六畳半コスモ

其の三 イスズ、恋をする

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「どうせこもってばっかりなんだろ? たまには顔出せよ、思いっきり空振りしてストレス解消しろって」
 携帯電話の向こう側で笑い声が響く。朔一は一瞬だけ電話の本体を耳から遠ざけた。机の上にはシャープペンシルと解答用紙が放置されている。先刻かかってきた部活仲間からの電話をとってしまったがために勉強は中断を余儀なくされた。しかしそう迷惑というわけでもない。電話が鳴る前から朔一の集中力は枯渇していたし、そうでなければそもそも応答しなかった。
 うちわで気怠く顔面を扇ぎながらついに畳の上に体を投げ出す。
「気が向いたらなー……。今の俺にこの炎天下の中バットを振り回すマゾ思考はない」
「追い出し会で『引退したくありません』つって号泣したのはどこのどいつだ?」
「誰だ、その気色悪い奴っ」
 言うまでもなく朔一本人だ。野球部の三年生は例年夏の大会を最後に引退する。大学受験を控えた者もそうでない者も同様だ。甲子園予選二回戦で例年敗退する弱小部ではあったが、朔一にとって部活は青春そのものだった。
「お前はいいよなー……、空振りしに行く余裕があって……」
「うわっ、腐るなよー。余裕じゃなくて気分転換だって。来る気になったら声かけろよ、俺もつきあう」
「気が向けばな」
 気付けば同じ台詞を二度言っていた。あれだけ毎日走り回っていたグラウンドも、少し離れれてしまうと眩しくて現実離れした世界に思える。兎にも角にも今の朔一にとっての現実は、無造作に転がったままのシャープペンシルと白紙に近い解答用紙が象徴だ。そして――
「チャンポーン! 米がないんだけど!」
けたたましく響くかん高いモエの声。静寂とは無縁のウルトラグローバルなこの環境が、もう一つの確固たる現実だ。台所からの絶叫らしいがモエの場合どこに居ても同じくらいの声量で朔一の耳に届く。 
「チャンポォン! 米!」
もはや麺類なのか穀類なのか判別不明だが、成田荘内に限ってはこの名詞の連発で会話は成立する。意味は「米がきれたから近くのスーパーまでチャンに買ってきてもらいたい」である。
「無視してんじゃないわよ! 米がなくてもいいっての?」
声が更に大きくなった。地団駄がこの頼りない木造建築を揺るがす前に、朔一が跳ね起きて廊下に出た。
「モエさん、俺が行くよ。米だけ?」
「わお、朔ちゃん気が利く~。牛乳も買っといてくれるとモエ嬉しい~」
廊下の突き当たりで喜びのくねくねダンスを踊るモエ。暑さで頭がおかしくなったのかと思ったが、少し考えて元々成田荘にまともな人間がいなかったことを思い出すと納得して二三度頷いた。
「行ってらっしゃ~い」
そのままその妙なくねくねダンスに見送られて朔一は内側から玄関の戸を引いた。今頃203号室でチャンが万歳三唱をしているような気がして想像だけで腹が立つ。と、勢い良く踏み出した足元を何かがのんびり横切っていくのが視界に映った。
(げ。まさかまたアレか?)
冷や汗をかきながら高速で振り返る。相変わらずのんびり廊下を行進しているのがゴキブリでないことにまず安堵した。刹那、ベタだとは思いながらもその物体を二度見してしまう。野球の硬式ボールより少し小さいくらいの大きさのクラゲが、マイクロファイバーのマットのような足をちょこまかと動かして懸命に廊下を這っている。
(いやいや! クラゲにしちゃ形がしっかりしすぎだろ)
言うなれば"スライム"だ。でなければ陸上をのろまに進む新種のクラゲということで片づけるしかないが、何の躊躇もなく階段の方へ進むところを見ると同居している宇宙人の内の一人だと考えるのが妥当だろう。
「イスズ……?」
クラゲの歩行が止まる。どうやら正解を言ってしまったらしい、手だか足だか分からないが歩行に使用していた触手のようなものを高々と掲げてこちらに振り向いた。
「あ、ただいま。ごめーん、ぼーとしてたー」
やたらに小さい声が足元で響くが、イスズの声であることに間違いはなさそうだ。そのまま何事もなかったかのように階段へ向かおうとするのを朔一が慌てて制した。
「イスズ、まさかそれで帰ってきたの? どこから……」
「え?」
よそ見をしたせいで階段の一段目――今のイスズにとってはちょっとした壁のようのものだ――にぶち当たる。鈍い痛みと引き替えに当人もようやく自分の外見を認識したようだった。
「おわー! なんでー! 服と鞄~!」
我に返るなり即座に人型になろうとするイスズ、本人が狼狽えている通り今戻れば全裸に相違ない。
「イスズたんま! それはちょっとさすがに!」
まずい反面嬉し過ぎる、という本音は省略しておきながら全く目を逸らす気がないあたりが自分でも悲しい。しかし抜群のタイミングで視界は突如真っ暗になり、再び開けたときにはイスズは既に二階の自室に駆け上がっていた。
「朔ちゃんも男の子なのねー」
背後からモエのにやつき顔が登場するや否や事の次第はすぐに判明した。わざわざ目隠しするために後ろから抱きついてくれたようだ、究極のありがた迷惑に朔一も素直に口をへの字にひん曲げた。
「よくイスズだって分かったわね」
「ここに住んでて分からない方がどうかしてるでしょ……にしても何で原型? いくら何でも気付かないで帰って来るってぼんやりにも程があるんじゃ……」
 204号室のドアが勢い良く開き、そして閉められる。服を着終えたイスズが凄まじい勢いで階段を駆け下りてきた。彼女にもうぼんやりの要素はどこにもない。モエに抱きつかれたままただただ唖然とする朔一と目が合うと、切羽詰まった表情で足踏みした。
「鞄と服探して来るっ。あんまり覚えてないけどたぶん道路の端っことかに落としてきてるんだよ~最低~」
イスズは朔一の応答も待たず、紅潮する顔を手のひらで覆いながら猛スピードで玄関を飛び出していった。開け放された入り口からは紫外線のきつい西日が容赦なく差し込む。
「ははあ~王子となんかあったな、ありゃ」
「王子?」
モエの意味深な言いぐさに乗せられてつい聞き返してしまった。朔一の間髪入れずの切り返しにモエは喜色満面だ。
「聞きたい?」
「はあ、まあ」
「イスズの想い人よ。お絵かき教室の父兄かなんからしいんだけど、最近かなり熱あげちゃってるみたいね。」
「……それって地球人?」
「当たり前でしょ。隣近所でそうそう異星人にうようよされちゃたまったもんじゃないわよ」
隣近所を異星人で固められた朔一としてはそっくりそのまま同じ台詞をモエに返してやりたいところだったが話が面倒な方向へ向かいそうだったので胸中に留めておくことにした。なんだかんだ思いをめぐらせながらモエの束縛をほどくと、気持ちだけ急いで靴紐を結んだ。
「俺もイスズの鞄探してくるよ、なんか危なっかしいし」
「米さえ買ってきてくれれば私は何でもいいわ」
「牛乳もでしょ」
モエは引き戸の隙間から差す紫外線を一瞬浴びるとすぐさま踵を返した。なるほどモエを撃退したいときは玄関を開け放てばいいらしい、などとくだらない発見に感動し朔一もイスズの跡を追った。

 
夕方になると焼けこげるような暑さは和らぐものの、反比例して太陽光線は昼間に増して赤い輝きを放っていた。真横にいびつな形で伸びた自らの影を連れて、朔一は小走りで駅方面へ向かった。ジャージ姿で無心に走るとどうも今から部活が始まるような錯覚に陥るが、鼓膜をくすぐるのは豆腐屋のラッパやどこかの家の風鈴の揺れる音で、やけくそ気味の号令や金属バットの爽快な打撃音なんかは無論聞こえてこない。現実を知らしめるようにどこかの家の開けっ放しの窓から、親父の軽快なくしゃみが聞こえた。
「イスズ」
走り込みは開始三分も経たずして終わる。密集した住宅を抜けて土手に抜けると沈む寸前の太陽が最後の悪あがきとばかりに全力で下界を照らしていた。
 割と傾斜のきつい土手の中腹で、雑草に取り囲まれたイスズが宝探しに熱中している。と言っても探しているのは自分の鞄と着ていた洋服なのだが。
「この辺?」
朔一も雑草の中に分け入る。
「朔っ。ごめんね」
「いやいいけど……わざわざ雑草の中を突き進んで帰ってきたの……?」
「途中からやけに足元が悪いなあって思ってたから間違いないと思うんだけど」
イスズにとっては確固たる根拠らしいので一応逆らわずにおくが、一心不乱に雑草をかき分ける彼女を横目に朔一は時折顔を上げて道の方にも視線を向けた。
「鞄、大事なもの入れてた?」
走っていたときの方が涼しかった気がする。額から頬を伝って汗が流れた。
「お財布くらい。でもいろんな意味でまずいと思うんだよね、ああいうのが一式道端に落ちてるって……あ! あった」
 案外労せずして見つけることができて安堵したのも束の間、雑草の上に脱ぎ捨てられた状態のワンピースを見て朔一は青ざめた。加えて、偶然なのかきちんと両足揃えられたままのミュールと籠性の鞄が放置されているのが視界に入る。確かにこのセットを何も知らない道行く人が発見すれば在らぬ方向に解釈される、そうならなかったことに今度こそ真剣に安堵の溜息を漏らした。そそくさとワンピース(とおそらくそれに巻き込まれてある下着)をかき集めるイスズに並んで、朔一は籠バッグとミュールを拾い上げた。照れ笑いで誤魔化そうとする彼女を見ると説教する気が途端に萎えた。
「〝王子様〟と何かあったのかって、モエさんが心配してたよ」
イスズのビー玉のように丸い瞳が更に丸くなる。照れ笑いがすぐに赤面に変わった。
「モエさんのお喋り……」
「俺に協力できることがあれば手伝おうか。て言っても知らない奴じゃ――」
「ほんと!?」
ジャージの裾を思い切り掴まれて朔一は咄嗟に後ずさってしまった。予想だにしないリアクションである。ここは「ありがとう、気持ちだけ」だとか言って軽く流される場面のはずだったが、イスズの瞳には朔一の適当な社交辞令が希望の光にでも見えてしまったのだろう。宇宙人相手に軽口を叩いた自分を胸中で高速でなじり倒した。
「朔が協力してくれるなら百人力だよ! 同じ地球人だし、男の子だし、確か同い年だしっ。そうと決まったら見せなきゃだね。来て! こっち!」
 高校男児(地球人に限る)というとてつもなく広域な条件を満たしただけでこうもはしゃがれると不安だけが渦巻く。そんなことを言えば自転車を押して制服の彼女とイチャイチャ下校しているそこのあいつも、気怠そうに参考書を読みながら毛むくじゃらの犬の散歩をしているそこのあいつだって条件を満たす。などという弁解はエンジンに火のついたイスズにはもはや受け入れてもらえそうになかった。宇宙に住むクラゲ星人はどうやら見かけに寄らずかなりゴーイングマイウェイらしい。
 朔一は期待に胸を膨らませたイスズに引きずられて駅に程近いコンビニエンスストアに辿り着いた。ガラス張りの店内にはそれらしき高校生を含め数人の客が商品を物色してうろうろしている。
「この時間はだいたいいつも立ち読みしてるの。ほら、あそこっ」
どこかの会社の営業車の陰に身を隠しつつ、イスズが雑誌コーナーを指さした。確かにブレザーを着崩した高校生が体を外側に向けて雑誌に読みふけっている。
(宇宙にもストーカー紛いがいるんだな……)
相手の行動パターンを把握している時点で結構なハイレベルだなんてことは、口が裂けても言えない。すっかり恋する乙女の瞳になったイスズを横目にそのストーカーレベルを心配していたせいで、朔一は次なる驚愕の事態に気付くのが半テンポ遅れた。しかしそのおかげか、新たに生じた完全に面倒くさい事態を自ら招くことだけは避けられた。
 世間は、いや宇宙は狭い……――乙女漫画風に輝くイスズの視線の先を今一度、無駄だと思いながらも確認した。雑誌コーナーで気怠そうに突っ立っている高校生、紛れもなく朔一の学校の制服だ。濃紺の、どこにでもあるようなデザインのブレザーだが胸ポケットに刺繍されてある校章は思わず目を反らしたくなるほどド派手だ。それだけならまだしも、男子学生が自分の隣に無造作に置いてあるスポーツバックにも見覚えがある。見覚えというより、成田荘の101号室に放り投げてあるものと全く同じだ。こいつも"南鷹高校野球部"と側面一杯に記載されており、無駄に自己主張が激しい。
 もう一度だけ、既に粉々に砕け散った期待を抱いてもう一度だけターゲットの顔を見直した。そして改めて愕然とする。朔一は目頭を押さえてアスファルトに視線を落とした。
「まさか……哲かよ……」
「知り合いっ?」
今すぐ知り合いから一抜けたい気分である。朔一の携帯電話の着信履歴、最後の名前は立原哲。現在ガラス張りの壁の向こうでにやにや頁をめくっている男の名前だ。確かに同じ地球人で同じ男子で同じ高校に通い同じ部活に所属していた同じクラスの朔一は仲人にこれ以上ない人材である。
 詳細を確かめようと朔一の体を揺さぶるイスズ、暫く成すがままに揺さぶられる朔一、虚ろに店内に視線を移した瞬間に目が覚めた。哲の姿がない。
「朔……何やってんだ、お前」
すぐさま声が真上から降ってきた。驚愕のあまり声なき悲鳴をあげてイスズともども尻餅をつく。次々と宜しくない方向へ事態が猛スピードで展開していくせいで、今日覚えた英単語のいくつかがお空の彼方に消えていくのが分かった。
「お前こそ! 部活に顔だしてコンビニで立ち読みなんて余裕ぶっこきすぎだろっ」
「コンビニの駐車場でかくれんぼしてる方がよっぽど余裕に見えるぞ」
「これはだなぁ……」
確かにどこをどう見てもかくれんぼか、良くてスパイごっこにしか見えない。言い訳をすればするほど空しい気がして途中で諦めた。
「あれ? イスズ先生?」
「は?」
哲に旋毛を見下ろされているのが嫌で立ち上がった瞬間、後ろにいたイスズがお目見えしてしまった。今日の朔一の判断と行動は一から十までとことん裏目に出るようだ。
「あ、そうか。おえかき教室の父兄」
「良く知ってんな、妹が通ってんだ。っていうか知り合いなのか、二人。まさか彼女――」
朔一とイスズが揃って高速でかぶりを振る。あまりの全力否定に軽いノリで訊いた哲も苦笑いをこぼした。かくれんぼ疑惑はこの際放っておいても構わないがこちらの誤解は解いておかねばならない。
「ほらこの間話したろ。じいちゃんの下宿に一緒に住んでんだよ」
「へー! いいな、朔。イスズ先生みたいな美人と一つ屋根の下かっ」
悪びれた様子もなく爽やかに笑う野球少年に、朔一は思い切り苦虫を潰してそれをわざと顔に出した。これ以上哲に空気読まずな発言をされてはたまらない。頼むからとっとと消えてくれ、などと親友にテレパシーで切に語りかけた。――無論そのような非現実的能力は頭の先から爪先まで生粋の地球人である朔一にあるはずもない、従って哲も全くとっとと消えてくれる気配を見せない。
「今度また子ども展覧会があるでしょ、俺もまた見に行きますよ。イスズ先生の絵も楽しみだしっ」
「う、うん。みんな頑張って描いてるから是非……」
イスズがようやく口に出した言葉は何とも歯切れが悪く、明るさがどこかぎこちなかった。懸命に笑顔を作ろうとしているが無意識に俯いてしまっているから意味がない。そんなイスズとは反対に哲はスポーツマン特有のやたらにフレッシュな笑顔を炸裂させ、いちいち爽やかに手を振りながら去っていった。朔一の予想よりは早い退散で胸を撫で下ろす。
 問題は全く片づいてなどいない。朔一も一応爽やかぶって哲に手を振っていたが、背中で今にも消え入りそうな声で名前を呼ばれると無視もできない。
「イ、イスズ……哲はあの通りちょっと鈍いっていうか頭の風通しが良すぎるっていうか、や、まあ頭はいいのはいいんだけど……」
「朔……」
「……はい」
これ以上何を補足しても逆効果ということだけは分かる。涙声でジャージの裾を掴まれると素直に返事をするしか得策が思い浮かばなかった。
「お願いします……っ」
素直に返事を――してしまったら泥沼だ。大して所持していない冷静さを絞り出してぎりぎりのところで踏みとどまった。とりあえずまた、爽やか全開の笑顔でその場を取り繕ったが朔一がやるとどうも胡散臭さが否めない。
(だって哲だろ? 哲はなぁ……)
イスズの哀願を真正面から受け止めることは不可能で、朔一は徐々に視線を逸らしながら気むずかしい顔を作った。腕組みのまま唸り声をあげて帰路に就く。後方で何度か頼りなく朔一の名を呼ぶ声が聞こえた。

      
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