Seed of Fear Chapter 8

「おはよう。……これでもかってあくびね」
部屋を出て背伸びをしたところをタイミング良く目撃される。フレッドの動きが涙目のまま固まった。
「なんで……」
「エマの宿はここだけよ。不思議なことじゃないでしょ」
「ああ……」
寝不足の思考回路は身体よりエンジンがかかるのが鈍い。クレスの心外そうな顔をぼんやり見つめてひとつひとつ整理しようとまた欠伸を漏らす。二つ向こうの部屋のドアが開いて似たようなあくびをする男と目が合うと、一気に目が覚めた。立て続けにあくびだけを見せられたクレスは肩を竦めている。
「ようキング、今朝のお目覚めはいかがですかねぇ」
この男は口を開けば文句か皮肉かどちらかだ、意図的に気付かない振りをしてベオグラードの部屋へ向かう。
「おい、シカトはねえだろボンクラ王子! 耳の穴開いてんのか!?」
そしてこの男はフレッドのあだ名を無尽蔵に増やす。そもそもきちんと名前で呼ばれた回数を数えると片手で事足りる程度だ。耳の穴が自意識で塞げるなら是が非にでもそうしたかったが、フレッドは心を無に近づけることくらいしかできない。
 ベオグラードは既に荷物をまとめてリナレスとパブリックスペースで早朝の紅茶をすすっていた。
「よしよし全員揃ってるな。クレス隊長にも協力してもらうからそのつもりでな」
まだ眠気眼のフレッドたちを置いてベオグラードは爽やかに宿を出ていく。リナレスが金魚のフンのようにその後をちょろちょろと追った。三人も顔を見合わせて後に続いた。
「なあ、クレス」
 改めて、きちんと名前を呼ぶのはもしかしたら初めてかもしれない。そうでなかったとしても片手で足りる回数だ、ルレオのことをとやかく言えない。気恥しさと違和感に捉われながらもフレッドはそうきちんと彼女を呼び止めた。
「何?」
これが普通の会話のはじまりというものだ。彼女も名を呼ばれたからにはそれ相応に振り返って、立ち止まって、相手の言葉を待つという正しい手順を踏んでくれた。
「あんたがベオグラードさんの計画に乗ってくるとは思わなかったよ。一応、謀反だろ」
「何の権利もないのに堂々と玉座に居座ってるんだから力づくでもどいて頂くのが当然でしょ、謀反とは違う。それに目的は同じだと昨日も言ったでしょう?」
フレッドは分かったような分からないような生返事をする。分かったのは彼女が皮肉を吐きだすとルレオとは違った意味で容赦がないらしいことだけだ。クレスはそんなフレッドの胸中を見越してか片眉あげて苦笑した。
「それと私、フレッドの力はこれでも買ってるのよ? 下手な傭兵より実力があるもの。だから無謀な計画だとも思わない、やる価値があるわ」
「それは……どうも」
フレッドは照れ隠しに鼻の頭をかいた。今までの彼女の言動からしてお世辞などは言わないタイプだ、素直に褒め言葉として受けとる。
 それとは別にフレッドの思考はこのときもう正常に働いていた。クレスに“理由”を問うた意図を改めて考えるくらいの稼働状態は整っていた。
(俺は──)
 クレスにはいつも“理由”が存在する。そしてそれに忠実に動く。それが『信念』と名のつくものに等しいことをフレッドは知っていた。彼は今、同じ質問を返されなくて良かったと思っている。かろうじて水平に保っている足場を崩されるわけにはいかなかった。
 宿の前に出てすぐさま目に入ったのがくつわをつけられた馬二頭と白タイツの青年、その後ろに繋がれた奥行きのある馬車だった。
「ひょっとしてこれで移動、ですか」
「ご不満ですか? 王都でもない限りここらの道を車なんかで走るのは無理ですよ。畦道ですから」
ベオグラードの代わりに白タイツの馬車ひきが得意げに答えてくれた。しかしフレッドが心底指摘したかったのはそんなまともな内容ではない。馬車ひきの独特な服装を見て苦々し思い出が戦慄に蘇りフレッドは頭痛をもよおしていた。うんざりした顔をしながらも黙って馬車に乗り込む。クレスがその横に座った。最後部座席にベオグラードとリナレスが座る。最後にルレオが先頭、馬車ひきの隣の席についた途端、恐れていた事態は起こる。
 ルレオは乗り込もうと半分腰を浮かしたままの状態で器用に凝固している。やがて顔中の筋肉が小刻みに痙攣し始めたかと思うと次の瞬間──。
 ブッ! ──馬車ひきの若い男は気の毒なことに真正面からルレオの噴射した唾液をくらう羽目となる。呆然とする馬車ひき、唖然とする他者、そして顔を真っ赤にして笑い転げるルレオ、皆の反応はちぐはぐだ。
「なんで……! なんで白タイツなんだよっ……。これじゃあお前、パレードんときのフレッ……」
ままならない口調で疑問と状況説明と理解を口走りフレッドを見やる。一瞬、時が止まった。
 プーーッ! 今度は多少堪えたらしい、膨らみきった頬からやはり唾液が勢いよく飛んだ。
「ありえねぇ! 俺、ウィームまでこいつの隣かよっ。……死ぬ! 笑い死ぬって!!」
「うるせぇ! さっさと座れよ、出発できないだろ!」
たまりかねてフレッドが口をはさむ。こちらはだいたいこの反応を予想していたのか赤面しながらも平静を装うことに必死だ。
 ルレオは大人しく席に着いたかと思えば黙り込んで肩を震わせている。どうやら笑いを懸命に堪えているらしい、それでも時に小さく声なき笑いがフレッドの耳に届いた。
「何なの……一体」
 クレスはひとり事情を知らない。ルレオが大ウケしているわけもフレッドが赤面しているわけも想像不能だ。しかし今フレッドにこの件について尋ねようものなら火に油を注ぐことは目に見えている、そう思って口出しはしないことに決めた。
「失礼なお客さんだな……! いいですか!? 出発してっ」
「悪いな、そうしてくれ」
ベオグラードが最後部から応えると馬車はリズム良く街道を抜けて一気に畦道を走り出した。石畳の舗装された王都では車も走れるが、ファーレン国土の主要な移動手段はまだまだこの馬車だ。
「すいません、馬車ひきのお兄さん」
暫くするとルレオが真面目な顔つきを作って馬車ひきを見やった。相手は無論前方を見たままだが快く返事をする。
「サ、サインもらってもいいですかあ!? ってか!」
馬車ひきの心遣いを無下にしてルレオは腹を抱えて自らの膝小僧を叩く。関わりたくなかったがフレッドが後部座席から顔を出した。
「黙って座ってろ! 突き落とされたいのか!?」
「だってお前、せっかく仲間に会えたってのに……。人生二回も白タイツ族に会うなんて俺ってなんてツいんてんだろう……」
押し籠めていた怒りのメーターが一気に振り切れる。しかし決定打はルレオではなく、ここまで無関係を貫いていたクレスだった。
「もういいじゃない! 趣味なんて人それぞれでしょ?」
「……趣味!! なるほど!」
ルレオはうろこがとれたように爽快な顔を一瞬つくると、今度はそれをおかずにこれでもかというほど笑い転げる。フレッドは立ちあがって刀身と鞘の間に指を滑らせた。
「お、お客さん! 危ないですよっ! 座ってください!」
「ちょっと何物騒なもの出してんのっ」
「そうだそうだ、白タイツ族はもっと穏やかな民族だったはずだぞ!」
慌てふためく馬車ひきとクレス、に混ざってルレオの悪ふざけはとどまるところを知らない。傍観を決め込んだベオグラードとリナレス、おそらくこれが賢い選択だ。
 この後フレッドが馬車の中で凶器を振りまわしたのは言うまでもない。



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