六畳半コスモ

其の五 魔法、とけまくる

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 八月後半になると残暑と称するどころか暑さはいよいよ本格化した。蝉は入れ替わり立ち替わり、静寂を作らないように全身全霊で鳴き続けている。朔一はうちわで扇ぐ体力も尽き、サウナのような101号室でただ無気力に寝転がっていた。それだけで汗が体中を這って気持ちが悪いことこの上ない。
 蝉の声に耳を澄ませていたところに、か細いノックが響く。往々にしてここの住人はドアをぶち破る勢いでノックをしてくる連中しかいないから不審に思い半分だけ身を起こしてドアを凝視した。確かにまた、遠慮がちなノックの音がする。首を傾げながらも朔一は返事をしてドアを開けた。
 開けた瞬間視界に飛び込んできたのはコウゾウの部屋の外壁だ。訝しげに辺りを見渡すが人の気配はない。連中の悪戯にしては地味すぎるし、幽霊が出るにしては時間帯が早すぎる。
「気のせいか……」
後ろ手に頭を掻きながらドアを閉めかけた矢先、
「朔っ。ここ、ここ」
どこからともなく、ノックと同じくか細い声が朔一の名を呼ぶ。何気なく視線を落とすと、足元でイスズ――陸上クラゲバージョン――が手を、いや触手を振っていた。幽霊には夏の夜だけ怯えていればいいのかもしれないが、宇宙人は春夏秋冬二十四時間問答無用で出没してくるから注意が必要だ。後一歩気付くのが遅れたらドアの間に挟んでぺちゃんこにするところだった、想像するだけで一気に血の気が引いた。
「どうした? 危ないぞ、その恰好で廊下うろうろすると」
寝起きのコウゾウにゴキブリと間違われて退治されかねない。ドアプレスより数倍恐ろしい事態だ。かがみ込む朔一を見上げて、イスズは両触手を振って降参だかやっほーだかのポーズをとった。そして実にあっさり爆弾発言をかます。
「ごめん朔、戻れない」
そりゃあそうだ、この姿で二階に上がるにはかなりの労力が必要になる。
「人型に戻れないの」
悠長に背中を掻いていた朔一の瞳孔が一瞬大きく見開く。のんびり稼働していた脳を無理矢理叩き起こして、とりあえず言っておくべき第一声を遅ればせながら準備した。
「ええ?」
 何がどうしてそうなったのか、さっぱり分からないまま朔一はイスズを肩に乗せ成田荘のドアを片っ端からノックしていった。幸か不幸かこんな日に限って全員部屋にいたりする。露骨に面倒くさそうな顔を晒す連中をひとまずコウゾウの部屋にかき集めた。一応断っておくが104号室は別段会議室というわけではない。
 四人分の湯呑みに淹れたての緑茶が注がれた。イスズの分は無論無い。
「戻れない、ねー。まあ原因は明白じゃないの、失恋ショックってやつでしょ。直に戻るわよ」
湯呑みを口に運んだ矢先にモエの身も蓋もない発言をくらって、朔一がむせた。この狭い下宿内では情報は瞬く間に広まる。あってないような壁の薄さも情報漏洩に一役買っているに違いなかった。
「やっぱりそうなのかなぁ。結構立ち直ってるつもりなんだけど……」
「一日二日で立ち直るなんて変よ。他に乗り換えたとかってなら話は別だけど」
湯呑みの中身にアルコール成分は入ってないはずだが、モエは一気にそれを飲み干すと満足そうに二杯目をつぎたした。イスズはかぶりを振っているつもりなのか小さな体全体を右へ左へ方向転換させていた。
「このまま人型に戻れない場合、私どうなっちゃうのかな」
小さな声が俯いたせいでより小さく聞こえる。
「地球では人型で生活する、っていうのは成田荘だけじゃなくてこの星で暮らすためのルールだ。このままの状態が続くなら最悪イスズの星に強制送還ってことになるんじゃないかな」
つい昨日涙まみれで原型帰宅したチャンが、さも正論を述べたように眼鏡の淵を指で押し上げる。間違ってはいないがモエとコウゾウに揃って頭をはたかれた。
「なんだよ、気休め言ったって仕方ないだろ。本当のことだ」
「そうだとしても言い方ってもんがあるでしょうが。ちょっとは自分に置き換えて考えなさいよ、バカ」
先刻まであけすけにものを言っていたモエの台詞とは思えないが、今はそちらの意見に賛成だ。
 どんどんへこんでいくイスズを何とか元気づけようと朔一は努めて明るく振る舞うことにした。
「なんとか戻る方法を見つけよう。モエさんの言うとおり一時的なものかもしれないし」
「そうなのかなぁ……自信ない」
「イスズ本人が諦めたら駄目だろ。て言っても俺にも責任があるか……」
イスズがまた否定のために体を左右に反転させる。
「朔は何も悪くないよ」
しかしもう少し注意していればあの最悪なばれ方だけは避けることができたかもしれない。結局朔一も自己嫌悪に陥ってイスズと共に項垂れた。考えれば考えるほど名案は手の届かない奥地へ逃げていく気がする。
 他の連中が考える素振りを見せつつ飽き始めているのは明白だった。
「恋をすると魔法は使えないってやつね~」
頬杖をついたモエが虚ろに宙を眺めながらぽつりと呟く。
「それは魔法使いの話だろう」
「よしてくれよ。どっちにしたって非科学的だ」
コウゾウが真面目に切り返すとチャンが呆れたように肩を竦めた。奴らの集中力がとっくの昔に切れていたことを察して朔一が頭を抱えた。
「非科学的なのはお前らだっ。もう人外は黙っててくれ、話がこじれる」
「うわ、何よ朔ちゃん! 傷つく~! 血相変えて相談しときながらこれ?」
「黙ればいいんだろ。つまり朔一くんひとりで解決するっていうんだな、この難問を!」
黙れと言えばやかましく騒ぎ出すのが彼らの特性だ、本意とは裏腹に外野を活気づけてしまったようで朔一は更に自責の念に駆られた。野次馬と化したモエとチャンを牽制する意味で深々と溜息をついた。
「原因があれだとするならさ、とりあえず気持ちだけでも伝えてみるってのはどうかな」
胡座をかいた膝の上に、イスズがちょこんと乗っかった。慣れてしまえばイスズの原型はこの中では一番愛嬌があるように思える。というのは朔一の本音だったが胸中だけで留めておいた。
「駄目だよ、朔。それこそ話がこじれちゃう」
イスズの表情までは目を凝らさないと読めないが、何となく苦笑したように見えた。
 おそらく話は既にこじれていたのだ。モエが朔一にイスズの恋をばらした時点でそうだったかもしれないし、朔一が哲の彼女の存在を黙っていたせいも無論ある。チャンが三位一体守りさえ紛失しなければあの場面に出くわすこともなかったかもしれない。兎にも角にも一番不安を抱えているのは間違いなくイスズ本人なのだ、それを思うと落ち込んでいる場合ではない気がして朔一は小さく気合いのかけ声をあげると勢い良く立ち上がった。膝に乗っていたイスズが転げ落ちる。
「とにかく! なんとかイスズが元に戻れる方法を考えよう。みんなも何か良い案があったらすぐ言ってよ」
「やれやれ、結局僕らにも頼るんじゃないか」
もしかするとチャンは恩を徒で返してくるタイプかもしれない、などと恨みがかった視線を送ってみたが昨夜のことなどどこ吹く風のチャンにとっては効果は皆無だった。これみよがしに重そうに腰をあげると先陣を切ってコウゾウの部屋を出る。
「すまんが、今のところは俺も何も浮かばん」
「考えてくれるだけ有り難いです」
「私は結局当たってくだけるしかないと思うけどねー」
モエが聞こえよがしに独りごつのを朔一が呆れ顔で諫めた。そのままさっさと出ていくのかと思いきやモエは朔一の側まで寄ると素早く耳打ちする。今度はイスズには聞こえないように細心の注意を払った。
「朔ちゃん、腕の見せ所よ。何とかなさい」
驚くほど低く冷静な声に朔一が面食らっていると、次の瞬間には目配せが飛んできた。モエさんには勝てないな――などと今更ながらに白旗をあげる朔一であった。

 さしあたり朔一が起こすべき行動は決まっていた。
 本来ならば殺風景だと形容すべきはずの病室は、完全に喜一の自室と化し雑多な印象しか受けない。意図的にずらされて、積み上げられた週刊誌と新聞紙の塔の横で朔一は暫くぼんやり窓を見ていた。窓の外の風景を眺めるわけでもなく、散歩する患者と看護士の会話に耳を傾けるわけでもなく、窓枠の端にこびりついた鳥の糞を注視していた。喜一はひたすらポータブルゲーム機の中で笑う美少女と会話を楽しんでいる。
「……じいちゃん」
返事はない。
「じいちゃん」
「なんじゃもー。今わし、デート中っ」
「地球人と異星人の恋愛って、ありだと思う?」
バーチャルデート中の喜一の今の脳内は、九割が恋愛で占められていると言っても過言ではない。朔一の突拍子もない質問に興味が湧いたらしく、画面の中の彼女に手を振っていた。
「グレートグローバルラブじゃな」
不敵な笑みを浮かべて身を乗り出す喜一。朔一にとっては名称なんてものはどうだっていい。
「言っとくけど俺の話じゃないぞ」
「だいたい分かるわい。何年成田荘で連中と暮らしたと思っとる」
 朔一の視界の端、窓の外で薄汚れた野良鳩が低空飛行していた。窓に留まったかと思った瞬間軽快な音と共に脱糞する。喜一も思わず窓へ目を向けた。出しすぎた修正液のように石灰質の糞がこびりついている。鳩にまで嘲られたようで朔一は思いきり肩を落とした。
「……朔の考えるレンアイがどういうものかにも因るが」
気を取り直そうと喜一が真面目ぶって咳払いをしてみせる。相変わらず視界周辺をうろうろ飛び回っている太った鳩を見ないように朔一は床に視線を落としていた。
「異なる者同士が互いを認め合い、分かり合い、受け入れ合うこと自体に"ありなし"を決めるのはナンセンスだと思うぞ。そんなもんは他人が決めんでもいいさ、本人同士に任しておけ」
「や、でも」
「馬に蹴られて死にたいなら話は別じゃ」
 邪魔をしたいわけではなく、寧ろイスズの気持ちは応援してやりたい。しかしそれが結果的に哲と摩耶の邪魔をしかねないことも確かだ。流されたにせよ「協力する」と言った手前、傍観者を装うような真似もしたくなかった。
 ひとりで思考の渦に落ちていく朔一を見かねて、喜一が思い詰めた表情を作った。 
「朔。何を隠そうお前のばあちゃんも異星人じゃった」
朔一は一瞬頭の中が空っぽになる感覚を覚えて目を点にしたが、すぐに椅子ごとのけぞった。勢い余って週刊誌ジェンガが崩壊する。
「嘘だろっ!」
「嘘じゃ」
間髪入れず、あっけらかんと返す喜一。体を反転させてベッドサイドに常備してあるポットから急須にお湯を注いだ。ジョボジョボと空しい音だけが響く。湯呑みに注がれた茶は喜一本人のものだけだった。
(じじい……)
倒した週刊誌を無言で積み直す。冷静になって思い直せば亡き祖母とこのふざけた爺さんが結婚したのは二人が十代の頃で、喜一がまだ宇宙に飛ぶ前のことだ。
「わしなら婆さんが宇宙人でも口説き倒して結婚しただろうという話じゃ」
「随分言葉足らずだと思うけどな……」
「なあ朔よ、本当にイスズは相手とイチャイチャアベックになれるように協力してくれと頼んできたのか」
「じいちゃん、今はアベックなんて言わないぞ」
この際イチャイチャの辺りは放っておくことにする。喜一は自分に酔い始めると全く他人の話を聞かない人種だからだ。
「協力するってことは普通そういうことだろ。他に何を協力するんだよ」
言いながら違和感を覚えた。イスズの名前は一度も出していない。自分が協力することになっているなんてことも喜一には言っていないはずだ。朔一は後ろ手に頭を掻いた。喜一には昔から何でもお見通しで、だからこそ当然のようにここに来た自分に気付く。
「イスズができていないことで、お前が協力してやれることがあるはずだ。後はくっつくもくっつかないも、ありもなしも本人たち次第。そうじゃろう?」
「……そうかも」
 なんだかんだでしっかり喜一に背中を押され、朔一は眼球を上方に向けてイメージした。今度は朔一が、彼女の背中を押す番だ。もしかしたらはじめからイスズが望んでいたことはそういうことだったのかもしれない。半ば洗脳された気分だが、わざわざ病院に出向いた収穫はあったように思えた。
「そんなことより朔一、わしの相談にも乗ってくれんか」
目的の大半を果たした朔一は既に帰り支度を始めていたが、神妙な面持ちの祖父を見て手を止めた。
「……なんかあったの」
「隣の病室のばあさん、絶対わしに気があるんじゃっ。毎日毎日検査の後わしんとこに来て、あーだこーだ話していくし……わしにはナースの真理子さんがおるし、カナちゃんだって毎日相手をしてやらんとラブメーターが下がるし……」
ベッドの縁に喜一の名前と「担当:伊沢真理子」と書かれたカードがぶらさがっていることは何度となく見舞いに来ているから知っている。血圧を測りに来る度に長時間喜一の無駄話につき合わされているかわいそうなナースだ。更に「カナちゃん」もここ最近で朔一はすっかり顔なじみになっていた。
 苦悩する老人の横に、朔一は「カナちゃん」が入っているポータブルゲーム機をねじ込んだ。
「じいちゃんにはカナちゃんが合ってると思うよ! じゃ!」
「朔、コラ! きちっと相談に乗らんか!」
 朔一は無駄に爽やかさを醸し出して逃げるように病室を跡にした。

 それから朔一はいつになくきびきびと段取りに取りかかった。連日101号室からひっきりなしに携帯の着信音がなるものだから、住人たちも野次馬根性丸出しでドアの前で耳を澄ませる。
「何やってるんだ朔一くんは……。携帯の音がうるさくて集中できないよ」
開口一番チャンが愚痴をこぼす。基本的にチャンは開口二番目も三番目も愚痴率が多い。101の薄い壁に片耳を押し当てていた。
「ついに動き出したみたいね。私たちにも内緒で何しでかすつもりかしら」
チャンの隣に並んでモエが、同じく壁に耳をぴったりくっつけている。
「だいたいイスズに関係したことなのか? 俺には友人と話しているようにしか思えんが」
コウゾウまでも同じ体勢で横一列に並ぶ。中の会話がだだ漏れということは、当然廊下側の三人の発言も朔一には丸聞こえなのだがそのあたりは全く気にならないらしい、冷たい壁にへばりついて探偵気分を味わっている。
 ドアの開く音が壁を伝って三人の鼓膜を揺るがした。
「何やってんだ」
朔一が形だけ訊いてみるものの、三人の体勢は盗み聞き真っ直中であることを説明しているようなものだ。廊下の真ん中で何の脈略もなく柔軟運動を始めた。
「たーまたま通りかかったのよー。 朔ちゃんこそお出かけ?」
「そう、たまたまだ。それと朔一くん、携帯はマナーモードにしてくれないか」
「俺もたまたまだ。壁が冷たくて気持ち良かったからな」
それぞれがそれぞれに好き勝手なことを言い出すので朔一は一切合切連中を無視して、スポーツバックを肩にかけた出で立ちで二階への階段を上った。
「ほら、ほらほら。イスズんとこ行くわよっ。」
モエの小声を合図にたまたま三人衆が階段の陰へこぞって移動、顔だけ出して二階に注目すると今まさに朔一がイスズの部屋をノックするところだった。
「イスズー。いる?」
中から返事があったのかもしれないが階下の三人にまでその声は届くはずもなかった。ドアを隔てただけの位置にいる朔一にすら、それが届いたかどうか疑わしい。しかしドアは朔一の呼びかけに応えるようにゆっくり開いた。数センチだけ。
「朔…っ、手伝って!」
「ちょっと離れて。……潰しそうだから」
体長五センチ足らずの今のイスズに片開き扉は重すぎる。朔一が慎重に扉を押すと、ドアを開けることに全体力を消費したイスズが転がっていた。
「な……なに。……どうしたの……」
息も絶え絶えに応対しようとするイスズを、朔一は饅頭でもつまむ気持ちで無造作に拾い上げるとそのまま自分の肩に乗せた。
「え! なになに! どうしたの!」
狼狽えるイスズの声、耳元にいるせいかいつものようにはっきりと聞こえた。
「ちょっと出かけよう。家の中ばっかりじゃ気が滅入るだろ?」
「外に? でもあんまりそういう気分じゃ……」
「そのサイズだから見せてやれるいいものがあるんだって。行こう、もう約束しちゃったからさ」
 イスズの部屋から出てきた朔一の目に、またもや雁首揃えた宇宙人たちが映る。肩を竦めるとイスズが転げ落ちる危険性があるため軽い嘆息だけで済ませておくことにした。
「ちょっと出掛けてくる。夕方には帰るから」
「あらー。いってらっしゃーい。頑張ってねー?」
モエの締まりのない笑顔を見ないように朔一はひたすら無心に靴紐を結ぶ。肩の上でイスズが朔一の代わりに手を振っていた。小さく「いってきまーす」などと律儀に声かけしている。成田荘の玄関を守るやかましい引き戸が今日はより一層やかましく聞こえ、朔一に渇を入れているようだった。
「どこに行くの?」
当然の質問が耳元で響く。
「着いてからのお楽しみってことで」
古き良きアベックの会話を交わしながら朔一は迷う素振りもなく足を進める。
 道路の先が逃げ水でゆらゆらと揺れていた。イスズは朔一の少し伸び始めた襟足に隠れるように身を潜めた。一歩一歩進むたびに一定のリズムで揺れる肩に心地よさを覚え、猛暑の中にも関わらず居眠りに突中しようか否かという境でイスズは一気に現実側に引っ張られた。
「お、きたきた。おーい、朔来たぞー!」
すぐ側で聞こえる哲の声に夢でも見ているのかと咄嗟に辺りを見渡すが、汗をかいた朔一のうなじが紛れもなく現実だと教えてくれる。
「朔が来るって言ったら監督はりきって紅白戦に組み込んでたぞ」
「は? 行くとはいったけどやるとはいってないっ」
朔一の露骨な拒否反応を受けてキャッチャーマスクの奥で哲が笑った。
 イスズがうたた寝をしている間に、朔一は南鷹高校の門をくぐりグラウンドの端まで辿り着いていた。野球部の面々がフリーバッティングで汗を流している。そのほとんどが後輩だ、推薦での進学がほぼ決定している哲を除けば共に甲子園予選二回戦突破を目指した仲間たちは朔一と同様今夏で引退し、今頃は机にへばりついている連中ばかりだ。常に汚れたユニフォームも、ジャストミートした際の気持ちのいい金属音も、当たり前のような汗の臭いも、感覚の全てが少しだけ懐かしい。
「朔、なんでここ……?」
「じっとしてたってしょうがないだろ? いろんなチャンスは生かしていこうと思って。後は俺の気分転換」
不安そうに声を顰めるイスズに、前を向いたまま朔一が応えた。傍目にはやけにすがすがしい独り言にしか見えない、案の定眼前の哲は小首を傾げていた。
「ああ、気分転換、だよな? やるか」
「いや! まずは見学!」
「なんだそりゃ。まあいいや、いつでも出られるように体あっためとけよ」
有無を言わせない朔一の決意の表情に呆れ返って、哲はさっさと見切りを付けるとキャッチャーミットの塩梅を確かめながら定位置に戻った。
 マウンドの司令塔である哲は後輩たちからの信頼も厚い。連日のように顔を出しても現役ナインたちに煙たがられないのが証拠だ。ちなみに朔一はどうかというと、
「朔! 何ふんぞり返ってんだ! さっさと着替えて守備に就け、わざわざショート空けてやってんだぞ!」
まず監督から愛に溢れた一喝、
「成田さんわざわざ顔出しといて何やってんすか、冷やかし厳禁っすよー」
後輩からの親しみある呼びかけ、そして間髪入れずの失笑。
「朔、人気者だね」
「……そりゃどうもありがとう」
朔一は腕組みの状態を保ったまま、グラウンドの隅に点在する観覧用ベンチに文字通りふんぞり返って腰掛けてた。手持ちぶさただから肩に掛けてきたに過ぎない部活用スポーツバッグを自分の隣に置くと、イスズがその上にのんびり移動を開始した。
「哲くんのユニフォーム姿なんて初めて見たよ」
朔一としては、イスズが哲のことを「君づけ」で呼ぶことを初めて知ったところだ。
「ちょっとかっこいいだろ、ああしてると」
「うん。いつもの、お兄ちゃんしてる哲くんとはまた違うんだなあって思う」
 二人の視線の先でピッチャーが第一球を投げようとしていた。朔一は来期からエース番号を背負う後輩のピッチングを、イスズは球の行方はそっちのけで哲のサインや見えるはずのないマスクの奥を見つめていた。ミットの中に球が収まる何かが破裂したような音と、バッターが思いきり空振りした風切り音が同時に響き渡った。朔一はこれらの音が好きだった。ベンチの周辺は日陰を作ってくれるような物は何一つ無く、黙って座っているだけで不快な汗をかく罰ゲームのようなスポットだったが、グラウンドに響く音はそれだけで爽快な気分をくれる。灼熱地獄の中で朔一はまったり温泉にでも浸かっているようにご満悦だった。
 イスズがいつしかマウンドではなく、そんな朔一の横顔を笑って見ていることにも気付かないくらいに。
 一回裏が終わって守備陣が小走りに戻ってくる中、哲がキャッチャーミットでこちらに手招きした。朔一は両手でバツ印をかたどって全面拒否する。
「朔もやればいいのに」
「隠居した奴が出しゃばっちゃ後輩たちがやりづらいでしょ」
「悪かったな、出しゃばってて!」
新たな反応と共にいきなり目の前に日陰ができた。しびれを切らした哲が強行の出迎えにきたようだ、朔一は焦ってベンチからずり落ちかけながらもスポーツバッグの上でまどろんでいたイスズに目をやった。彼女はいち早くバッグの裏に隠れていた。
「黄昏てないで入れよ。何しにきたんだほんとに……」
「え? 哲の勇士を見に……?」
「気持ち悪いこと言うなっ! 監督ー! 成田、次代打入りまーっす!」
「うわ、勝手なことすんなよお前」
哲の一声で両サイドのベンチから拍手喝采、歓声が湧く。哲がにやけながら朔一の肩を軽く叩いた。
「ということで着替えて来いよ。のんびりでいいよ、俺たちの攻撃は長いから」
「言うじゃねえか……っ。ギッタギタに叩きのめしてやるよ」
 結局朔一はイスズの隠れ蓑を持ってクラブルームに向かった。着替えている間、と言ってもものの三分程度だが、とにかくその間はイスズは丸腰でベンチの上を心許なくうろうろしていた。
 暫くしてベンチの上に再びバッグが置かれる。見上げた先に、高校球児の朔一がいた。
「おー」
イスズの妙に感心した反応に、朔一は照れたのかキャップを目深に被りなおした。
「イスズ、あのさ」
 よくよく考えてみればこれは朔一が考えていたチャンスのひとつであった。
「俺がイスズに協力できる唯一のことは、イスズの気持ちを何とかあいつに伝える方法を考えることだと思ったんだ。そのためのチャンスを探しに今日はここに来た」
「朔……」
「約束したもんな?」
 キャップの下で俄に汗が滲んでいた。それさえも気に留めず朔一はまた鍔を握って今度は前が見えるように、いつも調整していた位置で止めた。
「遅いぞー朔ー」
「表の攻撃は長いんじゃなかったのかよ、口だけ番長だなっ」
表、哲側の打撃陣も早々に倒れたが、朔一が加わった方も見事な凡退をひっきりなしに披露してくれる。伊達にクラブルームに掲げている目標が"目指せ三回戦!!"でないことが窺えるチームだ。バッドを渡されたときには二人目の打者が、美しい外野フライを放ったところだった。
「成田先輩くるぞー」
「成田さーん、三振以外なら何でもいいですよー!」
「お前ら俺を何だと……」
背中にゆるい声援を受けながらバッターボックスに向かう。次期エースの福田は南鷹野球部には幾分勿体ないくらいの投手だし、彼から一本打てば結構な英雄だ。しかし今このときにおいては、朔一にとってピッチャーが対戦相手ではなかった。朔一の尻側で小癪にサインを繰り出すキャッチャー、哲である。いつになく燃え上がる朔一の背中(というより尻)を見ながら哲はわけのわからない暑苦しさに辟易していた。
 ピッチャー福田の膝が上がる。そのまま勢いに任せてマウンドの土を踏みしめたかと思うと、次の瞬間にはキャッチャーミットに吸い込まれていった。背後でそれはそれは気持ちのいいストライクの声があがる。
「はやっ!」
冗談抜きで三振かもしれない。朔一は往生際悪く待ったなんかをかけてもたもたと立ち位置を確認しはじめた。
「おーい、代打。バットはせめて振ってくれよ?」
マスクのせいでくぐもった声の哲、彼はこういう挑発をしてくるいやらしいタイプの捕手だ。
 朔一はとりあえず全てのチャンスを有効活用することにした。場違いだとは分かっていたが。
「哲、話がある」
「は? 今か?」
言った瞬間に球が放られた。朔一が振ったバットの先端をかすめて三塁側へファールになった。哲が立ち上がって頭を掻きながら新しい球をマウンドに向けて投げた。
「何なんだよ、いきなり。告白はバッターボックスではご遠慮くださいっ」
「そこを何とか」
「はあ? マジで告白か!」
哲が動揺して次のサインを出さないものだから、福田が構えるのをやめた。慌てて膝の間で次の指示を送る。
「ではないけど、今お前に憧れてるコがいるんだけどさ。会ってやる気、ないか」
哲はすぐには応答しなかった。速めの球が、弧を描いていると全力で主張すれば何とか、という程度に曲がってストライクゾーンに向かってくる。調子は崩されたがまたもや三塁側にファールという結果に留めることができた。
 朔一の思わぬ健闘ぶりに後輩達が沸き上がる。本人してみればまだ本題に入っていないのだからここで三振をとられるわけにはいかないという瀬戸際根性であった。
「おい哲! あのなんちゃってカーブやめさせろよ! 調子狂う!」
「バカめ、それが狙いだ」
「二人とも聞こえてますよ! 失礼じゃないすか、ちゃんと曲がってますよ!」
投手も打者も捕手さえも三つ巴でふざけているのかと思えば、ひとり孤独な勝負をしているエース福田だけは真面目だったらしい。ただしその主張には哲も頷かないが。
 哲は早急に次のサインを送ると仕切直しとばかりに短く嘆息した。
「確認だけどそれ、女?」
悲しい質問だ。朔一は敢えて背中を向けたまま頷くだけにしておいた。
「子どもじゃないだろうな」
悲しい質問第二段。今度は朔一も少しだけ振り向いて二度頷いた。哲と目が合う。全く集中する気配のない二人に福田は呆れて肩を竦めていた。
「そいつは嬉しいね。かわいい?」
普通はしなくても良さそうな確認を経てようやくまともな質問になった。「地球人か?」という質問が来たらこのやりとりは即刻アウトになるところだった、胸を撫で下ろしながら答えようとする朔一を哲は押しとどめた。
「でも俺にはほら……いるしね。やきもち妬かせちゃかわいそうでしょ」
 哲の視線の先、ダグアウトの前でジャージ姿の遠藤摩耶が空のペットボトルを振り回して何か叫んでいた。マネージャーの摩耶も今夏引退、のはずだが相方がいつまでも部活に顔を出すものだからつき合って残っているのだろう。
「二人とも! ふざけてないで真面目にやりなさーい! 哲っ、ぼんやりしてたら朔に打たれるよ!」
 摩耶の説教を受けて哲は逆に声をあげて笑った。確かに不真面目すぎる、今更改心して朔一はさっさと自分だけ向き直ると哲を無視して福田との対戦に集中することにした。長いこと脇役扱いされていたゲームの主役も、朔一が無駄話をやめたのを見計らい気を取り直して腕を振った。福田が速球を使っても勝てないのは、おそらく決め球がこの"なんちゃってカーブ"のせいだろうなどと朔一は胸中で悠長に分析なんかをしていた。
 球は勢い良く、吸い込まれるようにバットの芯にぶち当たった。バットから指先へ、そして体の芯まで伝わる確かな手ごたえに朔一の心臓が一度だけ大きく、派手に脈打つ。勢い任せにありったけの力を込めて振りぬくと、球は勝手にバックホームまで飛んでいってくれた。
 この上なく心地よいホームランの金属音がグラウンド全体にこだました。朔一はフルスイングの体勢のまま球の行方を目で追い、凝り固まっている。
「たーまやー……」
自分の行動が信じられず、とりあえず眩しい空の彼方を見上げてみた。彼がホームランと称される大打撃を打ちはなったのは野球部生活を振り替えっても数える程度だ。補足するまでもないと思うが元々朔一はホームランバッターではないからしてホームランとは無縁であり、あってないようなものであり、夢か幻なのである。従ってその後すべき行動がいまいちピンと来ない。
 哲の方に確認がてら振り返った。摩耶が言ったとおりのあり得ない展開になったことが面白くないらしい、いつのまにやらヤンキー座りでマスクをあげていた。朔一が不敵に笑う。
「なんか今日聞いといて良かったよ、安心した。かっこいいな、お前」
「いや、お前がな」
誉めたいわけではないが無理矢理連れてきた代打に第一号を打ち放たれては、皮肉のひとつも吐けない。
「朔一! ぼやぼやしてねぇできちっと走れ!」
「成田さんやるー!」
「成田選手、第一号バックホーム~」
監督の怒声と後輩たちの冷やかしが重なり合って耳元をよぎる。大役を成し遂げた達成感と余韻に浸り西日の中微笑し合う若者たち、美しい友情、などを悉く引きちぎって監督が猛スピードで駆けてきた。駆けてきたと思ったら朔一の後頭部をスコアボードで思い切り殴る。
「てっ!」
「暑苦しいから青春くさいことはクーラーの効いた部屋でやれ! 真面目に走らねーとスリーベースにすんぞ!」
打ったら走るが野球のルールだ、そんなことも忘れてニヒルに夕陽を浴びていた朔一。結局余韻が冷めた後にだらだらと一周する羽目となる。
 結局その後朔一は最後まで紅白戦に参加、守ったりに打ったり大部分三振したりという内容だったが久しぶりに野球で汗を流したことが随分気分転換になったらしい。帰り支度をする頃には爽やかさが三割り増しになっていた(朔一調べ)。
 ほぼ放置していたベンチに駆け寄る。イスズの姿が見当たらないことに青ざめたが、残していったタオルがうごめいているのを見つけて安堵しながらそれをめくった。
「悪い。暑かったろ?」
「ううん、それ朔のでしょ。ごめん渡そうと思って引っぱり出したんだけど」
逆にタオルの反撃にあったらしい。つくづくこの姿のイスズはやることなすことうまくいかず面倒そうだ。
「哲くんと何か話したの?」
タオルを持ち上げるとイスズがそれにしがみついてきた。そのまま労せずして朔一の肩に収まろうという寸法らしい、案外横着な工夫は得意なようだ。
「ああ、今度ちゃんと話すよ。とりあえず帰って昼寝っ」
「そ? お疲れさまだったもんね。それじゃあ頑張って帰ろっか」
 イスズはその後一足先に朔一の肩で昼寝をしてくれた。頑張って帰っているのは朔一ただ一人のようだったが炎天下の中強制的に引きずり回して、挙げ句の果てに放置したのだから叩き起こすのは不憫だ。朔一の首から下げられたタオルにくるまって、イスズはひたすら小さな寝息をたてていた。

      
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