Seed of Fear Chapter 8

 馬車ひきは道中絶えず冷や汗を流していた。白タイツにも俄かに汗が滲んだが、気にしている心の余裕はただのひとときもなかった。隣の客は何が可笑しいのかこのままほっておいたら笑い死ぬんじゃないかというほど痙攣しているし、真後ろの客は何が気に食わないのかいきなり刃物を振りまわし始めるし、最後尾の責任者らしき男はこの騒ぎを止める気はないようだし、とにかく貧乏くじを引いたと溜息をつく他手立てが見当たらない。
 極めつけがこれだ。目的地を目前にして、青年は馬車を停止させた。騒ぎ疲れてぐったりしていたフレッドが景色を見て首をかしげる。
「何で止まるんですか。まだ先ですよ、ウィーム」
「……あれ、見えませんか? 申しわけないんですけど私が近寄れるのはここまでですよ。巻き添えは食いたくないですからね」
 空がいつからか淀んでいた。風はない。暗雲は辺り一帯に渦巻いていた。そしてその暗雲に飲み込まれるように細い煙が頼りなくいくつも立ち上っている。ゆらゆらと、弱弱しく昇る。
「フレッド! ちょっと」
クレスの叫び声で眠気眼だった他の連中が一気に身を起こす。その前にフレッドは馬車を跳び下りて煙の立ち昇る方へ走っていた。一秒でも早く、現実を確かめる必要があった。
「何!? 何!? 何事!?」
リナレスがわけもわからずとりあえず馬車を降りる。ベオグラードが馬車ひきに代金(幾分上乗せされている)を支払いながらその後に続いた。クレスがフレッドの走り去った方向を無言のまま視線で指し示すが、ベオグラードはばつが悪そうに頭をかくだけでとりわけ慌てもしない。
「ウィームって……そっか、フレッドの村だっけ。ああいう小さな村も潰しちゃうんだ……」
「まだそうと決まったわけじゃないだろう、行って確かるぞ」
ベオグラードは落ち着いて状況を判断し適切な行動をとる、または他者にそれを促す。いつもと変わらず冷静だ、それがひどく他人行儀に見えてクレスは苦虫をつぶしていた。


 暑くもなく寒くもない。それなのにフレッドの背にはべったりと汗が滲んでいた。額から流れるそれは次々と頬を伝う。中腰の体勢で適当に汗をぬぐって再び顔をあげた。
「ルーヴェンスの野郎……! ふざけやがって!」
煙はウィームの住居ほぼ全てから立ち上っていた。物資を調達するにも拠点として抑えるにもお世辞にも価値があるとは言い難い平凡な村のはずが、今は無残な姿をさらしている。荒らされた田畑、焼かれた家屋、負傷した人々──全てはあの日、十三か月戦争真っただ中と同じ光景であった。
 干からびた地面を踏みしめてフレッドは自宅へと走った。最後に家を出たのは革命当日、父親と言い争った直後だ。フレッドはドアを開けたらその続きが始まることを心底願った。普段は呼吸を整えてからしか開けないドアを躊躇なくはね開ける。扉は鍵すらかかっておらず向こう側の壁に激しく衝突した。不意の轟音に中にいた人物が高速で振り返る。
「まだ文句があんのかくそったれ! うちには誰もいねぇし何もねぇって言ってんだろうが!」
 フレッドは肩を落とした。涙の再会を期待していたわけではないが、こうも希望通りに
「つづき」が始まると拍子抜けだ。相手は言い放った後で照れくさそうに目を伏せた。
「……タイミング良く帰ってきやがって。今更うちに何のようだ、くそぼうず」
「ごあいさつだな。その傷で言えた台詞かよ」
生傷だらけの父親を相手にくだらない言い争いをするつもりはさすがにない。始めの雄叫びから察するにルーヴェンス兵にかなり手痛い目にあわされたらしい、家の中も散々に荒らされていた。棚という棚は全てひっくり返され、無残に生活用品が床に散乱している。
「……誰にここまでやられたんだよ」
「バカげたこと言ってんじゃねえ。騎兵隊に決まってんだろうが! ったく、こっちは抵抗できねぇと思って好き勝手殴りやがって。冗談じゃねえってんだ……ってて」
負け惜しみを吐きながらおもむろに立ちあがる。全身の青あざが彼の表情をゆがめていた。支えようと踏み出した足をフレッドは寸前でひっこめた。酒の匂いがする。咄嗟に顔を覗き込むと案の定赤らんでいた。
「いい身分だな、こんなときまで酒飲んで……。いい加減にしてくれよ」
足のおぼつかない父親は左右に揺れながらバランスを保っている。肩を貸す気にはなれなかった。ふらついているのが酔いのよるものか傷によるものか見極めるのは困難だ。
 父親は座りきった目で皮肉の笑いを浮かべた。
「こんなときだから飲むんだろうが。いい子ぶんなよ、所詮お前は俺の息子だからな。どんだけ粋がろうが終いにたどり着くのは俺んとこだっ」
「なるかよ……っ。マリィは!」
父親から視線を逸らそうと大げさに辺りを見回した。妹の姿どころか気配すらない。結局再び目の前の酔っ払いに確認を取る羽目になる。
「……あいつぁ楽器庫にいる。何されるか分かったもんじゃねえからな」
フレッドがすぐさま踵を返そうと足を進めた矢先、ドアノブを掴んだとほぼ同時だった。
「……おい」
見計らったように低い声でフレッドを呼び止める。先刻とは違う空気のようなものを感じ取ってフレッドも一応肩越しに振り返る。
「スイング、連れていかれたぞ連中に。あいつ脅して利用するつもりか知らねぇけど、そうなりゃこの内乱、ルーヴェンスのくそったれの勝ちだな」
今思いだしたような口調を装ってはいたが、おそらく父親のメッセージの主題はこれだったのだろう、フレッドの顔つきが一気に強張る。
「何でほいほい連れていかれてんだよ……っ。あいつならルーヴェンスの兵くらい散らせんだろ」
「知るか! それよりさっさとマリィんとこ行った方がいいんじゃねえのか? 鍵かけてあるっつっても絶対安全って保障はねえぞ」
まるで赤の他人のような言い草に疑問符がすぐさま青筋に変わった。そして自責の念が一気に湧きあがる。やはりマリィひとりをこの家に残していくべきではなかったんだと、今更ながらに後悔した。
(マリィごめんな。無事でいてくれよ……!)
 胸中で祈るように呟いてフレッドは自宅裏の楽器倉庫に向かった。フレッドにとってここは仕事場であり隠れ家であり、唯一落ち着ける場所である。古い大型の楽器類を始めフレッドが選んで仕入れた新型や地方の民族楽器、楽譜や演奏備品、修理道具、一通り何でもそろってある。その宝島のような感慨はフレッド唯一のもので他者にとっては薄暗い、陰湿なただの倉庫にすぎなかった。



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