六畳半コスモ

其の四 チャン、魂を落とす

←Back   Index   Next→
 成田荘の101号室の窓から見える外の世界はモノクロで、激しい雨音が他の全ての効果音をかき消していた。時計は夕刻を指していたが豆腐屋のラッパも風鈴の鈴の音も、どこかの親父の気持ちのいいくしゃみも今日は聞こえてこない。
 あれからまた一週間、朔一にとっては望まざるとも慌ただしい一週間が過ぎた。週末には学年全体で受ける全国模試が早朝から二日間に渡って行われ、その後には今期三度目となる進路相談だとか個人面談だとか、受験に合わせた個人カリキュラムの組み直しだとか新学期からのラストスパートに向けた準備に追われていた。部活には勿論顔を出していない。
 不意に見た自分の手の甲が、ノートと同じくらい白いことに違和感を覚える。去年の今頃は全身焼いた秋刀魚のようで、大根下ろしを添えたら絵になるだろう真っ黒さだった。
「台風でも近づいてんのかなー……」
大型でも上陸しようものなら成田荘は吹き飛びかねない、窓の向こうで世界が下へ下へと押し流されていくのを眺めて朔一は一度身震いした。それから集中しようとカーテンを閉じた。
 閉ざされた空間の中で音楽プレーヤーのリモコンを手にとって再生ボタンを押す。流れてくるのはポップスでもロックでもなく粘っこい女の声で早口に放たれる「英語」という呪文だ。女は好き勝手にだらだらと話をした後、唐突に語尾を上げて朔一に質問を投げかけてくる。彼女の名前がスーザンだということはやたらに連呼されるため判明していたが、どうやらかなり自己中心的な女のようだ。「もっとゆっくり喋って下さい」と言ったところで受け入れてもくれない。朔一は女の弾丸トークに粛々と筆談で応えるしかなかった。窓が時折激しく震える。誰かがノックしているようで不気味だ。
 コンコンッ――朔一は顔を上げて室内を見回した。スーザンはそんな朔一もお構いなしに意気揚々とジョンと見た映画の話を続けている。
 コンコンコンッ――気のせいではない。確信して朔一は腰を上げた。スーザンのことはこの際ジョンに任せることにした。
「さ、朔一くん……」
今にも消え入りそうな頼りない声が微かに窓を震わせる。朔一は思い切って一気にカーテンを開けた。その浅はかな行動が自身の恐怖を増長させたことは言うまでもない。
「ぎゃーーーー!」
「わぁぁぁぁぉぁぁ!」
 朔一がその姿を目にした瞬間腹の底から悲鳴を上げたせいで、窓の外に突っ立っていた深緑色の軟体生物も共鳴して大絶叫をあげた。ずぶ濡れのプリン体が大口を開けている、その光景がより一層不気味で正体が分かっていながらも朔一は暫く叫ぶのをやめることができなかった。
「朔一くん、ぼ……僕だよ! チャンだ!」
そんなことは叫び始めた段階で承知している、窓に体を押し当てて自己アピールしてくるチャンから思い切り距離を取った。
「窓にへばりつくな! 何なんだよ、何でまた原型でそんなとこに突っ立ってる!」
朔一も涙目だが、チャンはそれを通り越して大粒の涙をはらはらと流している。雨と一体化してそれらは勢い良く地面に落ちていった。
「実は玄関の鍵をどこかへ落としてしまったようで……探し回ったんだがこの雨だろう? み、見つからないし寒いし悲しいしで人型を保つ体力が無くなってしまったんだ……」
「頼むからそういうときは真っ先に電話してくれっ」
 ジェスチャーで玄関口に回るよう指示を出し朔一もぐったりして廊下に出る。心臓がまだ早鐘を打っていた。成田荘の玄関は一応常時施錠してある。下宿人たちは各一本この玄関の鍵を持っておりいつもは各自で開錠して帰宅してくるというわけだ。内側からは二枚の引き戸の真ん中にあるコックをひねるだけで簡単に開く。
「助かったよ……」
全身を引きずり力無く靴脱ぎ場に入るチャン、さすがに哀れで今回も説教する気が失せてしまった。イスズとは違い鞄や着衣はしっかり小脇に抱えているところがチャンらしい。
「ちゃんと風呂入って寝ろよ?」
「そうするよ。勉強の邪魔しちゃったみたいだな、ごめん」
「いや、別にいいけど……」
人型で言うところの肩らしき位置にショルダーバックがぶら下がってはいるが今にもずり落ちそうだ、その瀬戸際のところでかろうじて留まっている。抱え直す素振りも見せずチャンはそのままバッグを引きずりながら自室に向かった。
「なんか、大丈夫か? チャンポン」
 朔一の心配は杞憂に終わらなかった。雨は小降りになり、スーザンとジョンの会話はロバートという新キャラを迎え更に白熱、ロバートは自身の趣味について切々と語っている様子だが朔一が理解できたのはロバートが無駄に多趣味だということくらいだった。スーザンも厄介な男を連れてきてくれたのものだ。
「ごほっ。げぼっ」
そしてこの成田荘にも、厄介極まりない輩がいる。本来なら全員ひっくるめて厄介者カテゴリにぶちこみたいところだが、今日に限ってはこの男限定だ。
 排水溝が詰まったような薄汚い効果音に気分を害し、朔一は廊下に顔だけ出した。チャンらしき男が蛇行しながら玄関へ向かっているところだった。らしき、というのは見た目ではチャンの要素が黒眼鏡だけしか確認できないからだ。人型ではあるが、今の季節に相応しくない撥水性のスポーツウェアの上にレインコートを着込んで、マフラーかとつっこみたくなるほどタオルをグルグルと首に巻いている。この不審者を外に出すわけにはいかないだろう。
「げっふげふげふ!」
極めつけにこの濁りきった咳だ。心配の領域を飛び越えて朔一の中には苛立ちが芽生え始めていた。
「チャンポン、どこ行くつもりだ? 確実にお巡りさんに捕まるぞ」
「失敬だな……! 鍵を探しに行くんだよ、放っておいてくれ」
「却下」
このままここを通した場合、長く見積もっても三十分経たずして交番か病院に呼び出しをくらうに決まっている。宇宙人も風邪菌にはかかるらしいなどと頭の隅の方で感心しながら、朔一は無情にチャンの体を押し返した。
「離してくれ! 僕は行かなければならないんだ!」
「……チャンポン、俺をわけのわからない三文芝居に巻き込まないでくれ」
わけがわからないのは日常だけで十分だ、というのは胸中に留めておく。
「明日、合鍵作ればいいだろ」
「駄目だ遅いっ。こうしてのんびりしてる間もどこかに流されていってるかもしれないじゃないか。あれには家族からもらったお守りがついてるんだよ!」
マフラー代わりのタオルに邪魔されてチャンの熱弁の大半はこもり声となった。それでも間近にいれば十分聞こえる。朔一の額についに青筋が浮き出た。
「だから! そういうことは早く言えよ!」
朔一は地団駄を踏みながら自室に戻った。数秒も経たない内に再び廊下に出てくるが、そのときには手には懐中電灯、上着はオフホワイトのレインジャケットという出で立ちだった。機敏な行動とは裏腹にご機嫌はすっかり斜めだ。騒いだせいで階段の上段からイスズがひょっこり顔を出す。
「朔どうしたの? て、わっ! チャンポン何その恰好」
「朔一くん……」
人型にも関わらず悲鳴を上げられているチャンだったが今の彼には大した問題でもないようだった。全身で不審者をアピールしたまま廊下の真ん中に呆然と突っ立っている。
「どういうやつ! 特徴は? 落としたのはどの辺だよ」
「探してくれるのか」
唯一チャンの名残を保っていた黒縁眼鏡が涙で真っ白に曇ってしまった。状況が飲み込めずイスズは階段でひたすら首を傾げている。
 チャンは震える声を振り絞った。
「学業成就と、交通安全と、家内安全がひとつになったナイスなタイプだ。手のひらくらいの大きさで色は深緑」
(絶対ご利益ないよな……それ)
神のご利益にはあやかれないかもしれないが、チャンの家族の念みたいなものは入っているはずだ。比較的大きく稀にみる三位一体守りなら案外簡単に見つかるかもしれない。朔一は頷いてすぐさまスニーカーの紐を結び始めた。
「朔一くん!」
「チャンポンは部屋で待機! 外に出てきたらそのまま追い出すからな」
チャンは垂れ始めた鼻水を巻き付けたタオルの下で思い切りすすると力強く頷いた。颯爽と飛び出す朔一に続いてイスズが、ペンライト片手に黄色いレインコートを羽織って出てくる。
「二人で探した方がきっと早いよ。チャンポンの大事なものでしょ」
「サンキュー、助かる」
朔一が自分のことのように礼を言うのが可笑しくてイスズは思わず含み笑いをこぼした。当の朔一はそれに構っている余裕がない。本格的に夜の帳が下りる前に何とか見つけだしたいところだ。

チャンは駅前の塾で講師のアルバイトをしている。そこからはいつも真っ直ぐに帰ってくるから帰宅ルートは明瞭だ。どこかの誰かのようにふらふら雑草地帯に分け入ったりしないあたりは大変助かる。
「あーもう世話が焼ける~」
電柱柱の陰をひとつひとつ照らしていくだけでも結構時間がかかるものだ。小降りになったとはいえ雨は依然として道路を濡らし、小さなものを流し出していく。
「手のひらサイズって結構でかいぞ。そんなもん落とすってどういう状況だよ」
「鞄から別のものを取りだしたときに一緒に落ちちゃったとか」
独り言のつもりだったが派手に呟いたせいかイスズが適当な応答をくれた。案外良い線かもしれない。
「例えば?」
「財布とか」
「あるなあ、それ。他は?」
「なんだろ。あ、ケイタイとか」
「あるな! それ」
言われてすぐ朔一が携帯電話を耳に当てた。勿論電話をかけた先はチャンだ。
「はい……」
瀕死の声で応答、それでも二コール目で電話に出たということは連絡を心待ちにしていた表れだろう。
「チャン、帰ってくる途中で電話とかしなかったか。メールとか、何でもいいけど」
名乗りもせずに不躾に質問を並べた。というのも朔一の携帯電話は防水ではない、通話時間はできるだけ短縮したかった。
「でんわ……。あ、したよ。塾からかかってきて留守電になる直前だったから慌ててとって」
「それどのあたり?」
「駅出て本屋とコンビニを通り過ぎた先に団地があるだろ、だいたいあの――」
朔一は必要な情報を得るとすぐさま通話をシャットアウトした。病人にはむごい仕打ちだが致し方ない。イスズは一部始終を半眼で見守っていたが朔一の合図があると目的の場所へ走った。大雑把だった捜索が、コンビニの灯りが見えてくる頃には再び入念になる。
「側溝に落ちたりはしてないよな……」
「落ちてないことにしよう」
ありがちな悲劇をつい口にしたがイスズがやたら断定的にその可能性を放り投げる。実は朔一の脳裡には他にも、既に誰かに拾われただとか犬がくわえて持っていっただとかのネガティブ要素が渦巻いていたのだがそれらはイスズに倣って全てないものとすることにした。彼女にばれないようにレインジャケットのフードの中で少しだけ笑いをこぼす。
 しかしありがちな悲劇は、実にタイミング良く別の角度からやってきた。イスズのポジティブ思考も朔一の根性も、彼らの登場によりそれはもう見事に木っ端微塵となる。
「何やってんだ朔、とイスズ先生?」
これこそ今すぐなかっことにできないものかと瞬時に脳裡をよぎったが後の祭りだ。雨音に混ざって聞こえた哲の声にちらりと視線を傾ける。足が四本、視界に映った。
(最悪だ……)
哲が地球人であることは保証できるから、残りの二本の足は別の人間のものだ。白いスニーカーに黒のハイソックス、少し短くした濃紺のプリーツスカートはやはり南鷹高校の制服で、それを着ているということは九十九パーセント女子生徒だ。一パーセントはいろんな可能性のため残しておくこととする。しかしその一パーセントは朔一がすがった数字に過ぎず、本当は哲の声が聞こえた時点で何となくこの光景を予想していた。哲は夕方五時を越えると必ず、遠藤摩耶を家まで送って帰る。
「知り合い?」
そう哲に問いかける遠藤摩耶と朔一は、同じ高校の同じ部活の同じクラスに所属しているから十中八句呆然と立ちつくすイスズに向けられた言葉であろう。
「妹のお絵かき教室の先生、こいつは朔一」
「それは知ってるっ」
前にも聞いた決まり文句のようなイスズの紹介、その後にふざけて付け足された朔一の紹介を受けて摩耶が顔を背けて笑った。朔一は背後にイスズの気配を感じながら振り返ることができずにいる。
「なんか変なところに遭遇するよな? 誰か家出でもしたのか」
懐中電灯にレインジャケットという最強装備で浮かない顔を晒していれば確かに傍目には家出人捜索隊だ。浮かない顔は哲と摩耶のコンビが原因でもあったが勿論口には出さなかった。
「お守りが家出しちゃったんだよ」
「はあ?」
「俺のじゃないんだけど、家族からもらったお守り、この辺で落としたっていうから探してんの。帰りがてら見なかったか? 手のひらサイズの一度で三度美味しいナイスなお守り」
「いや、そんな妙なのは落ちてなかったけど……大事なものじゃんか。俺も手伝うよ、何色?」
「……深緑」
手伝うと言ったのは哲だが、当然のように摩耶も頷いている。友人たちの優しさは心底有り難かったが今この場では素直に喜べる状況にない。朔一はようやく少しだけイスズの方に振り返った。どう説明しようか悩んでいたがその必要はなさそうだ、イスズは全て悟ったように朔一の友人たち向けて笑顔を作っていた。
 朔一はこの瞬間にやり場のない後悔の念にかられた。イスズの笑顔は、作られていた。成田荘での彼女の屈託のない笑顔を見慣れていた朔一にとって、その笑顔はイスズの切なさの象徴のように映った。イスズは哲と摩耶にお辞儀をすると黙々と捜索にかかる。その後ろ姿にかける言葉も見つけられず、朔一も黙って道路に視線を走らせるしかなかった。
「落としてそんなに時間は経ってないんだろー?」
「二時間は経ってないはずだけどな」
 気持ちを切り替える。今は何よりチャンのお守りを見つけることが先決だ。朔一自身が上の空では、知り合いのものでもない遺失物を真剣に探す哲と摩耶に失礼だ。各々が暗がりの道路へ、電柱の陰へ、駐車された車の下へ目を凝らす。
「手のひらサイズって結構大きくない? あったら分かると思……ああ!!」
摩耶が、先刻朔一が言ったのと同じ疑問を口にしていた途中で奇声をあげた。彼女が目を凝らしている先はありがちな悲劇の代表格、側溝の下である。ありがちなことはやはりありがちでしかないのだ。
「これ、だよね? 明らかに」
「間違いないなぁ」
朔一が懐中電灯で改めて照らし出すと、深緑色の物体が側溝の上に張ってある鉄網に頼りなくぶらさがっているのが見える。雨に濡れて緑色は更に深く濃くなっていた。なるほどその大きさ故、下まで落ちずに済んだらしいがどちらにしろ鉄網を外さなければ取り出せないのだから無駄な悪あがきとしか言いようがなかった。
「運があるやらないのやら」
レインジャケットの袖を下に着ているジャージごとまくり上げる。哲も同じように腕まくりをして特に示し合わせたわけでもないが二人で鉄網を持ち上げた。救助された深緑色のお守りには大々的に「学業成就・交通安全・家内安全」と刺繍されてある。どうやら手作りのようだった。哲がお守りを目にするなり笑いを吹き出す。
「なんだこの欲張り守りっ。すげぇよこれ作った人、確かにこれ一個で三度美味しいな」
「効果も三分の一だと俺は思うけどね」
"家内安全"ひとつとってもかなり効力は疑わしいものだ、それともこれのおかげで成田荘の騒動があの程度で済んでいるということなのだろうか。何にせよ今回のミッションは無事終了、である。
「悪かったな変なことにつき合わせて。でも助かったよ」
「何のこれしきっ。朔こそ世のため人のためもいいけどそろそろ自分のために動けよ?」
「そこが朔のいいところなんでしょ」
顔も知らない友人の知人のために、雨に濡れて探し物をしてくれた彼らにそっくりそのまま返してやりたかったが、誰かのためにもうひとつ何かできるとしたら残念ながらそれは、一秒でも早くこの場を終結させることに相違ない。
「風邪引くなよー」
「朔とイスズ先生もなー」
 雨が夕方よりもやや激しくなった。黙ったままのイスズを呼んでみたが、彼女は返事をしない。雨音は二人の声量よりも大きく、その雫がアスファルトに叩きつけられては弾けてより一層重厚な音階を奏でていた。
「帰ろっか」
イスズがそれだけを声を大にして言った。
 玄関の引き戸を引くなりちゃんちゃんこ姿のチャンが廊下を這い蹲って出迎えてきた。ちょっとしたホラーのようでもありちょっとしたコントのようでもある。
「どうだった!?」
「ほら、これだろ?」
チャンのすがる瞳の前に印籠のようにかざしてみせると、眼鏡のフレームに溜まっていた涙のダムがまたしても決壊。チャンはようやくほっとしたのか泣きながらむせかえった。
「朔一くん、イスズ……! このご恩は一生忘れないよ!」
「是非そうしてくれ。もう疲れた。もう寝る」
「おやすみなさいませ!」
涙と鼻水で顔面を真っ赤にしてチャンが敬礼する。朔一は気持ちのいい疲労感を連れて101のドアを引いた。ひとつ気がかりだったのはイスズが玄関を過ぎた後も笑顔を作り続けていたことだ。
 無言で階段を上る彼女の背中を、朔一もまた無言で見守るしかなかった。

      
Page Top