくたったひとつこれだけだ。
 国王の口が重そうに開く。
「ないことは、ない。ただ……」
「かまいません、教えてください」
リスクを伴うのは承知の上だ、鷹をくくって息を呑む。
「ファーレン王位継承が行われるのは月食の日だ。……次の月食まで辛抱すれば新しい聖水が湧く」
「え? それじゃあ……!」
一筋の希望の光が差したところでお約束のようにあの男がしゃしゃり出てきた。今の今まで他人事のようにふるまっていたのだから最後までそうしていればいいものを、ここにきて首をつっこんでくる。ほくそ笑んで肩を竦めていた。
「お喜びの最中悪いんだけど、お前、次の月食がいつだか知ってんのか?」
相も変わらず腕組みに癇に障る嘲笑を携えている。フレッドは対抗して少しだけ肩を竦めてみせた。
「一年と二カ月後、それまでお前がファーレン王を演じるって? アホらしすぎて腹が痛ぇっつーの!」
本当に他人事のように言ってくれる。ルレオには既に、ここが玉座の間であるとか、これが国家存続に関わる事態であるとかいう緊張はこれっぽっちもなかった。ここまで無関係を貫かれるともはや腹も立たない。
「……他に今すぐ解消できるものは?」
「ねえってそんなもん! もうこの際、王でも死刑囚でもなっときゃいいだろ? 逐一こだわるなよ」
ルレオの横やりは無視してフレッドはベルトニア王を直視して返答を待つ。王は口を真一文字に結んだまま開く気配すら見せず視線を泳がせた。クレスが訝しげに、フレッドとベルトニア王を交互に見やる。
「ベルトニア王……? どうかなさいましたか?」
「いや……あまり言いたくはなかったのだが仕方あるまいな。王位は継承する以外でその効力を無くすのはただひとつの場合のみ、王位を持ったまま国王が死去したときだけだ」
 空気が、一瞬止まる。フレッドの瞳孔も焦点を外してぼやけた景色を映し出した。誰も何も言わなかったがベルトニア王はそのまま話を続けた。
「その場合のみ期日も儀式も無視して別の者が王位を継承することができる」
抑揚のない声がフレッドの胸を締め付ける。ベルトニア王も同様に心を痛めていたが、この言葉はどんなに綺麗に修飾しても“お前が死ねば”の意にしかならない。それは、昨日一晩で何度となく繰り返された言葉だった。何の躊躇もなく、それを繰り返し発していた男がやはりこれに限っては率先して首をつっこんでくる。
「へー。まあ、結局それしかねぇんだろ? 俺が言った通りじゃねえか。お前が死──」
ルレオが全てを言い終わる前にクレスの手のひらがその口を塞いだ。フレッドはそれを無理の隠せない苦笑いで以てかわす。


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