夢で逢いましょう#5 Side A

 僕は誘われるように、その家へ足を踏み入れた。夕食の準備をしていたのか、キッチンの中を覗くと皮をむかれたジャガイモやニンジンがそのまま放置されていた。どこか焦げ臭い気がする。でもそれは静寂のお手本のようなキッチンが原因ではなさそうだ。
 僕は迷いなく歩を進める。順路と書かれた看板でも立っているかのように、廊下の突き当りを曲がって、その閉ざされた扉を躊躇なく開ける。
 ガチャッ──扉は、僕がノブをひねる前に内側から開かれた。招き入れられたわけではなさそうだ。扉を開けた女主人は、僕の前に立ちはだかって微動だにしない。かと思えば、一歩、また一歩と頼りない歩調で僕との僅かな距離を詰めようとしてくる。申し訳ないと思ったが、僕は詰められた分だけ後ずさった。そうでないと火の粉が降りかかる。
 何の比喩でもなく、女主人の全身は炎に包まれていた。「女主人」だと思えるような、背格好だったり装いだったりが燃え盛る炎の奥に垣間見えるだけで、僕に何か確信があるわけではない。
 ほとんど聞き取れない、か細い悲鳴をあげている。助けを求めるように両手が宙をさまよっている。その炎は彼女が出てきた部屋を、僕らがいる廊下を、壁を、屋根を、呑み込むように広がっていく。
 少しでも熱いと感じたら、その瞬間にこの場から全力で退避しようなどと悠長なことを考えていた。幸か不幸かこの明晰夢に熱さはない。適当に決めた判断基準を満たさないから、僕はいつまでもそこに佇んでしまう。炎の固まりが僕の両肩を掴んで縋ってきても。
「ハイス……」
 輪郭と影だけを残した女が、僕の名を呼んでも──。
「ハイス……!」
 それが切なる祈りに変わろうとしている瞬間も、僕は自分でも驚くほど無感動にその場で立ち尽くしていた。


「ハイス」
 僕の名を呼ぶ声はひとりでに盛り上がっていたはずなのに、最後の最後でやけに無機質に調整してきた。それはそうだろう、情感たっぷりだったのは夢の中の炎を纏った女の話で、僕をたたき起こすことが目的のフレデリカが劇的な口調である必要性はない。
「朝、ですよね……おはようございます」
「おはよう」
 体調は悪くない。予想通り床に転がっている状態だったから多少節々は痛むが、頭痛も眩暈もない目覚めは僕にとっては有難いものだ。軽快に上半身を起こす。ドラマチックでもロマンチックでもないフレデリカの分かりづらい心配は、これでいくらかは軽減できるはずだ。
「汗、すごいな」
 身体に張り付いている服を摘み上げている最中にも、汗の滴が頬を伝って流れていく。これは朝食より先に風呂に行ったほうがいいかもしれない。
「今回は、どんな悪魔でした?」
 感覚としては、ランニング直後に近い。やや心地よいとも言える疲労感と不調とは無縁の汗。もちろん油断は禁物だ。脂汗なのか冷や汗なのか、もっとまずい成分の可能性はある。自分の血液でワインを作らされて貧血で死にかけた身としては、こういう「大丈夫そうだ」の状態がもはや信用ならないから悲しい。
「……フレデリカ?」
「実は、話せていなくて」
「出てこなかったんですか?」
「いや、出て……いたとは、思う。でもこっちにまるで興味がないって感じで、会話にならなかった」
「なるほど」
 僕は極力、軽やかな返答を心がけた。フレデリカは装っているつもりなのだろうが、世の中の悪事の全責任は自分にある、とでも言わんばかりの凄まじい罪悪感を放出している。
「それじゃあ、僕のほうで分かったことを話しましょうか。とりあえずちょっと汗を流してきます。朝食準備はお願いしてもかまいませんか?」
「それは、うん。もちろん」
 フレデリカは膠着状態が苦手らしい。一進一退でもなんでも、とにかく事態が何かしら動きを見せないと、途端に焦り始める。手段も過激になりがちだから、現段階でそれは避けておきたい。昨夜の僕らの緊張と労力に、見合っているかはさておいて対価はあったことが分かれば、それなりに安心してくれると踏んだ。一歩、いや半歩でも前進していることが重要だ。
 僕は入浴を済ませてさっぱりした後、フレデリカとジョセフと共にいつものように食卓を囲んだ。食べながら、夢の話を覚えている限りで詳細に話した。行ったことのない場所、見たことのない家、覚えのない女に名前を呼ばれ、その全てが業火に焼かれてしまったこと、などなど。
「朝一番にパンを頬張りながら聞きたい話ではありませんな」
 ジョセフの感想には僕も同意するが、食事の席を報告会に当てるのが一番効率が良い気がするのだ。地獄のハーブティー試飲会まで先延ばしにしても良いが、その場合朝食の席で互いに腹の探り合いをしなければならなくなる。
「夢に知らない女の人が出てきて、でもその女性は、ハイスの名を知っている」
 フレデリカのまとめ通り、おそらく重要なのはその点で。
「えーっと……女性っていっても同年代ってかんじじゃなくて、もう少し年嵩の」
「年上の女性」
「う~ん? なんでそういうかんじになっちゃうかなぁ。あーーえーーっと、お母さん! みたいな! そういうかんじの女性です!」
 これだと思う表現を思いついたときの爽快感に、僕は満足していた。あの火達磨は、夢の中の唯一の登場人物、つまり紐解くための唯一の鍵に等しい存在だ。完璧にとはいかなくても、ある程度のイメージは共有しておいたほうが、見解の相違も最小限で──。
 などという僕の満たされた気持ちと小賢しい思考は、そこで唐突に打ち切られてしまった。目の前にはジョセフの、全身全霊の憐憫の眼差し。そのままの複雑な表情で、フレデリカのもとへ駆け寄り何やら小声で頷き合っている。そして伝染する、憐れみ。
「……何」
「何とは? お前、悪魔が見せている悪夢が全然知らない女の、人体発火ショーだとでも思うのか? 記憶を読んで、悪夢を作っているのだとすればその女は──」
「でも覚えてないんだから、知らない女性、で表現は合ってる」
 フレデリカの顔が一瞬にして曇った。しまった「こっち」だったか──しくじったことにすぐさま気づいたが後の祭りだ。二人は僕が「母親らしき人物」のことさえ覚えていない、思い出せないという事実に胸を痛めているのだ。
「仮に燃えていたのが僕が住んでいた家だったり、母親だったとして、ピンとこなかったんだから、そこはもう可哀相がられてもどうしようもなくないですか? 逆にですよ? この場合、僕がこれっぽっちも思い出さないことによって、本来受けるはずだった精神的ダメージがほぼゼロっていう利点のほうが大きいと思いませんか」
「それは確かに、そう……」
「ね? そこは良いほうに考えましょう。だいたい悪魔と夢の内容がどの程度関わっているのかもまだ不透明です。ジョセフの言うとおり記憶を読んで再現しているのかもしれないし、あくまで参考にしただけで誇張して印象的に作り変えているのかもしれない。全くの捏造っていう線もあります。検証の余地はまだまだあるわけですから、憶測に頼るのはやめておきましょう」
「そうだね、ハイスの言うとおり。夢に関わる職能の悪魔なら、書庫にもいくつかグリモアがあるはずだから、まずはそっちを調べてみる。ハイスの中にいる悪魔とも……対話は必要」
 フレデリカも思い直してくれたようなので、僕は柔和な笑顔を意識して作って、この話に終止符を打った。ジョセフの奴、放っておくとやはりろくなことを言い出さない。僕のあやふやなアイデンティティによる可哀相な人設定は、悪魔を送還していくうえで最も不要な感慨だ。
 強がったわけでもない。実際僕は、凝りに凝った衝撃的な夢に演者として強制参加させられたわけだが、ノーダメージで朝を迎えることができた。グロテスクといえばグロテスクではあったが、朝食が喉を通らないほどではない。だって、何をどんなに頑張っても主演は「知らない女」なのだ。感情の揺さぶられようがない。


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