「フレデリカが髪を売らなきゃいけないような、切羽詰まった状態にならないようにするのが僕の仕事だなと思っただけです。おかげさまで体調も万全だし、蒔いてある種もそろそろ芽吹くかなってところまで来てるんで……ひとまずは、来月の売上高を楽しみにしててください」
「種? 何か、仕掛けたの?」
「それはまだ秘密です」
芽吹くというか、うまくいけば一気に実がなる。子どもっぽいとは分かってはいるけれど、僕はそれを真っ先にフレデリカに見てもらいたい。それが彼女自身が大切に育ててきたものだと知ってほしい。それまではもう少しだけ、僕だけが奮闘しているように勘違いしていてもらおうと思う。
「ハイス、今夜、準備ができたら部屋に来て」
「あ、はーい」
夕食の片づけ中に、フレデリカが意を決したように言うから、僕はできるだけ気負わないように、気負わせないように、軽い返事をした。僕らの間では、やりとりはこれで完結している。この状況を別次元に解釈した虫が、皿を抱え込んだまま石化しているのが面白くてたまらないので、あえて状況説明はしない。触覚の先端あたりから砂になって崩壊していっているようにもお見受けするが、それはそれで少しばかり体積が減っていいのではないかという気もする。
確認するまでもないが、僕が招待されているのはフレデリカの寝室などではなく、地下の完全封印部屋だ。就寝準備とほぼ同義の行動を滞りなく済ませて、厳めしい扉を押し開く。
ハーゲンティのときと同じように、完全封印空間の陣の上にぽつんと置かれた椅子に僕は腰かけた。これから僕らは、二体目の悪魔を坩堝の世界に還すため二つ目の封印を解く。フレデリカ曰く「生皮を一枚はぐようなかんじ」で。
「もう少し楽しい表現にしませんか。せめて痛そうじゃないかんじに」
掌を天井に向けるようにして左手首を内側に返す。フレデリカは僕の前に跪いて、静かに脈をとる。実際は動脈の上を走っている封印術の陣を解析しているのだが、事実はどうあれ、僕はこの構図に慣れることができない。偉そうにフレデリカの旋毛を見下ろすだけしか、やれることがない。だから気を紛らわせる、どうでも良い話を振りたかった。
フレデリカは僕の手首に触れている、自分の指先に神経を集中させている。だからといって特段この雑談が鬱陶しいというわけでもないようで、小さく唸り声をあげて考え中であることを知らせてくれた。それで、出た結論がこれ。
「キャベツの──」
「ああ、はいはい」
「生皮を一枚はぐようなかんじ」
僕の脳裏では即座に、拷問にかけられて絶叫するキャベツの図が展開された。違う、そうじゃない。かぶりを振ってしょうもない想像を蹴散らす。彼女は今、解析と解呪に意識を払っているのだから、多少喩え方がお粗末なのは仕方がないのかもしれない。
「よし!……パイにしましょう! ミルフィーユなんてどうですか。上手にやらないと中身が飛び出して悲惨なことになるあたり、うまい喩えだと思いませんか」
「パイは好きじゃない」
「えぇ……美味しいのに。人生損してますよ、それ。今度僕、作りましょうか」
食事用ならミートパイも捨てがたいが、僕のおすすめは俄然フルーツパイだ。作り方はたぶん覚えている。朝食代わりにしてもいいし、あの激まずハーブティーの付け合わせにしてもいい、などと一人勝手に構想を巡らせていたが、フレデリカの反応らしきものがいつまでたっても返ってこない。
集中の邪魔をしたか、嫌いなパイの話にうんざりしたか。どちらにしても、僕は少し会話を上滑りさせているのかもしれない。反省。少しの間、黙っていよう。それはそれで、僕が必死になって誤魔化そうとしている緊張感というやつが、ダイレクトに伝わってしまう気がして困りものではあるのだが。
黙ること数秒、フレデリカが唐突に立ち上がって伸びをした。
「ごめん、少し時間がかかってる。陣の解析は済んだから、解呪にとりかかるけど……休憩する?」
「いえ、大丈夫です。僕は座っているだけですから。フレデリカは?」
かぶりを振るだけでフレデリカはまたすぐに床に膝をつく。僕はまた、彼女の旋毛を見つめて時間をつぶすことになるか、と思っていた。
「そもそもパイというか……そこまで繊細な作業じゃない。もっと力技でべりって剥ぐ」
フレデリカがパイの話を聞いていたことに、妙なタイミングで続きを持ち出したことに、思考が追い付かず一瞬押し黙ってしまった。
またもや脳内でイメージが形成されていく。今度はアップルパイとミートパイとクロワッサンとミルフィーユが、列をなして生皮を剥がれていく凄惨な光景だ。もちろん効果音は「べりっ!」。その都度やはり悲鳴もあがる。
「はあ~……痛そうだなぁ。お手柔らかにお願いしますね」
豊かな想像力は魔術師には必要だ。実際に痛みを伴わないことは分かってはいるのだが、そういうイメージをあえて持っておくほうがいいのかもしれないとも思う。
悪魔の封印をひとつ解くということにどれだけのリスクがあるか、そこにある恐怖心は適切に保持すべきものだ。ここがたとえ、フレデリカが誇る魔力の完全封印空間だとしても。幸いこの危機感だけは僕とフレデリカは同じレベルのものを共有できている。
「この、封印されている順番っていうのは、単純に先着順なんでしょうか。強いのから出てくる、とか弱いのから出てくる、とかでなく」
「たぶん、そう。四重の封印はほとんど同時期に施されているものだから、込み入った複雑な定義はされてない。ただ強力な封印ってだけ。パズル自体はすぐに解けるけど、接着剤ががっちがちでばらばらにはできない、みたいな」
「ははっ、やっぱりけっこう力技だ」
「さっきの、ハイスが言ってたミルフィーユっていうのは当たってるかもしれない。悪魔の上に封印、その上にまた悪魔が居座ってまた封印、っていう綺麗な層になってる。そういうふうにしかできなかったのかもしれないけど、おかげでひとつひとつ対処ができる」
「それじゃあ……次に相対するのがどんな悪魔かは、本当に運次第ですね」
僕もフレデリカも納得の、絶対悪の権化みたいな奴かもしれないし、ちょっとは話の通じる奴かもしれない。どちらだったとしてもフレデリカにかかれば、一律友好的でない存在には違いない。
「もう、動いても大丈夫。私は"砂"の準備をしておくから、ハイスは寝る前に何かしたいことがあるなら済ませておいて」
例の「ザントマンの砂」とかいう瞬間強力入眠剤のことだろう。あれがなくても眠りにつくことはできるだろうが、この冷めやらぬ緊張と興奮では、それがいつになるか僕にも予測がつかない。だから飲まない、という選択肢は用意されていない。
正直な気持ちを述べると、僕はあれが苦手だ。はっきりと自覚しながら意識を閉じる感覚が、突然に訪れる抗えない無の世界が、死の疑似体験のようで恐ろしい。などという情けないわがままを、今ここで披露するわけにもいかないから、僕は大人しくフレデリカの後ろ姿を眺めていた。
合間に、自分の左手首にも一応興味を向ける。これみよがしで、ただただ仰々しかった四重の魔法陣は、今や二重の「ちょっと意味深な陣」くらいの印象だ。目に見えて何かが進展しているという証拠があるのは、精神衛生上とても良い。
開かれた状態で差しだされた薬包紙とコップ一杯の水を受け取ると、僕は覚悟を決めて、恐怖と安寧が交錯する眠りの世界へ旅立った。
僕はその夜、夢を見ていた。次に意識を取り戻したら、眠った後の自分の言動は何一つ覚えておらず、椅子に偉そうにふんぞり返っているか、ブランケットにくるまって床に転がっているかのどちらかだと予想していたので、夢の中とはいえ自我を保てている状況に戸惑った。明晰夢と呼ばれるものだろうか。封印を解かれた二番目の悪魔が関係しているのは間違いないが、職能や目的は現時点では判然としない。
緑豊かでなだらかな丘の上に、赤茶色の屋根を載せた家がぽつんと建っている。家の周りには手入れの行き届いた菜園と花園があって、偏見だとは分かっているが、女性が暮らしているのだろうと連想させる。山鳥が鳴いていて、名も知らぬ蝶が空中散歩を楽しんでいて、時折吹きぬける風が肌に心地よい。これをのどかと言わず何というのか。
#5 Side A
