六畳半コスモ

其の六 世界と関わる

←Back   Index   Next→
 夏休みと名の付く長い休暇が終わりを告げた。蝉は若干遠慮がちになってはきたが、空気を読まない数匹が未だに全身全霊で鳴くせいで全く秋の気配はない。朔一にとっては思い返せば高校最後の夏だったわけだが、そんなものは甲子園予選に敗退した時点でとっくの昔に終わっていたし今更ともいうべき区切りだった。
 休み前と変わったことといえば、家から学校までの距離が極端に近くなったこと、それから登校時に部活用スポーツバッグを持たなくなったこと、それらは小さな変化だったが朔一が空虚さを覚えるには十分だった。しかしセンチメンタルに浸っている暇はこの家には訪れない。
 土曜日の課外授業を終えた朔一は、空腹を抱えて成田荘の門の前に立った。考え事をしながら下校すると往々にしてまとまらない内に家についてしまう。近距離通学の短所だ。玄関の引き戸に手を伸ばしたとき、耳元で滝の音がすることに気付いた。庭の方へ回り込むと、それが滝ではなく外に設置してある共用水道からの放水音であることが分かる。水撒き時以外は滅多に使わない水道だ。周囲に人の気配はない。
「誰だもう……出しっぱなし」
忘れてどこかへ行くにしてはとんでもない水量だ。訝しげに思いながら蛇口に手を伸ばした
刹那、
「あ、おかえりー。朔」
「のわぁぁぁ!」
蛇口の真下にイスズの姿を確認。分かっていても心臓に悪い、派手に叫んで後ずさった。
(行水!?)
かとも思ったが、傍目にはもはや修行の域だ。滝のような水にのほほんと打たれるイスズを救出すべくとにかく蛇口を閉めた。それだけの動作しかしていないのに動悸息切れがして、朔一は芝生の上に座り込むとぐったりした。
「何してんの」
「何をって言われると、洗ってました。今度のギャラリーに飾る画を描いてたの、意外とこっちの姿でも描けるもんだよ」
「足で……」
「これは手っ」
イスズにはこだわりがあるらしかったが朔一の目にはどこからどこまでが手だの足だの判断がつくはずもない。更に言えばどちらでもいい。
「なんだっていいけどワイルドすぎるだろ。もうちょっと心臓に優しい方法にしてくれよ」
ずぶ濡れのイスズをつまみ上げてそのまま玄関へ回る。
「えー。まだ絵の具が落ちてないよ」
「だからもうちょっとマシな洗い方があるって」
朔一の右手の中でじたばたするイスズを落とさないように慎重に靴を脱いで、キッチンに向かう。みそ汁用のお椀にクラゲ体を乗せると、上からぬるま湯を注いだ。
「おー! 朔、頭いい~」
どこかの妖怪宅の親父殿からヒントを得てのお椀風呂だ。ご機嫌に狭いお椀の中をくるくる回るイスズ、そのまま放置しようとしたところを呼び止められた。
「朔一さん、すみませんがこのまま二階へあげてもらえんでしょうか……」
「あ、ごめん。そうだな」
不憫だが思わず笑いが出る。形のはっきりしたクラゲのお吸い物を抱えて今度は二階へ慎重に移動した。
「面目ねぇことです」
江戸っ子口調に特に意味はないのだろうが、お椀風呂に浮かぶ笑える光景からは残念ながらこれっぽっちも面目無さが感じられない。笑いをこらえながら一応イスズの部屋のドアをノックした。
「このまま入っていいの?」
「うん。あ、そうだ! ついでに画も見てくれない? 朔の感想が聞きたいっ」
「おお。俺が見ていいの」
思っても見ない展開に少しだけ心が高揚する。ドアの向こうに広がっていたのはめくるめく女子の世界! では当然なく、朔一の部屋とほぼ同じ構造の六畳半一間だ。もっと言えばコウゾウの部屋と全く同じで、違うのは気持ちだけ高い窓の外の景色くらいだった。
 イスズの部屋には面白いくらい物がない。少し古いイーゼルが部屋の隅に立てかけてあって、床にはそのままカンバスがいくつか広げられている。カンバスの中の世界に目を奪われて、朔一は無意識に感嘆を漏らしていた。
「これ……マジに足で描いたの」
「うん、手でね?」
イスズの訂正も半ば流して、残り少ない畳のスペースに腰を下ろす。
 見たことある風景のようで、見たこともないくらい美しい世界が描かれていた。見たことあるような気がしたのは、それがおそらく近所の川土手で朔一の通学路でもありイスズの通勤路でもある場所だからだ。しかしやはりそれは朔一にとって見たことのない風景だった。鮮やかな夕焼けに照らし出されたその世界は、朔一の目では見ることができない。おそらくイスズ以外の誰もあの川土手でその世界を感じることができる者はいないだろう。イスズの目に映る世界がこうまで美しいのだということを、朔一は当然初めて知った。
「どうかな。ちょっと手近で済ませちゃったんだけど」
「こんな夕焼けの日、あったっけ……」
「毎日こんなじゃない? あそこ」
随分あっけらかんと答えてくれるイスズ、愚問を投げかけたようで朔一は苦笑を漏らした。この画の感想として相応しいような言葉を、生憎朔一は持ち合わせていない。
「俺素人だから何て言って誉めればいいのか分からないけど。……凄すぎる」
「その率直な感想で十分ですとも。ありがと、んじゃやっぱりこれにしよ」
あっさり決定したかと思うとイスズがお椀から這い出す。ハンドタオルに適当にくるまって体を拭くと床に放置したままの携帯電話に歩み寄った。朔一が気付いてイスズに与える。
「ありがと」
折り畳み式のそれを渾身の力でこじあける。このあたりは明らかに面白いので朔一は敢えて傍観することにした。ようやく開いた携帯電話を前に一息つくと、眼前に並べられた0から9までのパネル――無論、朔一にとっては小さなプッシュボタンだ――をモグラ叩きよろしく叩きつけていく。一連の流れに朔一は顔を背けてこみあげる笑いを我慢することで精一杯だった。
「あれ?」
画面は無反応だ。もう一度全体重をかけてボタンを叩きつけたが結果は同じで、危機感を覚えたのか一心不乱に連打を始めた。
「たんまたんまっ。どこ、どこにかけたいの」
見かねた朔一がようやく手助けに入る。絶望するイスズからベビーピンクの携帯を取り上げた。
「が……画廊に……」
全体力を消耗し今にも力つきそうなか細い声を出すと、イスズは床に転がったまま無力な自分に愕然としていた。再起不能な彼女に代わって朔一が短縮ボタンを押す。携帯電話を渡すとイスズはマイク部分に飛び乗って相手が応答するのを待った。
「あ、もしもしイスズです。すみません、風邪を引いたみたいで」
というはじまりから、嘘八百を並べた果てに「画は代理が持っていきます」という流れになった。朔一が半眼のまま恨めしそうにイスズを見やる。いくつかのやりとりの後通話は終了したようで電話口から一定の電子音が鳴りはじめた。電源ボタンを全身全霊で弾くイスズ、もはや無駄な努力としかいいようがない。朔一が電話をとりあげて電源を押した。
「で、俺が届けるわけか……」
「不思議なことにそういう流れになっちゃった」
とぼけ通すつもりらしい。朔一はやれやれとばかりに肩を竦めてイスズの体をつまみあげると慣れた手つきで肩に乗せた。すっかり板に付いてきたこの体勢だが、今どき肩に生物を乗せて徘徊している若者はいない。ましてやそれは文鳥でもインコでも猿でもなく、宇宙人だ。
 イスズの指示通り丁寧に画を梱包する。宇宙人に操作される地球人の図のできあがりだったが朔一は文句を飲み込んで玄関を出た。 

「歩いて近いの?」
「十五分くらいかな」
 夕暮れが近い、肩乗りイスズ状態のいびつな影が後方に伸びた。互いにいろいろ好き勝手に思考をめぐらせていたせいかしばらく無言で歩いていたが、川土手にさしかかった辺りでイスズが唐突に口を開いた。
「朔、いろいろごめんね。迷惑ばっかり」
朔一は生返事でその場を濁した。眼前にイスズの画に描かれた風景が広がっているはずだったが、やはり同じように色鮮やかに、美しくは見えない。朔一の目にはいつもの平凡な日没であった。強いて言うなら潰れた卵の黄身のようだった。
「もうそろそろ実家に帰ろうと思って」
「……実家って?」
「地球からは見えないところだよ」
イスズが小さく笑ったのが分かった。しかしそれが自嘲なのか苦笑なのか、朔一の位置からは特定できない。
「朔はさ、大学に行って何を勉強するの? キイチみたいに宇宙を飛ぶ?」
「飛ばないよっ。ああいうのはほんと一握りの人間ができることでさ、それがじいちゃんっていうのがどうにも不思議だけど」
「キイチは凄いよ」
「うん、俺もそう思う」
 浮気がばれて祖母に往復ビンタを食らっても、久しぶりのテレビ出演がぎっくり腰でキャンセルになり一日中号泣して家族を困らせても、入院するや否や看護士たちを片っ端からお茶に誘い病室にグラビア雑誌を積み上げようとも、祖父は朔一にとって永遠のヒーローだ。
 じいちゃんの目にはこの景色がどう映るだろう――ふと、朔一の脳裡に喜一の笑顔がよぎった。広い宇宙の中にぽつんと存在する地球、中でもやたらに小さい日本のどこにでもある川土手に毎日やってくる夕陽を、喜一の目を通して見たらどう見えるのか。少なくとも潰れた卵の黄身には見えないだろうなどとひとり考えて苦笑を漏らした。
「俺はさ、理科教師になりたいんだよ。ガッコの、先生」
「お、おお?」
予想外の答えにイスズは素直に驚いてくれた。
「じいちゃんの影響はもちろんでかくてさ、宇宙とか地球とか、そこに生きてるものとか自然とか、楽しいんだよな、考えると。楽しいし凄いしちょっと感動するんだ。たぶんそういう気持ちも、じいちゃんがお土産にくれたんだと思う。……だから俺もそういう気持ちを渡せる人間になりたいと思ったんだ」
 そういえば成田荘での生活も、喜一は"土産"だと言った。思い出してまたひとりで含み笑いをこぼす。
「なれるよ、朔なら」
耳元でイスズが囁いた。
「まあ、『なれないよ』とは言わないよなあ、この状況で……」
「もうっ。本当にそう思うのに! ……私ももうちょっと、たくさんの人にいろいろ伝えられたら良かったのになあ……」
 沈黙が少しの間続いた。その少しは、数秒のようにも思えたし数分だったような気もする。どちらにせよ次に朔一が口を開いたときには、卵の黄身は空の境で弾けて視界を鮮やかな緋色に染めていた。
「あのさイスズ。画を描いたら?」
彼女の画を見たときに見え隠れしていた、謎解きの糸口のようなものが朔一の思考の中ではっきりと形になった。
「今の、イスズの気持ちを伝えるような画。展覧会があるって言ったよな、たくさんの人に見てもらえるんだろ?」
「最後の記念にってこと……?」
「じゃなくてっ。伝えるんだよ、イスズの画で! 言いたくても言えなかったことがあるだろ? イスズの画には人の心を動かす力があるよ。俺もイスズの画に一目惚れしたし!」
朔一の熱弁に当のイスズはきょとんとしている。それが解決策だと疑わない彼の、自信にあふれた満面の笑みを見てイスズもつられて笑顔になった。
「やってみようかな」
「そうこなくちゃ」
朔一が満足そうに歯を見せて笑う。朔一の横顔の向こうで、きらきらしたものの詰め合わせが一気に爆発したように夕焼け空が輝いていた。

      
Page Top