六畳半コスモ

其の一 朔一、未知との遭遇

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 その日の朝は毎日の恒例である鳥のさえずりをさしおいて、蝉がけたたましく鳴いていた。朔一の顎先にも雫状の汗が滲んでいる。それを適当に拭いながら部活用のスポーツバッグを地面に下ろした。いつもの数倍、重量感のある音がする。
「ここか……」
深々と嘆息して改めて顔を上げた。『成田荘』と記された古びた木の表札が朔一の目に映る。流麗な筆運びは朔一の祖父のものだ、それを認めると自然に安堵が広がった。
 今日から朔一はここに住む。というのも、管理人であった祖父の喜一が体調を崩し春先に入院、退院するまでの期限付きでこの『成田荘』の管理を頼まれたからだ。ここは朔一の目指す大学から程近い。受験勉強の山場となる今夏を過ごすにはもってこいの場所で、朔一は二つ返事で承諾した。空き部屋はある。気に入れば大学合格後も住んで良いというのが魅力的であった。
「しかし六畳半じゃな」
苦笑を漏らしながら座り込んでスポーツバッグを開けた。喜一から預かった牢屋番のような鍵の束を取りだしてそのひとつを玄関に挿した。立て付けの悪い引き戸は、彼を主と認めたかのようにすんなり開く。静かに引いたつもりだったががらがらと朔一の登場を知らしめる粗末な音が響いた。これが玄関に在る限りこっそり帰宅、あるいは外出なんてことは不可能そうだ。
「こんにちはーっ」
誰に向けたわけでもない腹からの声で挨拶する。
「はーい、はいはーい」
反応はすぐにあった。二階から足音が響く。
「あら、どちら様ー?」
口元から泡を吹かせた女が下りてきた。無論蟹ではない。歯磨きの最中だったらしい、キャミソール一枚に短パンのラフな出で立ちだった。正直、青少年の朔一としては目のやり場に困る。
「成田喜一の孫で朔一です。今日からお世話になります」
「ああ~、キイチのっ。今日からだったっけ~。私は203号の神田モエよ、よろしく」
ピンク色の歯ブラシを口に突っ込んだまま器用に笑顔をつくる。と、一階奥に向かって体を反転させた。
「チャンポーン! 新しい管理人さんっ、キイチのお孫さん!」
(ちゃんぽん……)
おそらく愛称なのだろうが何ともお粗末な気分になる。反応を待ったが奥の部屋からは何のリアクションも返ってこない。
「ったく世話が焼ける…っ」
口の中で呟きながらモエが103号室まで出向く。朔一も何となくそれに倣ってあがりこんだ。
「チャンポン! 挨拶!」
「うるさいなっ、聞こえてるよ!」
不躾にドアが押し開かれ、黒フレームの眼鏡を掛けた背の高い男が顔を出した。
「ど、どうも。朔一です」
「ああ……訊いてるよ、受験生なんだってね。僕はチャン・リーホン、弁護士になるため勉強している」
(ちゃんぽん……)
「チャン・リーホンだ」
朔一は口に出してはいない、が胸中を読まれたのかチャンが名前を強調する。こういうときは愛想笑いで誤魔化すしかない。
「チャンポン頭だけはいいから勉強教えてもらうといいわよ」
「失敬だなっ。だいたいモエさん、なんて恰好でうろうろしてるんだよみっともない。歯ブラシ挿したままで朔一くんにも失礼だろ」
「悪かったわね、私は今から仕事よ。あ、そうそう朔ちゃん、私ここで働いてるからチャンポンにいじめられたら逃げてくんのよ。そのときは友だち連れてきてね」
「モエさんっ」
この軽装のどこに隠し持っていたのか不明だがモエが朔一に名刺を握らせた。桜色のそれには『クラブ・ブルーム』の所在地と代表電話番号が大きく記載されていた。なるほどモエには夜の仕事特有の華やかさと安堵感がある。妙に納得しながら無造作に裏返すと、下方には彼女のものと思われる携帯番号が印字されていた。
「それ、私のケイタイ入り特別名刺だから。滅多にあげないのよ~、寂しいときはいつでもかけてらっしゃい」
「じゃ何か緊急なときは、かけます」
「男が寂しいときは十分緊急事態よ」
朔一が笑顔でかわすとモエは更にその上をいく殊勝な笑みで軽く肩を竦めた。チャンがしびれを切らして咳払いをする。
「僕はもう勉強に戻るけど朔一くんはどうする?」
「あ、俺も。荷物整理が済んだらすぐ勉強始めます」
「じゃあ他の住人、っていっても後二人なんだけど、帰ってきたら挨拶するようメールしておくよ」
「どうもっ。じゃ俺はひとまず101にいるんで、何かあったら呼んでください。モエさんもチャンポンさんもよろしく!」
「チャッ! チャンだよ、朔一くん!」
「よろしく~朔ちゃん」
チャンが必死に訂正するのを見て朔一はいたずらっ子のように歯を見せて笑うと、そのまま管理人室である101号室へ消えた。後には不服そうなチャンと笑いをかみしめるモエだけが残る。と、一拍置いてモエが声を顰めた。
「……あのこと、キイチは朔ちゃんに話してあるのよね?」
チャンも一拍置いてモエを横目に見やる。しかしすぐに興味がなさそうに背を向けた。
「さあ。あの様子だとどうだろう。どちらにしたってわざわざ僕らの方から言うことではないさ」
「そんなもんかしら」
モエが独りごちたときには既にチャンの部屋の扉は閉められていた。くわえたままだった歯ブラシを噛み締めてモエは惜しげもなく顰め面を晒した。



   この成田荘は喜一が還暦を迎えた年に気まぐれで建てた。木造二階建て六畳半一間が計八室、風呂、トイレ、台所が共用の今時珍しい、いや絶滅寸前のタイプの下宿だ。下宿人は案の定常にまばらであった。自信を持って住み難いと言えるこの物件に、喜一は管理人兼101号室の住人として移り住んだ。そうしてもう、十年が経つ。
「思ったより広く使えるなー。持つべき者は多趣味のじいちゃん、かっ」
 朔一は部屋に入ってすぐ、スポーツバッグを放り出して景気づけに大きく伸びをした。何も物がない六畳半は想像していたよりもずっと広い。窓は表玄関と同じ方向にひとつ、それから裏庭に向けてひとつあり日当たりと風通しも抜群に良かった。何もない畳の上に大の字に寝ころんで天井を見る。
(少し片づいたらまた見舞いに行くかな……)
 薄ぼんやりと祖父、喜一のことを考えた。成田喜一と言えばその名を知らない者はいないほど有名な宇宙飛行士だ。無論高齢となった今では「だった」と言う方が正しいのだが、引退した後も講演活動やテレビ出演などが相次いだせいか本人は七十を越えた今でも現役宇宙の住人気分である。
(あのじいちゃんも老いには勝てないってことか)
当たり前のことを改めて思い直した。朔一にとって、祖父は永遠のヒーローであった。浮気がばれて祖母に往復ビンタを食らっても、久しぶりのテレビ出演がぎっくり腰でキャンセルになり一日中号泣して家族を困らせても、そんなどうしようもなさを打ち消すほど喜一の世界は広く、大きく、光り輝いていた。彼自身が、宇宙そのものである気さえしていた。その祖父が倒れたと聞かされたときは、朔一も自分の耳を疑った。
 横になっていたせいで急激に睡魔が襲ってきた。思えば朔一が自分で持ってきた荷物はこの部活用のバッグに詰め込んだ参考書と筆記用具、数日分の着替えくらいで残りは明日届くように宅急便で送ってあるのだ、つまり整理する荷物など今の時点ではほとんどない。すぐに勉強を開始するには好都合であったが、脳内に英単語のいくつかを思い浮かべた時点でそれは極上の子守歌に早変わり、朔一はあっさり睡魔に敗北した。



 意識の隅のほうで、誰かの「いってきます」や「いってらっしゃい」が繰り返された気がした。母親か、とも思ったがそれにしては若い声だった。自分の家に居るにも関わらず家族以外の男女が挨拶を交わす状況にとてつもない違和感を覚え、朔一は一気に現実に吸い寄せられた。
「ただいまー!」
とどめとばかりにかん高い声が大きく響く。知らない声だった。飛び起きると心臓が早鐘を打っていた。
「チャンポーン、モエさんはー?」
「仕事に行ったよ。イスズ最近帰ってくるの遅いんじゃない?」
「いろいろあるんだよー。はい、これお土産」
ドアはきっちり閉めてあるが廊下の声は筒抜けだ。チャンと、モエとは別の女の声が響いている。
「結構声が響くんだな……」
朔一は開口一番を欠伸に費やして後ろ手に頭を掻きながらドアノブを回した。
「イスズ……っ、何度も言ってるだろ、僕はバナナは大嫌いなんだよっ。そいつは朔一くんにでもあげてくれ!」
「サクイチくん?」
ドアを開けた瞬間、新しい声の主と目が合った。少女漫画の主人公のような大きな瞳で見つめられると条件反射で頬が紅潮する。寝癖もついていない髪を何度か無意味に整えた。
「ど、どうも。朔一です」
「サクイチ――その名前、どこかで聞いたことがある……」
「そりゃそうだろう、キイチのお孫さんだよ。言われてたろ、今日から管理人としてうちに来るって。もう忘れてたのか?」
チャンが半眼で自らの呆れ返りっぷりをアピールする。鼻をつまんでいるせいで随所が猛烈な鼻濁音だ。目の前でたわわに揺れるバナナから放たれる、バナナ故のバナナ臭から身を守っているつもりらしいが効果があるかは疑わしい。
「そうだった……忘れてた。ごめんなさいサクイチくん、これお詫びです」
伏し目がちになると長いまつげがより目立つ。
彼女が両手で恭しく献上してきたバナナを、朔一はどうすることもできず受け取った。この際何故彼女がバナナ一房を丸ごと所持しているのか問いたいところだったが、流れとして今更のような気もして飲み込む。
「ところで何でバナナなんだよ」
(チャンポン、空気を読めよ)
嫌悪感たっぷりに、徐々に距離をとっていくチャン。朔一が飲み込んだ疑問を事も無げに口にする。バナナごとチャンポンの嫌悪の対象に成り下がった"イスズ"は、さすがに心外そうに口を尖らせた。
「お絵かき教室でテーマにしたのっ! もうっ、そんなに嫌そうな顔しなくたっていいでしょ」
「おえかき教室?」
今度は朔一も素直に疑問を口にする。そう言えばチャンとバナナのせいで、いやバナナに非はないからして概ねチャンのせいで互いに自己紹介ができていないことに気付く。
「そう、私週に一回子どもたちに絵を教えてるんだー。勿論自分で絵も描くよ、そっちがメインなんだけどごはん食べられないからいろいろバイトしてるの。あ、申し遅れました! わたくしイスズです! 204号室をお借りしておりますっ!」
屈託無く喋って笑っていたかと思えば、最後は敬礼と共に名を名乗るイスズ。日本フリークの外国人のような妙な丁寧さと彼女のマイペースに乗せられて、朔一も思わず声をあげて笑った。
「朔一です。一応じいちゃんが良くなるまでの代理だから、なんか困ったこととかあったら言って」
「了解! 朔一!」
「朔一くん、僕はさっそくそのバナナ臭に困っているよ。頼むから早くそいつを連れて部屋にひきこもってくれ」
「……チャンポン、バナナがかわいそうだろ。なんてこと言うんだ」
「そうだよチャンポンー、バナナの気持ちにもなってよ」
「ならないよ! 馬鹿馬鹿しいっ。もう部屋に戻るからなっ」
鼻声で捨て台詞を吐いてチャンは自室、一〇三号に敗走した。結局は朔一ではなくチャンが自室にこもる道を選ぶ。廊下にはバナナの甘い香りが漂っているから当分は自主的に引きこもるだろう、少しだけチャンに同情していた矢先。
「今帰った」
「おー、コウゾウさんおかえりー」
「あ、ども。おかえりなさい」
玄関の引き戸が開く。筋肉質の男が入口をくぐるようにして中に入ってきた。昭和の頑固親父のような帰宅の挨拶に朔一は一瞬身を強ばらせた。イスズのときと同様、今回も相手と目が合った瞬間から望んでいない見つめ合いの開始だ。しかし思いの外すぐに終了する。
「キイチの孫……?」
「――です。朔一といいます。しばらくお世話になります」
「よろしく。104の吉乃本晃三だ」
 柔らかく笑う人だ――コウゾウが微笑をこぼすなり胸中で安堵の溜息をもらした。凝視されていた数秒間は実のところ"殺されはしないけど捕って食われるかもしれない"と真面目に考えていた。
「とりあえずバナナいかがですか」
ついでにバナナもお裾分け、しようと房に手を掛けたところで朔一が動きを止める。コウゾウは、これでもかというほど眉間に皺を寄せて今度はバナナを睨み付けていた。
「見事だ。頂こう」
また口の端からふっと吐息を漏らして柔らかく微笑まれる。イスズとはジャンルが違うがこの男もかなりのマイペースらしい、などと分析しながら見事なバナナをいくつか手渡した。
「俺は朝早くに出たり夜遅くに帰ってきたりするから迷惑をかけるかもしれん。受験生だったな」
「コウゾウさんは警備会社と運送会社にお勤めしてるんだよ」
「俺は全然平気ですよ、夜は結構遅くまで起きてるし一回寝たらちょっとはそっとじゃ起きないんでっ」
「そうか」
「あんまり頼りにならない管理人ですけどよろしくお願いします」
コウゾウはバナナを掲げて返事代わりにすると、のそのそと朔一の部屋の斜め向かいのドアを開けた。



   計八室の成田荘の住人は少し癖のあるこの男女四名で構成される。そしてこの日新たに管理人代理として成田朔一――青春ど真ん中十八歳、受験生――が加わった。それは一見してどこにでもあるはじまりの風景だった。この日の問題点を強いて挙げるなら全てがスムーズ過ぎたというところだろう、が多少なりとも新しい環境に対する緊張感で冷静さを欠いた朔一にそのようなひねくれた解釈をしている余裕はなかった。更に言えばもともと朔一はさほど冷静なタイプでもない。
 成田荘の秘密は朔一が入居してから一週間、長かったのか短かったのか、とにかく一週間という期間で暴かれることとなった。

      
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