赤と黒#4 Side A

 地下倉庫には青く光る灯石(フレデリカ作)が大量に眠っている。フレデリカの中では処分候補にさえ入っているそれらを、僕はこうして客に無料で配っている。比較的顔が広そうな人当たりの良い常連客には、少し多めに。
 この灯石に一定の需要があることは、ほぼ確定している。後はできるだけ大量に、定期的に購入してくれる顧客に辿り着くよう、地道な努力を重ねていく必要がある。
「美しい青じゃ。青といえば、お主、ちと顔色が悪いの~」
「あー……はは、ちょっと体調崩してて」
 悪魔に献血しているとは口が裂けても言えない。
「そういう日は、ジョセフ殿みたいに明るい色の蝶ネクタイなんぞをしめると良い。そ~らそら……」
 話題に挙げられたジョセフ殿は、座りの悪い脚立に上って窓を磨いている最中だった。窓ガラスに映った必死の形相から、いかに全身全霊を込めて作業をしているのかがありありと伝わってくる。それゆえ、首元(頭部と胸部の境目を便宜上そう呼んでいるだけで、本来彼に首はない)の蝶ネクタイが、意思を持ったように左右に揺れ動いていることにも気づいていない。
 超ネクタイはひとりでに音もなく外れてしまった。そして、生きた蝶さながらにふわふわと宙を漂いながら、老紳士の横を通り、僕の首元へ収まった。
「ほれ、この通りじゃ」
 悪戯な笑みを浮かべる老紳士に、僕は素直に感嘆を漏らしていた。今のは浮遊魔法だろうか。音も立てずに、平衡を保って任意の場所まで移動させるのは、そう簡単なことではない。鮮やかな手腕だった。
「お上手なんですね、魔法」
「ふぉふぉ。年の功かの? こう……相手にそれと気づかれずにかけるほうが、魔法もおつというもの」
「それは確かに」
 それはそれとして、いまいちしっくりこない蝶ネクタイ姿の自分に苦笑が漏れる。いや、これは僕に蝶ネクタイが似合わないのではなく、この目の覚めるような、ふざけたオレンジ色に問題があるのでは? ──と自分の首元に不満を持ち始めたのとほとんど同時に、耳をつんざく汚い悲鳴が店内に轟いた。
「ぎゃあああああああああ!」
 人の悲鳴には恐怖を煽る効果がある。虫の悲鳴も同じ。
「フレデリカ様からいただいた蝶ネクタイがぁっ!」
 ジョセフは例の建付けの悪い脚立の上で、舞台俳優も顔負けの絶望クライマックスを演じている。蝶ネクタイを外したら息ができなくなる呪いにでもかかっているのか、あの虫は。
「……気づかれちゃいましたね?」
「刃傷沙汰になる前に元に戻しておこうかのぉ……」
 ジョセフがあと数秒でも早くこちら側に振り向いていたら、手遅れになるところだった。
 老紳士は僕の首元に向けて、再び人差し指を振る。蝶ネクタイはみるみるうちに色を失い、輪郭を失い、存在しないもののように掻き消えた。実際は僕の首に緩やかにまとわりついたままだ。反射を利用した魔法で透明に見せているのだろうが、僕には細かい原理までは分からない。
「ハイ、……ハイス、ない……。わた、わ、私の、蝶ネクタイが……」
 脚立から落ちるように床に降り立ったかと思うと、ジョセフは僕らのもとへおぼつかない足取りで歩を進めてくる。両腕(しつこいとは思うが、前足のことだ)を前方に頼りなく漂わせて一歩、また一歩。
「お、落ち着けって。何? ネクタイ?」
 出来の悪いゴーレムでさえ、今どきはもう少しまともに歩く。見たことはないが、死霊術なんかで無理やり死体を歩かせたらこんな感じになるのではないか、というほどジョセフは歩行困難に陥っていた。結局僕らのところまで辿り着けず、窓際で四つん這いになる。
「あれがないと、私は……ただの虫……フレデリカ様にはおよそふさわしくない……っ」
(ネクタイ締めててもただの虫だよ)
 瞬時に身も蓋もない感慨を抱いたが、一旦腹の奥に押し込む。ここまで気の毒な風体の虫もそうはいない。
 老紳士は隙を見計らって、窓の縁に向けて"見えない蝶ネクタイ"を投げていた。どう見ても怪しげな動きだったが、涙と床で視界の容量を埋め尽くしているジョセフが気づくはずもない。老紳士がさらに人差し指で宙を払うと、窓の縁にひっかかったオレンジ色が姿を現した。
「ジョセフ、ネクタイだろ? そこに引っかかってるやつじゃないのか?」
 無理がある。あんな派手なネクタイが最初からあそこに落ちていたら、見逃しようがない。
「う? ……う、わあああああああああ! あっだぁぁぁぁぁ! 良がっだああああああ! ハイス、すまない! 恩に着る! これを落とすなんて私は大バカ者だっ!」
「あ、うん。良かった、な?」
 妙だ、あり得ないなどと、もう一波乱あるかと思いきや、それは杞憂に終わる。ジョセフにもはや平時の判断力はないのだ。僕に謝礼を述べている時点で、いろいろとおかしい。
 ジョセフは四つん這いのまま高速で蝶ネクタイを拾いに走った。つまり、その、虫本来の移動手段なので違和感はないはずなのだが、この絵面が強烈過ぎて直視できる代物ではない。僕は項垂れるようにして目をそらす。今回ばかりは暴言は自粛すべきだ。僕に非はないはずだが、この居た堪れない気持ちには素直に従っておこうと思う。
 一応の事なきを得たのを確認して、老紳士はまた悪戯な笑みを浮かべていた。全部この爺さんの過ぎた遊び心が元凶なのだが呑気なものだ。そう思いつつも僕は、このちょっと不思議な老紳士に実は感謝している。盤上をひっくり返すためのいくつかの鍵を、彼は僕に与えてくれた。
 老紳士が退店した後、僕は業務の合間に、思いついた計画について詳細を練った。めそめそして使い物にならなくなったジョセフを励ましたり、昼食を用意したり(結局僕が作った)と、接客以外の雑務もあるにはあったが、幸い思考に費やす隙間時間は十二分にあった。
 最終的に残った懸念事項は二つ。フレデリカに話して了承と協力を得られるか、そして、明日の自分が果たしてどの程度まともに動けるのか。前者はフレデリカが戻り次第、解決に動けば良いが、後者は明日になってみないと分からない。
 日計表を作成しながら、カウンター机に額をつける。どうしようもない疲労感と倦怠感に抗えなくなっていた。頭が痛いのは相変わらず赤字の帳簿のせいだということにして、何とか明日まで持ちこたえてくれと、情けなく自らを鼓舞するほかなかった。


 翌日、僕とフレデリカは揃ってエルドラ遺跡へやってきた。ワイン探し初日に二人で踏破した外縁ルート、その中腹にある住宅三階分ほどの高さの瓦礫階段。その一番下で、僕は下りてくるフレデリカを複雑な思いで見守っている。
 本来ならここで待っているべきはフレデリカのほうで、先導も偵察も僕が担うべき役割だ。それらの一切合切を雇用主に押し付けたうえ、危なっかしい復路をさえサポートすることもできない。もどかしさとやるせなさと、とんでもないレベルまで上がった頭痛で、真っすぐ立っていることがやっとだった。
 僕は昨夜、フレデリカに武力行使──改め、実力行使に出る提案をした。その方法論について、フレデリカはもう少し渋ると予想していたのだが、それは僕の勝手な思い込みで、彼女は二つ返事で僕の提案に乗ってくれた。そうだった。僕が数少ない思い出を美化しようとしていただけで、彼女ははじめから「血の気の多い魔術師」だった。
 計画を実行するにあたって一番後悔したのは、ワインの所在をこの目で確かめなかったことだ。ルルがどこにワインを保管していて、それがどういう形状か、あの日それだけでも確認していれば、事はもっとスムーズだった。極端に言えば、店のソファーで寝転がったままワインを手中に収めることもできただろう。
「どうでした?」
 危なげなく最後の一段を下りたフレデリカを、僕は瓦礫に腰かけたままで出迎えた。
「やっぱり警戒してる。お腹に抱え込んだまま丸まって寝てた。私が昨日刺激したから……」
「むしろ好都合です。ルルの懐なら、ばっちりイメージできますからね」


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