「完全封印空間」
「……え?」
「シールド魔法の応用。特定の空間を掌握して、空間内の魔力の流れを完全遮断する。ここなら……ハイスの中の悪魔がどれだけ高位な奴でも、無力化できる」
聞き返した手前何か反応をするべきだったのだが、僕はただ言葉を失っていた。
「フレデリカは、あのとき僕を攻撃しようとしていたわけではなかったんですね」
「あのとき?」
「ゴルド遺跡で僕の封印を解いたときです」
「無力化も攻撃も両方できるようにしていたけど……?」
こいつは何を言ってるんだとばかりフレデリカは眉を顰めた。恥ずかしすぎて僕は再び口をつぐむことになった。これ以上問答を重ねても余計な現実が暴かれるだけだ。
僕は促されるまま中央の木椅子に腰を下ろす。座った状態の僕と、距離を置いて立ち、僕を見下ろすフレデリカ。図らずも、出会ったときと同じ構図になった。そしてあのときと違う点があることにも気づく。
「この魔法、ひょっとしてもう発動済みですか?」
フレデリカは眉一つ動かさずに頷く。
「この部屋は、今後ずっとこの状態にしておくつもり。人体に別に悪影響はないし、一回一回発動しなおすのも面倒」
「陣だけじゃなくて、この封印魔法自体を稼働状態にしておくってことですか? ずっと?」
「そうだけど……何?」
「いえ……」
それが彼女にとっては大した事案ではないのだろう。この、発動だけで膨大な魔力を持っていかれる高度で複雑な魔法を、常時稼働状態にしておくということが。彼女にとって「花に水をやる」程度の行為に、僕はいちいち過剰反応しているようだ。慣れるしかない。
「左手、いい?」
許可をするまでもなく、フレデリカは椅子の前に屈んで僕の左手首を返した。ゆっくりと、僕の動脈を、その上を走る四重の魔法陣を親指の腹でなぞる。似たようなことを昼間グリムロックからされているのに、僕は思わず生唾をのんでしまった。僕の反応が場違いであることは百も承知だが、こういうときの脈拍数や鼓動はそうそうコントロールできるものではない。これもきっと慣れるしかないんだろう。
「この四重の陣の、一番外側の封印を今から解く」
「一番目の悪魔のお出ましってわけですね。どのくらいかかりそうですか?」
「その陣の解析はもう済んでる。だから時間はかからない」
いつのまに、という疑問を僕は呑み込んだ。フレデリカが全神経を僕の左手首に集中させているのが分かる。何を言っても今の彼女にはきっと耳障りだ。
いつもは鈍い紅色に光っている左手の陣は、青白い月明りの中で紫に染まって見えた。いつもと違って見える、というだけの話だ。それなのに目を背けたくなる悍ましさがほんの少し和らいだように感じる。
僕は自分が持った感想の馬鹿馬鹿しさに自嘲してしまった。人間の脳や、それが作り出す感覚なんかこんなものだ。本質に何も違いがないことを知っていても、当座の都合で善悪を作り出す。そのほうが格段に生きやすいのだから、仕方のないことなのかもしれないけれど。
目に見えるものでさえこうなのだから、形而上の存在である悪魔や精霊、彼らが住まう"坩堝【るつぼ】の世界"について、僕らが本質的に理解できる日は永遠に来ないのかもしれない。
身動きはできないから、僕は眼下にあるフレデリカの旋毛を眺めながら取り留めのない思索に耽っていた。
「封印を解除して悪魔が出てきたとして、危険だと思ったらすぐ逃げてくださいね」
「必要ない。そのためにここを準備したんだから」
思わず声をかけてしまったが、反応は無いと思っていたから少し驚いた。左手の四重の陣は、フレデリカが触れている部分を起点に徐々に光を失っていく。一番外側の円はもう三分の二以上消えていた。
「フレデリカの魔法は魔力を完全遮断するものなんですよね。物理でいけば制圧できちゃうじゃないですか」
僕の筋力ではグリムロックには敵わない。でも、彼女の部下らしき監察官くらいなら張り合えるだろうし、フレデリカに至っては言うまでもない。僕は僕の知らないところで彼女を傷つけるという最悪の事態だけは、どうしても避けたかった。
フレデリカは僕の心配を一蹴するように、嘆息しながら立ち上がる。
「必要ないと言ってる。完全封印魔法の中でも私だけは当然魔法を使える。たとえハイスが暴走しても、全身の骨を折って床に張り付けるくらいはできるから」
「……可能性がない話をしているわけじゃないんですから、できればもう少し穏便な対処をお願いできませんか」
「考えておく」
手首に施された封印は、気づけば三重になっていた。フレデリカがゆっくり後ずさるのも、僕に向けて両手をかざすのも、とにかくもう全部恐い。今から出てくるであろう最初の悪魔が物凄く頭の足りない奴だったら、僕は全身の骨を折られて床に這いつくばることになる。僕は感じたことのない恐怖で滝のように冷や汗をかいていた。月の光がどうのこうのとかは、もう正直どうでもいい。このままうららかな太陽の下に置かれたとしても、僕の顔面は真っ青だったと思う。
「ハイス……?」
「はい?」
執行猶予が長すぎる。僕は恐怖に耐えきれなくなって、固く瞼を閉じた。軟体動物になるのは、嫌だ。
「ハイス」
声がすぐ耳元で聞こえる。慌てて顔をあげるとフレデリカの姿が目の前にあって、僕はがたがた音を立てて椅子ごと無様に後ずさった。フレデリカは当然、物凄く心外そうな顔だ。
「出てこない」
「そう、みたいですね。完全封印空間だからでは?」
「私の『完全封印』は、魔力を閉じ込めて外界への影響を断つものだから、ハイスの自我や人格の主導権には無関係のはず。……やっぱり意識は落としたほうがいいみたい」
フレデリカは部屋の隅に雑然とまとめ置きしている魔道具のほうへ向かう。振り向きざまに吐いた言葉が、絶対また物騒な類だった。今度こそ鈍器か何かで後ろから殴られる気がする。
僕が縋るような眼差しを送っていることも気に留めず、フレデリカは手際よく何かを準備している。最後に水差しからコップ一杯分の水を注ぎ、それらを持って再び僕のひざ元にしゃがみこんだ。差し出されたのは、開いた薬包紙の上に乗った謎の黄土色の粉と、ただの水(確証はない)。
「ぐいっといっちゃって」
「いやいやいやいや。そんな得体もしれないもの差し出されて、ぐいっといかないでしょう。何ですか、これ」
「『ザントマンの砂』……のことは、知らないのか。強制入眠剤。とんでもない不眠症の人でも数秒で眠りに落ちる。ツテがないと手に入らない」
フレデリカがまたよく分からないところで誇らし気にしているのを、僕は全力で無視、その勢いのままに全力でかぶりを振って拒否した。響きも効能も全部やばい。というか店頭に出していない時点で、フレデリカもそう思っているはずの代物だ。
「この量ならしっかり眠って寝覚めもすっきり」
フレデリカが珍しく分かりやすい笑顔を見せてきた。それがこんな状況じゃなければ、僕は素直に嬉しく思っただろう。目の前で深々と嘆息してみせるのは配慮に欠ける行為だとは思うが、そんなことを意識する間もなく、僕の口からはストレスと共に大量の二酸化炭素が吐き出されていた。残念ながら取り繕っている余裕がなかった。
「目が覚めなかったら責任取ってくださいよ」
「それも必要ない」
僕は"ザントマンの砂"と水を受け取ると、間を置かず喉の奥に流し込んだ。空になった薬包紙とコップがすぐに手元からなくなった。フレデリカに渡した、のだろうか。瞼を閉じる前の最後の光景が、全く動じていない様子のいつものフレデリカだった、ということだけ認識して、僕の意識はここからしばらく途絶えることになる。
#2 Side A
