変異体の蜂は、こちらに背を向けたまま何をするでもなくただ滞空している。この位置から奇襲をかければある程度うまくいくはずだが、ダメージの度合いによっては惨事を招くであろうことも容易に想像できる。反撃されても仲間を呼ばれても、こちらに分が悪い。最適解は一撃必殺だと思うが、生憎と僕の「お品書き」の中に、その手のメニューは存在しない。
「フレデリカはあれを駆除したことがあるんですよね? どうやって?」
「閉じ込めて燃やす」
「……はい、なるほど」
「圧縮したシールド魔法をあの空間に固定してやれば、身動きがとれなくなるから、そのシールドの内側に火炎魔法を発動させて短時間で灰にする。そのやり方なら、暴れて突進してくることもないし、遺骸に仲間が集まってくることもない」
僕の「なるほど」のトーンで、極端なシーンを想像していたことを悟らせてしまったようだ。フレデリカは今までにないくらい饒舌に、かつ詳細に補足説明を入れてきた。それにももちろん驚きはしたのだが、僕が目を見開いたのはフレデリカがさらりと言ってのけた魔法の使い方に対してだ。
シールド魔法は、魔力の膜を張って外部からの影響を受けないようにするためのもので、基礎的な魔法の一種だ。単純な使い方なら、今みたいな状況で身を守るために。日常なら防腐にも物の酸化を防ぐのにも役立つから使用頻度は高い。
シールド魔法は彼女が言うように"圧縮"できる。それは自分にかけた場合、息苦しくなったり動きづらくなったりする、つまりは失敗の類なのだが、フレデリカはそれを捕縛用に使うらしい。
「なる、ほど? 僕はその、燃やす方担当ってことでいいんですよね……?」
今の「なるほど」も、おそらくフレデリカは不服だとは思う。でも仕方がない。僕にだってシールド魔法は使える。使えるが、彼女が簡単そうに言ってのけた「圧縮したシールド魔法をあの空間に固定」は逆立ちしてもできない。魔法を特定の場所で固定化するなら陣が必要のはずだ。僕の中の常識知識ではそういうことになっている。そのあたりがもうわけがわからないから、僕が買って出るのはわけが分かる方ということになる。
「ハイスが先に動いてくれて構わない。あまり時間をかけるとかわいそうだから、火力は強めで」
「善処します。優しいですね、フレデリカは」
言いながら、僕は右掌で魔力を練りはじめた。
「それ──」
練った魔力の成形とイメージに、集中力を割いていた。
「やめて」
だからフレデリカの独り言のような呟きには、気づいたものの対処はできなかった。「それ」が指すものが、ほとんど完成に近い火球のことではないと思いたい。フレデリカも、既に魔導杖を構えていたから、僕は戸惑いながらも反射的に火球をぶん投げていた。
火球の行方を見守りつつ、脳は同時並行で混乱解消のために回転していた。軽快な空回りの音が脳内をかけめぐるだけだと知ってはいても。
僕が全力で投げた火球は、巨大蜂にクリーンヒットした。あの変異体が、変異の課程で声帯を獲得していれば話は別だが、蜂はそれを持たない。だから火達磨になっても断末魔のようなものはあがらない。羽音が止んだ分、今の方が静かなくらいだ。
瞬きの間に、巨大蜂は地面に落ちた。周囲に砂埃が巻き上げる。フレデリカがいつどのようにしてシールド魔法を放ったか、僕は結局確認できずじまいだった。
蜂は悲鳴も上げず、のたうち回ることも無く、焚き火用の燃料みたいにただ燃えた。
しばらくして、炎の中から蜂の形をした影が消え去るのを確認して、僕とフレデリカは後に残った灰に歩み寄った。ひとまず脅威は排除できた、と思って良さそうだ。
「さっき──何に対して言ってました? 僕に何か、やめてほしいって」
フレデリカは僕が聞き逃したことにか、それとも蒸し返したことにかは分からないが、一瞬目を見開いた。
「……大したことじゃない。気にしないで」
「いやいやいやいやっ。それは良くないですって。気にしますよ、すっごく。僕はとにかくですね? フレデリカが嫌がるようなことはしたくないんです。言ってくれれば直します」
僕が食い下がることで、フレデリカのほうがばつが悪そうにしょげてしまったが、ここの流れは絶対に僕の方が正しい。意味深に匂わされて、曖昧に収拾されようとするのを甘んじて受けれ入れていたら、僕のほうのストレス値が上がりきってしまう。
「ごめん、咄嗟に……言ってしまっただけで、本当に大したことじゃない。今後は気をつける」
「そうじゃなくて、何をやめてほしいのか教えてほしいんです」
僕は強気に出ながらも、今まさにフレデリカが嫌がることを強要しているのではないかという矛盾に気づいてしまった。途端に冷や汗が流れる。撤回すべきだろうか。でも、地雷が埋まっていることが分かっているのだから、その場所を把握しておきたいと思うのは至極真っ当な願望じゃないか。
「私は、優しくはない」
「……え?」
フレデリカがようやっと口を開いた。聞き逃してはいない。ただ、どう考えたって文脈が不相応だと思った。
「だからそう言ってほしくなかった、だけ。これでいい?」
「ああ、えっと、はい。分かりました、僕も言わないように、気をつけます」
優しい、と? ──確かに言った、気がする。何の気なしの誉め言葉だ。それの何が気に障ったというのだろうか。
「さっきも言ったけど、大したことじゃないから気に留めておかなくていい。それより、この蜂だけど、ちょっと気になることがある」
フレデリカが灰だまりにの傍にしゃがみこんだ。この話を切り上げたいのだろう。
僕もこれ以上追及したいとは思わない。僕はそこそこ彼女に信用されている、けれど信頼はされていない。彼女の事情を積極的に話したいと思える対象でないことくらい、分かっているし弁えてもいるつもりだ。ただその事実が、思ったより堪える。
僕も嘆息を最後に気持ちを切り替えることにした。フレデリカに合わせて隣にしゃがみこむ。
「確認するにも灰になっちゃいましたけど」
「何もないところにずっと留まっていたのは何でなのかと」
「ああ、確かに。サイズに合わせたでっかい花とかあれば分かりますけどね」
僕が何の気なしに顔を上げた先、鬱蒼とした藪と言えばいいのか、繁殖力だけが取り柄の蔓植物が瓦礫の隙間の埋め尽くすように生い茂っていた。花は一輪もない。代わりとばかりに、蔦に覆われて横たわっていた物体を目にしたとき、僕は全身の水分が瞬時に冷え切るような気持ちの悪さを覚えた。どこかへ追いやっていた警戒心が、高速で返ってくるとこうなるらしい。
「フレデリカ!」
力任せにフレデリカの手をとって、無理やりに立ち上がってもらった。この場に無警戒でこうしているのは絶対にまずい。せめて臨戦態勢をとりたい。
藪の中には巨大蜂の亡骸がある。死んでどれくらい経ったのかは判然としない。先にここを通った探索者が対処して、放置していったのだろう。いや、もしかしたら善意で以てここに隠したつもりかもしれない。この際どちらかはどうでもいい、どちらにせよとんでもない有難迷惑であることに違いはない。
僕らが排除した蜂は何もないところでぼんやりしていたわけではなく、この遺骸に引き寄せられていたのだ。そうであれば早急に次の対処が必要だ。藪ごと燃やし尽くすか、まずはこの遺骸を引きずり出す、か? ──後者は避けたいと思いながら、僕は藪の中に目を凝らした。
遺骸の奥に広がる暗がりには、無数の僕の顔が浮かんでいた。皆一様にこちらを見て、その全てが一斉に顔を引きつらせる。それが巨大蜂の複眼に映し出された悪趣味な景色だと、気づくまでに数秒を要した。闇の中で蠢き、迫ってくる自分の顔面たちを見て、僕の肝は一瞬にして冷え切った。
僕は後ずさりながら、右手で左手首の裏側を無我夢中で撫ぜた。撫ぜて、しまった。許容できない騒音に耳を塞ぐみたいに、危険を察知して頭部を隠すみたいに、転んだ拍子に両手を大地につくみたいに、それはほとんど防衛本能みたいなものだった。この時点でなら、取り返しはいくらでもついた。けれど「左手首に触れる」仕草と「ドアを開く」イメージは、僕の中でもはやワンセットの挙動で、踏みとどまる意志を容易く陵駕してしまった。
僕は自分が想定し得る中でも一二を争うまずい状況で、ブラックドアを開いてしまった。右掌を中心軸にして、螺旋状に広がる真っ黒な底なしの穴。それは渦巻きながら巨大蜂を呑み込んだ。この物質界に初めから存在していなかったかのように、跡形もなく消し去ってしまった。それを見届けてから右手を握りしめる。突如として空間に現れた、異質でしかない黒い穴は、僕が拳を握ると同時に収縮して消えた。
#3 Side A
