六畳半コスモ

其の七 喜一、別れのとき

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 半袖でうろつく人間がいなくなったのを境に、蝉が合唱をやめた。ときに鳴り響いていた独唱主義の蝉も、鈴の音のような秋の虫たちの声を聴き慌てて退散したようだった。
朔一はここのところ学校から帰るとそのまま自室にこもる。夕食も夜中に思い出したようにひとりで食べることが増えた。彼の行動だけを追うと完全に引きこもり生活に陥った人間のようだが受験勉強も既に佳境だ、成田荘の住人たちもめずらしく彼に協力してひっそりと日々を過ごしていた。ゴキブリももう身を潜める季節である。従ってコウゾウが突拍子もなく原型に戻って大暴れすることもなく、モエの部屋から人力サイレンが鳴り響くこともない。朔一にとってはこの上ない集中の季節であり、ビバ・オータムである。
「ビバ、オータムだね」
それをそのまま口に出して廊下を闊歩するのはチャン。他の住人たちが静かなおかげで彼もまた、自身の勉強に集中ができている。気遣われているのは専ら朔一だったが細かいところは気にしないらしい。漁夫の利に機嫌を良くして鼻歌を歌いながら103の扉を開けた。
 朔一とチャンだけに留まらず、二階ではイスズが活発な引きこもり生活を送っている。彼女は食事時以外はほとんど部屋にこもって展覧会用の画を描いていた。原型のまま体全体を筆代わりに使用しているようで、いざ部屋から出てきたときには全身真っ黒であったり真っ白であったり、まだら模様であったりした。
 そうした穏やかで、少し緊張した空気の毎日が続いていた。この日もまた、同じように過ぎゆくはずだった。どこかの部屋で鳴り始めた携帯電話の着信音が、廊下といくつかのドアを挟んでチャンの部屋まで届く。味気ないながらも、それは平穏を切り裂くプレリュードだった。
「さ~く~い~ち~く~ん~」
どうせ101号室からだ、朔一はいつも気付いているくせに何コールか放置する。チャンが苛々し始めたところでようやく通話ボタンを押してくれたようでけたたましいコール音は鳴りやんだが今度は朔一の緊張感の無い声が廊下にこだまする。
「何でわざわざ廊下に出るんだ……っ」
「あーちょうど良かった。休憩したかったからさー」
チャンが噛み締めた疑問に上手い具合に答える形で、朔一は通話しながらキッチンに向かう。勿論朔一の会話の相手は電話の向こうの誰かのはずだが、チャンは予期せぬ回答に更に苛立ちを覚えて舌打ちまでこぼした。
「何? 今度は棊子麺でも喉に詰まらせた?」
朔一の笑い声に冷蔵庫を開ける音が重なる。キッチンでの音は面白いくらいチャンの部屋に響く、チャンが部屋を変えたい理由のひとつだ。
「何言ってんの。この前まで看護士片っ端から口説いてたよ」
(喜一の話か……?)
思いながらチャンはドアを開けていた。自分も喉を潤そうとキッチンの入口に立った瞬間、朔一と目が合う。彼は新品の牛乳の口に手をかけたまま、開けるわけでもなくぼんやり入口の方を眺めていた。半ば放心していたといってもいい。チャンと目が合っているようで、朔一はチャンの存在に気付いているかも疑わしかった。
「……冗談だろ」
チャンに言っているわけではない。それでも真顔の朔一がつぶやいた一言に、チャンは息を呑んだ。電話の相手ははひどく狼狽しているようで、「冗談なんかじゃない」とかん高く怒声をあげた。
「すぐ行く!」
朔一も負けじと怒鳴った。乱暴に携帯電話を折り畳んでズボンの後ろポケットに突っ込む。
「朔一くん……喜一、どうかしたのか」
朔一は答えず、入口を塞いでいたチャンの横をすり抜けた。困惑と焦燥で下がった眉じりを見て、チャンは答えをそれとなく察する。朔一は大して長くもない廊下を全力で走り抜けた。
「何よ、なになに? 朔ちゃんどうしたの」
二階からモエと、その肩に乗ったイスズが顔を出す。
「病院に行く! ごめん、後で連絡入れるから!」
説明をしている時間が惜しかった。そういうときに限ってうまく靴紐が結べず奥歯を噛み締める。朔一は一度も振り返らずに玄関の引き戸を開け放し、全速力で病院へ向かった。後に残された者はただ呆然と開いたままの玄関を見ている。
「チャンポン……まさか喜一……?」
みるみるうちに青ざめるモエの顔を横目に見て、チャンはすぐに視線を戻した。
「分からない。でもたぶん、そういうことなんだろうと思う」
「はあ? 何落ち着いてんのよ! 私たちも行くわよ!」
「落ち着くべきだよ、モエさん! 朔一くんの顔見なかったのか、僕らが今行ったって邪魔になるだろう?」
既に全開の引き戸を更にこじ開けようと手をかけるモエ、確かに少し落ち着いた方が良さそうだが本人は聞こえない振りで、いつもは履かないヒールの無いパンプスを引っぱり出した。厳密に言うと、それはイスズのパンプスであり他人のものなのだが。
「モエさんっ」
「何が邪魔よ。私たちだって喜一の顔見る権利くらいあるわ。お礼も愚痴もまだ山ほど残ってんだから」
「俺も行こう。モエ、とりあえず上着は着て行け」
どこからともなく(104号室からに間違いないが)コウゾウがモエのカーディガンを持って出てきた。秋になってもモエの薄着は相変わらずで、コウゾウが声をかけなければキャミソールに短パンのまま病院に駆けつけるつもりだっただろう。
「……そうなのかもな。僕もまだ、喜一には言いたいことが山ほどあるよ」
チャンがずれた眼鏡を押し上げる。コウゾウがいつもの調子で登場してくれたおかげで、実のところ一番取り乱していたかもしれない自分に気付くことができた。
「イスズはどうする?」
モエの肩に問いかけた。
「あれ、イスズは?」
然るべき場所に然るべきクラゲが見当たらない。チャンが眼鏡の中で目を点にした。モエも勢い余って振り落としたのかと、険しい顔つきで靴脱ぎ場に目を凝らした。ざっと見たところではイスズの姿はどこにもない。
 三人は目を合わせて暫く違いの顔を見合ったが、やがて同じ結論に達したようで自分たちの支度に専念することにした。

 日の当たる病室、カーテンも窓もいつも全開で鳩の糞が室内に落ちるからと朔一は訪れるたびにまず窓を閉めていた。それから机上に飾ってある花の水を換えようかと思いつついつもやらない。喜一の病室にはいつも入れ替わり立ち替わり人が訪れて、放っておいても日に何度か水換えがされるからだ。朔一は今日に限って、その花瓶の水を換えようと思い立った。何もせず、「集中治療室」と掲げられた部屋の前に居るのは苦痛でしかない。
「朔、どこに行くの」
「ちょっと……すぐ戻るよ」
憔悴しきった母親の顔をあまり見ないように少しだけ振り返った。しかし視界に飛び込んできたのは母の泣きはらした目ではなく、父の淡々とした表情と差し出された二通の封筒だった。
「……何、これ」
「じいさんからお前にだ」
「今読むものじゃないんだろ。いらないよ」
すぐに背中を向けようとしたが父親はそれを許してくれなかった。半分無理やり手渡された封筒、その両方に達筆で朔一の名が記されていた。成田荘の看板と同じ、勢いと繊細さを兼ね備えた喜一自慢の毛筆だ。朔一は数秒封筒の宛名をしげしげと眺めて、着ていたパーカーのポケットにそっとしまった。今この場で開ける気にはなれなかった。
 病院に着いてそう経っていないにも関わらず、体が疲弊して重かった。のろのろと喜一のいつもの病室に向かう。無論そこはもぬけの殻で喜一の私物だけが乱雑に残されていた。窓は誰かが閉めたのだろう、今日は開いていない。花瓶の花は朔一の気分のようにうなだれていた。
「朔……手紙、見ないの?」
「え?」
どこからともなく天の声――にしては聞き覚えがありすぎる。しかし姿が確認できず朔一は訝しげに病室を見渡した。勿論室内に潜んでいるはずはなく、声の主はパーカーのフードから這い上がるように朔一の肩によじのぼってきた。眼前二センチほどの位置に見慣れたクラゲの姿を捉えた瞬間声なき悲鳴を上げて口元をひきつらせる。
「イスズ……、居たの? 最初から」
「うん、いつものように肩に飛び乗ったんだけど朔が全力疾走するから転げてこの中入っちゃって」
この中、つまりはフードのことだ。彼女が潜んでいたことなど今の今まで全く気付かなかった朔一、よほど混乱していたのだろうと苦笑が漏れた。
「読まないの?」
「……じゃあ開けるか」
成田荘を出るときと何ら状況は変わっていないはずだが、不思議と今は気持ちを落ち着けることができる。ベッドサイドのパイプ椅子に座って朔一は一通目の封を切った。

 朔一へ
 これを読み始める前にひとつ、注意点がある。まさかとは思うが電気を消してひとりぼっち部屋の隅~の方を陣取って体育座りなんかで読んでいないであろうな。そういう辛気くさい空気はさておいて、カップラーメンでもすすりながら読んでもらえると有り難い。そういう内容だ。但しスープは飛ばすでない。

 そこまで黙読して朔一は思わず失笑を漏らした。実に喜一らしい書き出しである。肩の上で所在なさそうにしていたイスズにも見えるように、彼女を膝の上に乗せかえた。再び便箋に視線を落とす。

 まず成田荘のことについて。あれはお前に譲る。お前の判断で好きにして良い。しかしできることならあそこの住人たちにあまり悪いようにはしないでやってもらいたい。朔のことだからないとは思うが念のためだ。
 そうそう住人たちのことについては黙っていて申し訳なかった。でも面白かっただろう? モエは自己中心的に見えて面倒見がいいし、コウゾウは無口だが信頼できる。チャンポンは神経質だが根は優しいし、イスズは抜けているが何にでも一生懸命だ。彼らの良さも、面倒くささも成田荘で暮らした人間なら分かるはずだ。というより、朔はとっくの昔に分かっていたように思う。
 朔一よ。人間が「目に見えるもの」に頼るのはもはや文化だ。そうであるならばその「見る目」を養うより他なかろう。広く、深く、多くの視点でフィルタをかけずありのままを見ろ。お前はそれができる、私の自慢の孫だ。
 最後に。直接言えず残念だが大学合格おめでとう! 

 イスズは脳天に落ちた雨水に体を震わせた。と思ったがここは屋内だ、降ってきたのは雨ではなく朔一の涙の粒だった。イスズの頭で弾けて四散する。手紙のあちこちが弾けた朔一の涙で少しだけ濡れた。
「じいちゃん……」
宇宙を股に掛け新しい時代を作ってきた喜一、そしていつの日も朔一のヒーローであった喜一、彼の少年のような笑顔が、強く瞑った目蓋の裏に焼き付いていた。
「まだセンター試験すら受けてないよ……!」
喜一のフライング手紙を封筒にしまいつつ、もう一通も取りだした。間を空けると二度と開かないような気がしたからだ。二通目を広げると、涙でにじむ視界を凝らした。

 朔一へ。これを読み始める前にひとつ、注意点がある。

「……あれ?」
はじまりが同じだ。イスズと一瞬顔を見合わせてから読み進めるも、一通目と相違はないように見える。嫌な、なおかつお粗末な予感を抱きながら最後の行へ。

 最後に。試験の結果は残念だった。が、来年もあるさ! ガンバ! 朔!

 くしゃ――勢い余って便箋がよじれた。どうやら喜一は合格バージョンと不合格バージョンの二通を周到に準備していたようだが、いかんせん息子、つまり朔一の父親にどちらをどのパターンで渡すかの指示は出していなかったようだ。手紙二通で感動は半減、いや相殺である。
「何がガンバだ……」
「朔! どこだ~!」
何も聞かされていなかったことを差し引いても二通目を朔一の手に無理やりねじこんできた罪は重い。そんな重罪人の父親がまたもや何も知らず院内の廊下を叫びまわっている声が聞こえた。祖父も祖父で面倒な人間だが、父は父でソフトに迷惑だ。
「父さんうるさいよ。何」
病室から顔を出す。この際イスズには申し訳ないが再びフード内に収まってもらった。
「じいさん、持ち直したよ。さっきちょっと何かごちゃごちゃ言ってすぐ寝たんだけどな。カナちゃんがどうとかラブメーターがどうとか」
(あほじじい……)
しかし危篤状態の喜一を持ち直させたのだから、「カナちゃん」には感謝せなばなるまい。病室のベッドの上に置かれたままのゲーム機を見やって朔一はわざとらしく嘆息した。
「とりあえず一度家に帰ろうと思うけどお前どうする? 泊まるか?」
「そうだね、いつまたごちゃごちゃ言い出すかわかんないし」
朔一の父にも少なからず疲労の色が見えていた。この辺りで休息をとらせてやりたいと朔一は残ることを決めた。
「あ、そうだ。下宿の人たち来てくれてたぞ。お前の着替えとかも持ってきてくれて、ちゃんと帰ったらお礼言っておけよ」
「え?」
そう言って父親が手渡してきたのは朔一の部屋着と簡易の食物が入った紙袋だった。後ろ手に頭を掻きながらそれを受け取る。
「じいさん、愛されてるよなあ。……お前もか」
「みたいだ」
 朔一は喜一の元に戻る前にモエの携帯に電話を入れた。喜一の容態が落ち着いたこと、着替えの入った紙袋のお礼、思いつく限りのありがとうをきちんと伝えたかった。
 電話を終えた後、喜一のもとへ向かう。相変わらずたくさんのケーブルをからだに繋がれた状態で痛々しいことこの上ないが、寝顔は健やかそうだ。喜一の隣に腰掛けて、かわいくもない寝顔を眺めている内に朔一にも徐々に睡魔が襲ってきた。逆らわずにいるとものの数分で眠りにおちる。船を漕いでいた朔一の頭が完全に下方で固定されたのを見計らって、イスズが這い出してきた。
「明日寝違えるんじゃないかなぁ……」
しかし起こすのも気が引ける。喜一と朔一の寝顔を交互に見やるとやはり似ている、イスズはひとり笑いを堪えていた。
「……イスズか」
こもった声で名を呼ばれる。朔一は相変わらず一定のリズムで寝息を立てているから、呼んだのは喜一だ。見ると彼の目蓋がうっすらと開いていた。
「キイチっ。起きた?」
軽やかにジャンプして喜一の枕元へ移動、原型のイスズを目にして和んだのか喜一の目が僅かに細まった。
「朔は……いねむりか?」
「キイチが倒れたこと聞いてすっとんで来たんだよー。寝かせてあげてよ」
「そうか。すっとんできたか」
今度は惜しげもなく笑いを吹き出して呼吸器の中が白く曇った。イスズと同じほぼ同じ視点から呑気に寝息を立てる朔一を生温かい目で見守る。
「ねえキイチ」
返事をしようとしたが呼吸器の曇りを懸念して断念、イスズは構わず続けた。
「キイチの言ったとおり、朔は心の目で世界を見るね」
「はて……そんな大層な男だったかのー……」
今見る限りでは、座ったままの体勢で器用に熟睡するという点では大した男に認定してやれなくもないが、半開きの口からはよだれが垂れるか否かの瀬戸際でどうも締まりがない。よだれの行方を暫く見守っていると、無意識なのだろうか朔一はもごもごと口を閉じた。あまりのタイミングの良さに喜一が目を点にする。
「朔はいつも一番大切なことを分かってる。どんなに綺麗に隠しても、ぐちゃぐちゃに混ぜ込んでも朔の目はいつもホンモノだけを見てる。……これってキイチの孫だから?」
「朔一だから、じゃよ」
喜一は間髪入れず答えた。イスズは満足そうに頷く。どうやら誘導尋問だったようで自信たっぷりに答えた喜一は気恥ずかしそうに視線を逸らした。本当は咳払いをしたり鼻の頭を掻いたりして誤魔化したかったが、繋がれているいろいろなコードを引きちぎりそうで遠慮したのである。院内で問題児、いや問題じじいにはなりたくない。
 派手なリアクションはできないが、喜一には奥の手があった。もう少し言わずにおこうかとも考えていたがイスズに一杯食わされて気が変わったらしい、堪えきれずにやけ顔になった。
「イスズ、お前実はもう人型に戻れるんだろう?」
全くの想定外だったようでイスズは少女漫画もびっくりの大きな瞳を更に大きく見開いたが、開き直ったのか鷹をくくったのか殊勝な笑みを浮かべた。これには喜一も降参だ。彼女は結局否定も肯定もしないまま、軽やかなジャンプで朔一の膝元に移動する。
「キイチ、私ね、今度の展覧会の画は力作なの。キイチにも見て欲しいから早く元気になって」
「イスズにそう言われちゃあ、早いとこ元気にならんとな」
イスズは朔一の膝をつたって床に下りると、ちょこまかと出口へ向かう。
「帰るのか?」
「うん。……朔が起きる頃には戻ってくるよ」
 イスズの姿が見えなくなると、室内には喜一の心拍音と朔一の寝息が交互に、一定のリズムを刻み響くのみとなった。

 翌朝寝起きの朔一に課せられたのは実に簡単な間違い探しだった。比べるのは前日までの光景で、イスズの「おはよう」の一声からスタート。開始十秒で正解が分かり即終了、というハイテンポな目覚ましの儀式であった。しかしこの十秒という記録は残念ながらランキングに掲載されない。成田荘の住人たちはいずれも一秒未満で正解を叩き出したからだ。
 朔一は何故かベッドの上で熟睡していた。いつのまにか喜一も元の病室に戻されていて、その隣に簡易ベッドが仲良く並べられている。目覚めた瞬間イスズの顔が飛び込んできた。妙になつかしい気がしたのは、実際久しぶりに彼女の「顔」を拝んだからだった。
「え!? なんで!」
朔一の第一声はそれで、うっかり叫んだせいで周りの連中は揃って人差し指を口元に当てる。更に後ろから喜一が、朔一の後頭部に向けて丸めた紙屑を投げ当てた。
「うわ、じいちゃんもっ。なんでっ」
痛くもない後頭部をさすりながら半身を起こしてそのまま振り返る。朔一が血相を変えて駆けつけてから半日しか経過していないにも関わらず、病室は昨日とは打って代わって賑やかだ。
「朔ちゃーん。爆睡してたわねー? 泊まり込みの意味ないじゃない」
「喜一の方が先に起きるなんてどうかしてるよ、全く」
モエが半眼で肩を竦めるとそれに便乗してチャンが呆れたように眼鏡を押し上げる。こういうときだけ抜群のコンビネーションを発揮するのが彼らだ。窓際ではコウゾウが仏のような穏やかな笑みを携えて朝日を浴びている。
 朔一にとってそれらの光景は一括してどうでも良いものだった。彼の視線は終始照れ笑いを浮かべているイスズに注がれている。
「ご心配をおかけしましたが、これこの通りでございます」
イスズの困ったような笑顔がやはり懐かしい。
「なんだ……そっか。良かったよ、ちゃんと戻って。これで一安心だな」
安堵の溜息を深く、ついている途中でまた紙屑を投げられる。面倒そうに振り向くと喜一がフグ口を作ってふてくされていた。
「わしは無視か」
「ああ……うん。良かったよね、持ち直して」
それ以外にかける言葉が見当たらない。一般病棟に早々に戻されたかと思えば片手には早速ポータブルゲーム機を握って、孫に向かってゴミを投げつけるのだから心配するだけ損だ。
「結局何だったんだろうなー。時間が経てば元に戻れるってことだったのかな」
「何だ、朔。気付いとらんのか?」
話の輪に何としても加わろうと足掻く喜一、意味深な笑みを浮かべてイスズとアイコンタクトをとっている。
「じいちゃん知ってんの……?」
「わしは何でもお見通し~。でも朔には教えてやらな~い」
(……じじい……!)
何度目かになる暴言を胸中で吐いて、朔一はイスズにターゲットを移した。しかし彼女も曖昧に笑ってこれみよがしに視線を明後日の方向にスライドさせていく。どうやらこちらの口を割るのも多少根気が必要なようだ。
 朔一は深々と嘆息してベッドから這い出した。
「さ、帰って勉強しよ。じいちゃんのせいで一日無駄に丸つぶれだよ」
「無駄とは何だ、無駄とは……っ。」
「それじゃあ喜一、私たちも帰るわねー。顔見て安心したし、お大事に~」
朔一が帰り支度を始めると、成田荘の連中もこぞって自分の鞄やら上着やらを手に持ち出す。一気に本来の静寂を取り戻そうとする病室に寂しさを覚えて、喜一が涙目で去りゆく若者たちに腕をのばしたが意図的に無視された。イスズが最後にドアの向こうから手を振ってくれる。涙目のまま手を振り返して喜一は開け放したままの窓の外を見た。
 広く深く、どこまでも透き通った青色が空の果てまで続いている。その中を一羽の太った鳩が大変平和そうに羽根をばたつかせて横切った。いつもの窓が開いているのを見つけると、喜一の体調改善を祝福するように寄ってきて、これまたいつものように糞をお見舞いして去っていった。

      
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