六畳半コスモ

其の二 謎、暴かれまくる

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「暑~い! 蝉うるさ~い! べたべたする~!」
 モエが帰宅するなり「ただいま」代わりに文句を垂れる。確かに彼女が玄関の引き戸を開けて閉める少しの間、蝉の鳴き声が極端に大きく響いた。八月の真昼の、お馴染みの騒音だ。
「おかえりー」
朔一はノートに計算式を書きながら廊下に聞こえるように少しだけ声量を上げた。管理人室、朔一のいる101号室は玄関と廊下の音が望まざるとも全て筒抜けだ。誰かが帰ってくるときは勉強中でも必ず声をかけた。
「朔ちゃーん、コーラ飲まない、コーラ」
「今はいいー」
机の端に置いた腕時計に一瞬視線を移す。後二分で現在解いている大問を終えないと「確率」の問題で時間オーバーしてしまう、得意なはずの図形問題で手間取るとどうしても焦燥が生じた。「確率」はつくづく文系のための問題だ、などと脳裡によぎる。
 廊下では朔一の生返事にモエがこれみよがしに舌打ちを漏らしていた。
「淹れてもらおうと思ったのに。間が悪かったか」
仕方無しに廊下を進んでキッチンへ向かう。先客の気配があった。
「あら? 何よイスズ、今日休み?」
「あららら? モエさんは今帰り?」
朔一に代わる給仕を発見しモエが薄ら笑いを浮かべる。イスズは暑さとは別の理由で一筋の汗を流していた。言われる前にモエの分のグラスにもコーラを注ぐ。
「モエさん駄目だよ。朔、勉強中なんだから」
「はあ? このあっつい中勉強? おえ。考えただけで吐き気がするぅ。チャンポンは?」
ダイニングの椅子に座り新種の軟体動物のようにそのままテーブルにへばりつく。期待を裏切ってテーブルは生ぬるかった。
「だから勉強中」
「なにそれー! つまんなーい! イスズは? 暇?」
「私は今から制作」
ふてくされてふぐ口を作るモエの顔面前に、なみなみ注いだコーラのグラスを置いた。それに手を伸ばす余力もないのかモエは死んだ魚の目のまま、炭酸の気泡が弾けるのを眺めている。
「もういい。冷房全開でふて寝する……!」
最後の力を振り絞ってコーラをもぎ取るとそのまま一気飲み、仕上げにげっぷをお見舞いして満足したらしい肩を怒らせてモエは自室に戻る。イスズはその背中を苦笑いで見送った。
「閉めきってると地獄なのよねぇ。あーもう、やだやだ!」
モエの独り言が徐々に白熱してくる。鍵が開くと景気づけとばかりにドアを開け放した。熱気と湿気に立ちくらみさえ覚える。成田荘は夏は暑く、冬は寒い。修行するならこれ以上ない物件だが生憎住人の中には誰も修行僧はいない。
 疲労が一気に畳みかけてきた。蛇行しながら室内に入り、床に放り投げたままの冷房のリモコンを拾い上げる。そのとき悲劇は起こった。いや、隠れていた悲劇の大元が躍り出てきたと言った方が的確だ。
 ブゥゥン――耳元を大型バイクらしき轟音が横切っていった。しかしモエは知っている。その音が、そのような生易しいものでないことを瞬時に悟っていた。視界の端に確かな黒い影を確認する。それは宙を自由に飛び地に足をつけば高速で移動、身を隠す能力は忍者をも凌ぎ外界からのあらゆる攻撃に対して抜群の耐久性を誇ると言われる地球上最強にして最悪の生物、彼らは成田荘の先住民でもあった。
 非常ベルはないからして、自分自身が全力で非常事態を知らせるしかない。モエは持てる全ての力を振り絞って深呼吸した。
「でぇたぁぁぁぁぁ!」
 人力非常ベルはけたたましく鳴り、成田荘全体を駆けめぐった。同じ二階で筆を握っていたイスズへ、階段を隔てて一階で勉強していた朔一、チャンへ――。とりわけチャンの部屋は真下だ、モエの絶叫以前に振動で天井から埃が降った。
「な、なんだあ……?」
制限時間を思わず忘れて朔一も天井を見上げる。呆気にとられている間にチャンが凄まじい勢いで廊下を突き進んでいく音がする。どう考えても面倒くさい事態が発生する、もしくは既に発生していることを思い朔一が深々と溜息をついた。
「いぃぃやあぁぁぁ! こっち来たらこいつをお見舞いするわよ!」
 203号室は戦場と化していた。モエは殺虫剤と台所洗剤を右手と左手にそれぞれ構えて殺気満々で入口に立っている。標的が悠々自適に散歩するのを追いそこらじゅうに有毒ガスを噴射した。死闘を繰り広げる中、新手が背後から登場する。
「モエさん!」
「そこかぁ!」
 プシュー! ――モエの渾身の一撃(と言っても単に力一杯スプレーのコックを引いただけだが)は見事に第二の敵の顔面にクリーンヒットした。チャンの眼鏡が殺虫剤の油分で光り輝く。無論チャンはむせ返りながら力無く座り込んだ。
「……なんだチャンポンか。紛らわしいわね! 私の背後に立つんじゃないわよ!」
「何が紛らわしいだ! 常識的に考えてまず謝るだろう!」
眼鏡では完全防御はできなかったらしい、チャンは殉死した眼鏡を外して両目から溢れる涙を拭う。モエはまた顔を背けて舌打ちを漏らした。
「ごめんなさいねぇチャンポン、うっかりゴキブリと混同しちゃって。立ち直ったら、やれるわね?」
「はあ?」
モエがチャンに無理矢理握らせたのはくたびれたスリッパだった。唯一奴等に対抗できる強力武器だが、誰しも自分の手は汚したくない。背後では未だ飛行音がこだましていた。
「さあっ。おゆきなさい!」
「あんたって人はっ……! 僕を何だと思ってるんだ!」
「もちろん勇敢な戦士よ」
「バカは休み休み言ってくれ! だいたいゴキブリごときで何で大暴れするんだ、理解に苦しむよ!」
どこそこの血管がはち切れそうなほどのチャンの力説に一旦は平常心を取り戻したモエも再燃、額に特大の青筋を浮かべてチャンの胸ぐらを鷲掴みにした。
 おそらく、後から考えればこのときが"スイッチ"だったのだろう。
「あんたからの理解なんか不要! しのごの言ってないで男ならやりなさいよ!」
「困ったらすぐ暴力か? 見た目は女性でも中身は別物だね!」
「何よ、やる気?」
「あーいいさいいさ、やってやるよっ」
 モエが、チャンポンが、我を忘れて罵り合うこと一分弱。ドアを盾代わりに恐る恐る廊下に顔を出すイスズ、状況を一瞥して目眩を覚える。それは廊下に充満した殺虫スプレーのせいかもしれなかったかがもはやどちらでも良かった。
「二人とも! 鏡っ、鏡見てよもうっ。興奮しすぎだよ」
「うるさ~い! 私は怒っても美しいわよ!」
「そういうことじゃなくて……っ」
 イスズが恐れていた事態は既に発生した後だった。一階でドアを乱暴に閉める音がする。コウゾウはまだ仕事から帰宅していない、つまりこの時点で一階に残っているのは朔一だけだ。案の定階段の下の方で腕組みして苛立ちを顕わにしている。イスズの顔が一気に青ざめた。
「さ、朔っ」
「なんでこう次から次へと連鎖反応でうるさくなるんだよ……」
疲労感たっぷりに嘆息しながら階段を上がる。イスズは成り行きを見守ることにしたらしい、ドア越しに愛想笑いを浮かべて朔一を迎えた。
「モエさん、チャンポンうるさすぎ! 喧嘩するなら冷房使用禁止に……す、る……」
朔一の管理人らしい威勢の良い説教は、見事なまでに尻窄みとなり語尾はどこかへ消えた。

廊下の突き当たりに目を奪われる。そこは204号室、モエの部屋のはずだが開け放たれたドアの前でもみ合っている物体には見覚えがない。生まれてからの十八年間という歴史を全て辿ってもさっぱり見覚えがない。
「朔ちゃん、ちょうど良かった! ゴキブリよ、ゴキブリ! 退治して~管理人さ~ん」
「朔一くん、ちょうど良かった! ゴキブリなんかどうでもいいからこの女を退治してくれないか!」
モエの部屋の前で取っ組み合いをしている「モノ」たちが自分の名前を親しげに呼ぶ。更に何かしらの退治依頼をしている。朔一は目を凝らしたが理解や判断をするには視覚だけではあまりに情報が少なすぎた。そのくせチャンとモエの声だけはしっかりと認識し、混乱だけが残る。
 しばらく凝視した。片方は、体全体が金属でコーティングされているかのように無駄に艶やかで、小雨程度ならはじき返しそうな程光沢がある。全長は裕に二メートルあり手足が身長に対して異常に長くバランスが悪く見えた。
 結論、こいつは人間じゃない――ひとつ証明問題を終えたところですぐ横にいる取っ組み合い劣性の方に思考を移した。しかしこちらに関しては考察に時間を要しなかった。というより不要だった。
 結論、こいつは絶対に人間じゃない! ――視界に入れた直後に思い切り目を逸らした。メタリック体の半分ほどの大きさしか無いそれの皮膚(らしきもの)は全身深緑色だ。
(いや……、もう大きさとかの問題じゃないなこれ)
自分で自分に冷静につっこむ。余裕があるようだが朔一は眼前に広がる地獄絵図、百歩譲って異次元空間に気分が悪くなっていた。カップ販売のプリンをひっくり返したような体に棒状の目がおまけのように上方にくっついている。ありとあらゆる擬態語で表現するなら、ねばねばのぐちゃぐちゃのぬとぬとの生物がそこにいた。
「夢か」
最終的な結論としてシンプルだが実に納得のいく単語を持ち出すと、朔一は何事もなかったかのように踵を返した。
「ちょっと朔ちゃーん」
「朔一くん! まさか放っておくのか、この状況を!」
当たり前だと胸中で叫んだ。手を出せばこの悪夢が現実になることは本能で何となく分かる。
既に現実の一歩手前まで不法侵入されているのだ、受験を前に明らかに面倒くさそうなパラレルワールドに足を踏み入れたくなどなかった。
 と、よりまともな現実へ引き戻してくれそうな人物がようやく帰宅する。玄関の引き戸が開けられコウゾウと目があった。
「騒がしいな、またモエとチャンか」
日常茶飯事だと言わんばかりの諦めの嘆息をしてコウゾウは自室へ向かう。それを「奴ら」は阻止するためにわざわざ階段近くまでもみ合いながら移動してきた。朔一が背後の気配に声なき悲鳴を上げる。
「コウゾウさんゴキブリよ、ゴキブリ! 今始末しないと今夜あたり下に行くわよ! コウゾウさんの部屋に!」
「……ごきぶり……?」
モエの声でヒステリックに喋るメタリックな物体、に引きずられて小汚い嗚咽を漏らしている緑色の軟体、二体が階段付近までやってくると朔一は身の危険を察知して壁際にへばりついた。
 コウゾウは目を見開いていた。それもそのはず、モエとチャンが揃って理解不能な物体に変化しているのだから当然の反応だ。などと仲間意識を覚えていたのは朔一ただひとりだった。
「ゴキブリだと……?」
今度ははっきりと呟く。その静かな、しかし確かな変貌に朔一の背筋に高速で悪寒が走った。
「どこだ!!」
ただただ眠そうだったコウゾウの穏やかな目が途端に開眼、わき目もふらず階段を二段飛ばしで駆け上がると204号室の前で急ブレーキをかけた。唆したモエはしてやったりと笑みをこぼす。
「中か!」
「中でーっす」
 つい先刻まで青春を謳歌していたゴキブリはこのとき既に命の危険を察していたのか意気込むコウゾウの足元を横切り全力逃亡を図った。騒動の元々の原因が廊下に躍り出てきたのを目にしてモエを筆頭にまたもや小パニックを起こす。しかしそれはコウゾウによってすぐに朔一ひとりの大パニックに変えられる。
「調子に乗るなあぁぁぁ!!」
 始終健気にNGサインを送っていたイスズ、その努力がこの時点で決定的に水の泡と化した。
コウゾウだったもの、は尻から生えた二メートルほどの尾を軽快に一振りしターゲットを壁に叩きつけた。それが文字通り一撃必殺となり敵はあっさり死滅、コウゾウは満足そうに逞しい尾をまた一振りした。それはさながら強く美しい竜のよう――とは百歩譲っても思えない。
「大トカゲ……」
朔一は十八歳の少年らしく見たまま思ったままをそのまま口に出した。その瞬間、敵殲滅に喜色満面でハイタッチしていたモエが、コウゾウが、そして冷静さを取り戻しつつあったチャンが凍り付く。イスズはただ項垂れていた。
「えーと、朔ちゃん。これはねぇ、えっとー。……チャンポンほら、ちゃんと説明しなさいよ」
全身メタリック加工の生物が愛想笑いを浮かべる。
「これはだね、朔一くん。その。まあ何というか、世の中は大変広く出会う人も十人十色というか。ですよね、コウゾウさん」
その横でワカメ饅頭とでも表現するしかない色合いの軟体が、しどろもどろ弁解を始める。二足歩行の大トカゲは申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまん、取り乱した」
「いや、コウゾウさんそこじゃなくて……」
「あ、でもごめんね~朔ちゃん、勉強中だったんでしょ? もうあの極悪生物もやっつけたことだし大人しくするから~」
「モエさん、それはまず僕に言ってほしい言葉だな! まったく騒々しいことこの上ないよ」
 目を点にして放心する朔一をよそに、下手物共が談笑を始める。彼らにとっての大問題と、朔一が目の当たりにしている大大大問題はどうやらベクトルの方向が完全に違うらしい。しかも彼らの方は既に解決している。爽やかな空気が漂う中、朔一の半径一メートルあまりだけが唐草模様に彩られていた。
「な……」
目の前の光景は夢か幻か、この際現実でなければどちらでも大歓迎だったが連中は揃いも揃って迷いもなく朔一の名前を連呼している。微かな希望にしがみつくのをやめると、急激に混乱が頭の中を支配した。
「なんじゃこりゃあぁぁぁ!!」
 朔一は十八歳の少年らしく素直に、率直に、思いの丈を大絶叫した。成田荘に本日何度目かの奇声が響き渡った。

「じいちゃん!」
「おーう、朔! 元気じゃったかー?」
 病室の扉を思い切り開けた。中に居た数人の看護士が顰め面で口元に人差し指を当てる。喜一はベッドの中で上半身だけを起こして悪戯っぽく笑っていた。
 朔一は成田荘を飛び出し、そのまま全速力で喜一の入院する病院へ走ってきた。狐につままれたどころの話ではない、今の朔一の心境は言うなれば狐に卍固め食らわされている状態だ。興奮さめやらぬ様子で、息を切らしたまま喜一に駆け寄った。
「おーう! じゃないっ。説明してくれよ、何なんだあそこ! 何なんだよあの連中!」
喜一は年甲斐もなくふぐ口を作ると、話し相手にしていた看護士たちに手を振って人払いをした。祖父と孫だけが取り残されその二人が沈黙を作ると、病室はあまりにも静かだった。朔一の呼吸の音と、喜一がおもむろに注いだ煎茶をすする音だけがやけに響き渡る。
「何って、宇宙人じゃけど」
喜一は悪びれもせず当然のように言ってのけた。朔一がリアクションをとらないせいで、また完全たる静寂が辺りを包む。
「は?」
結局わざわざ考えた末に、咄嗟にしそうな応答を返した。
「だから、宇宙人」
喜一も負けじと何でもない風を貫く。朔一としてはまさかあの一連の騒動が、このような一単語で片づいてしまうなどとは思ってもみなかった。
 宇宙人――実に馴染み深い言葉だ。宇宙にお住まいの全ての方々を指すならば地球人も大義では宇宙人扱いだ。成田荘の住人たちは正しくは"地球外生命体"というやつではないのか。などと細かいことを気に留めている場合ではなかった。
「なんでその宇宙人さんたちがじいちゃんの下宿に凝り固まっちゃってんだよ……!」
「宇宙人専用なんじゃから当然じゃろー?」
「そういうことじゃなくて」
「こいつは最後の土産のつもりだったんだがなぁ」
喜一はまた子どものように歯を見せて笑った。それが朔一の目には、心なしか少し寂しげに映った。
「宇宙にはいろんなものがあるぞ、朔」
 喜一がこのはじまりで話を始めると長い。還暦を過ぎたあたりから新しいネタも無くなったのか以前聞いた話をすることも多くなった。ブラックホールだらけの空間を華麗にすり抜けた武勇伝、地球にはない植物、地球にはいない虫の話、朔一が子どものころから親しみのあるそれらの話の中に、"宇宙人"は一度も登場しなかった。
「いろんな星に、いろんな文化といろんな住人が生きている。わしらは幾度もの飛行でそういうたくさんの宇宙人と友人になった。地球上で彼らの存在を公表しないという約束のもとで、我々と彼らは互いに文化や言葉を学び合った。そういう中で地球、とりわけ日本に興味を持った異星人がいてな、まあそれが彼らの星の住人というわけじゃ」
 朔一の中の違和感は簡単には拭い去れない。何せ喜一が宇宙を飛び回っていた頃は、地球にはない小さな葉ひとつ見つけただけで英雄のように扱われた時代だ。実際喜一はそれらを当時のクルーたちと共に発見し、一躍時の人となった。ちやほやされることが生き甲斐の喜一が、引退してから今まで世紀の大発見を黙っていたなんて――
「地球人は排他の文化を持つ種族じゃからな」
朔一の胸中を見透かしたように喜一が補足を始めた。
「人間は、"目に見える姿"でそのものを判断する。更に,多くの者は自分と異なるモノを倦厭する。……朔、お前は多くの者のひとりか?」
 心臓が、一度大きく脈打つのを感じた。
「じいちゃん……なんかとてつもなく感動的なこと言って誤魔化そうとしてない……?」
「朔こそわしの知らない間にひねくれおったな……!」
「いや普通だろ! ……あ~、もういいよ。これ以上じいちゃんと話してたら上手く言いくるめられそうだ」
溜息をついて踵を返す。喜一はまたふぐ口をつくってそれを見送っていたが、朔一がドアの前まで来ると思い出したように顔を上げた。
「なあ、朔よ」
語りかけるように呼び止めると、朔一も一旦立ち止まって顔だけ病室内に振り返った。喜一が自らの薄い胸板――左胸――に拳を押し当てる。
「判断は『ここ』でしろよ。それでもってあいつらが嫌な連中だったら、そのときはまたじいちゃんに言ってこい」
「はいはい、『ここ』ね。何でもいいから次こういうことがあるときはちゃんと言っといてくれよな」
朔一は苦笑混じりに拳をつくり同じジェスチャーを返した。来たときとは打って代わって穏やかな気持ちで病室を跡にする。
 結局上手く言いくるめられたのかもな――思い出してまた苦笑い、喜一の言葉のいくつかが朔一の脳裡でぐるぐると規則正しく回っていた。

 成田荘の玄関の前で、朔一は無意識に一度大きく深呼吸した。無駄にやかましく住人の帰宅を告げてしまう引き戸をいかにして黙らせるか、考えてみたが良案も浮かばない。結局何の工夫もなくそろそろと控えめに扉を引くしかなかった。飛び出してきたときにはこれでもかというほど騒がしかった廊下が今は静まり返っている。朔一は静寂を破らぬよう第一声を慌てて飲み込んだ。
 足音と息を殺し細心の注意を払いながら廊下を進む。と、微かに話し声が聞こえた。声は104号室、コウゾウの部屋からで耳をそばだてると会話の内容までしっかりと聞きとることができた。どこまでも壁が薄いところはもはや成田荘の長所だ。
「確かに一番最初に原型に戻ったのは私だけどー」
「分かってるよっ。全員に責任があるさ」
モエの気怠そうな声と、チャンの面倒そうな声が壁越しに聞こえる。どうやらコウゾウの部屋に全員集まっているらしい、朔一はそのまま壁にもたれて様子を伺うことにした。
「だいたい隠していたこと自体が間違いなんだ、きちんと説明さえしておけばこんなことにはならなかったと僕は思うけどね」
チャンの溜息混じりの台詞に、廊下に突っ立ったまま朔一が無言で頷く。
「喜一が言っていただろう。我々の存在自体が地球では認知されていないんだ、説明すれば丸く収まっていたというわけでもない」
「でもちょっとあのバレ方はクレイジーよねぇ~」
コウゾウとモエ、ゴキブリ騒ぎでとりわけ取り乱していた二人が何故か一番マイペースを保っている。チャンの苛立ちが目に浮かぶようで朔一は思わず苦笑をこぼした。
「もう見られちゃったものは仕方がないよ……。これからどうするかを考えよ?」
疲労感がにじみ出たイスズの声。そう言えば、と思い朔一はドアに付けられている磨りガラスから少しだけ顔を覗かせた。イスズの"原型"とやらは目にしていない。単なる興味本位を阻止するようにガラスはしっかり中の様子を遮断していた。あっさり諦めて再び定位置に戻る。そもそも今も全員があの姿のままとは思えなかった。
「とにかく。曲がりなりにも今の管理人は朔一くんなんだ。彼がノーと言ってしまえば僕ら全員一気にホームレスなんだぞ、あの驚きっぷりを考えれば十分に考えられる事態だ」
「そいつは困るな」
「あたしも困る……」
「お願いするしかないわねー。つまりはあれでしょ? 朔ちゃんの前では原型に戻らなければいいんじゃないの?」
モエの提案に何人かの唸り声が重なり合っていく。
「それってお風呂上がりとかも駄目かなあ」
「俺は保証できん。また『奴』が出れば条件反射で戻る可能性の方が高い……っ」
「コウゾウさんゴキブリ大嫌いだもんねぇ……」
「つまり無理なんだよ! 息が詰まる! 元に戻るなって、それ人間で言うところの自分の家でおならするなってのと同じだよ」
チャンの妙に説得力のある例えが炸裂したところで、モエの堪忍袋の緒(耐久力ゼロ)がまたしてもあっさりちぎれ去った。
「何よだらしないわね。全員つまみ出されたいの?」
「じゃーあ、モエさんは実行できるっていうのか? できなけりゃ即出ていくんだなっ?」
モエのいつもの売り言葉を、チャンは何故か毎回全力で買い占める。再び開戦された低レベルな罵り合いに、朔一は脱力して廊下の隅に座り込んだ。諫めようとしないイスズとコウゾウはおそらく朔一と似たような心境にあるのだろう。それでも朔一の堪忍袋(最近急激に劣化した)が切れる間際には、イスズの仲裁が入った。
「とりあえず努力義務ってことで置いておこう? 今日みたいに全員が突然原型になって大暴れなんてことそうそうしないでしょ」
「それもそうね。要は心構えの問題よ」
(それをモエさんが言うのか……)
 ドアを隔てた向こうで今度はチャンと同調、無論互いに認識はしていないが。
 様子伺いに真剣になって、朔一はドアを開けるタイミングを完全に逃していた。実のところ玄関を開けた瞬間に全員何でもなかったように振る舞っている気がしていたから、この即席作戦会議は意外だったのである。
「ねえ、じゃあこういうのはどうかな。朔の大学受験を私たちで徹底サポートするの。私たちのいいところをちゃんと朔にアピールできると思わない?」
話が少しだけ正しい方向に傾いた気がした。もう少しだけ、このまま聞き耳をたてることにする。
「いいわね、それ。チャンポンあんた頭いいんだから無償でカテキョしなさいよ」
「……確かに僕は頭がいいが、自分の勉強だってある。だいたいモエさんたちはどうサポートするんだ」
チャンのもっともらしい疑問に誰も即答できずにいる。これでは彼の独り損で、それに対する呆れから特大の嘆息が放たれた。確かにわざとらしくはあるが、溜息の音でさえ成田荘の貧弱な壁は遮断してくれないらしい。朔一は含み笑いをこぼしてようやくドアノブに手を掛けた。
「そうね……千羽鶴を折るとか」
「そんな非科学的なっ」
考えた末の苦し紛れすぎるモエの回答、磨りガラスを覗き込むとチャンらしき影が惜しげもなく肩を竦めていた。その隣で人一倍大きな影が律儀に挙手をした。
「俺は……鶴は折れん……!」
思い詰めた顔で実にくだらない報告をされて今度はチャンの堪忍袋の緒(使い捨てタイプ)が極限状態となる。聞いている限りでは三分に一回の割合で彼らには一触即発状態が訪れるようだ、再び大乱闘を起こされる前にと、朔一は勢い良くノックをしてそのままドアを開けた。
 唖然とする下宿人たち、跋の悪そうな朔一、互いがほんの数秒だけ無言で見つめ合った。
「朔っ。おかえり」
「や、やっだー朔ちゃん! びっくりしたぁ。あ、びっくりしたのはそっちか、ごめんなさいねー」
「モエさん元凶なんだからきちんと謝れよ! 朔一くん昼間の状況にはいろいろと理由があってだね……」
「朔一、驚かせてすまなかった」
思い思いに狼狽える連中の言い訳を遮ってコウゾウが深々と頭を垂れた。紳士、というより彼はどうも武士の臭いがする。士気に当てられたか、真っ先に言い訳を口走ろうとしていたチャンも一旦口をつぐんで咳払いで誤魔化した。
「いや、ほんと申し訳なかったと思う。何も説明してなかったしさぞびっくりしたと思うよ。僕もみんなも反省していたところだ」
 朔一は苦笑いで応えた。思いの外リラックスしている朔一に皆ほっとしたのかそれぞれに顔を見合わせる。
「聞いたよ、じいちゃんから。……たった今だけどね」
「朔、あのっ。それなんだけどね? みんなやっぱりここくらいしか気を許して住めるところってないし、なるべく原型には戻らないように頑張るから追い出さないで欲しいの! お願いします!」
他者を押しのけて先頭に立つイスズ。そのまま両手の平を合わせて懇願、というよりも実質拝んできた。
「宜しく頼む」
武士もどきがまた深々と敬礼するのを真似て、始終ふてぶてしかった残りの二人も頭を下げた。神でも仏でもないただの成田荘管理人代理が、下宿人全員に拝み倒される状況ははっきり言って昼間の下手物フェスティバルより数倍異様な光景である。堪えてきた笑いが一気に唾液と共に吹き出した。心外そうに目を丸くしたのはすぐ目の前にいたイスズだ。
「いや……っ、ごめんあまりにもアホらしくてつい……」
「朔……私たちには死活問題なんだよ」
イスズの懇願の瞳が非難の色に変わる。
「誰もつまみ出したりしないよ、俺はただのじいちゃんの代理で王様じゃないんだからさ。……慣れるまでお互い不都合なところもあるだろうけど、ま、協力して頑張ろう」
非難から希望へ、イスズの瞳はころころと表情を変える。朔一のはにかんだ笑みがその瞳の奥に映し出されていた。
「さっすが朔ちゃん! そうよ、みんなで協力すれば成田荘は無敵の最強、こわいもんなし! さ、一件落着したところで解散しましょ。朔ちゃん、チャンポンはお勉強お勉強っ」
モエはひとりで一本締めをすると清々しい顔つきで二階へ上がっていった。成田荘の目指す方向性が多少ずれている気がしないでもなかったが、彼女の言うとおりようやく訪れた大団円をぶち壊す理由にはならない。朔一の鼻腔から、何度目かになる長い長い嘆息が漏れた。
 こうして朔一は知りたくもなかった成田荘の秘密と真実を知った。祖父に言いくるめられ、下宿人たちに更にうまく踊らされたことなど本人は知る由もなく、朔一はあっさりこの特異な現実を受け入れてしまった。そして改めて始まる日本人ではない、ましてや地球人ですらない彼らとの共同生活に朔一は何の準備もなく踏み込んでしまうのだった。

      
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