より冷静に、丁寧に、記憶の中のサクヤとのやりとりをひとつひとつ拾い上げる。ニーベルングに対してどう考えていたか、どう行動していたか、ファフニールという単語については? そもそも八番隊への言動はどうだっただろう。作戦中、非番の日、訓練中、そして朝礼前に二人で交わす他愛の無い雑談。
「ある、かもしれない」
「何」
「待って、今、脳みそに小骨が刺さってるかんじ」
(なにそれ……)
うっすらかぶった埃を優しく撫でてふき取るように、ひとつひとつ思い返した。
まだちゃんと覚えている。思いきり笑うときに少し眉間に皺がよること、栞代わりに書類を使う癖、紅茶を淹れただけで、この世の幸せを独り占めしたみたいな満足そうな顔をすること。何一つ忘れてなどいない。
会話を辿る。一言一句、その間の一呼吸まで精密に。そうして浮かび上がったいくつかの点を気持ち強引につなぎ合わせてみる。確信はないのに、妙な手応えがあった。
「アルブに、サクヤの先生がいるの。今はニブルの研究してるとか……冬前にやけに頻繁に通ってた」
「その人なら何かを知っている?」
「可能性はある。直接じゃなくても、何かしらサクヤに助言をしたはず」
「ふーん……まぁいいんじゃない。ひとまずそれで。空振りでも気分転換にはなりそう」
シグの期待値の低さとあからさまな態度に、ナギはうっすら青筋を浮かべる。そんな何気ない感情の動きが、随分久しぶりに思えた。
顎先で二階に戻るよう合図するシグに続いて、ラウンジを後にする。元の部屋割り通りに階段近くのドアを開けようとするナギを、シグが制した。
「俺がこっちで寝る。どうせ明日には発つけど……何となくその方が良くない?」
「や、まあ。それはどっちでもいいんだけど」
「じゃあ換わって。で、なんかあったら呼んで。……ちゃんと」
ドアの前から強引にナギをひっぺがえした後、心底嫌そうにシグはお決まりの台詞を口にした。そういうシグの表情も、不思議と久しぶりに思えた。そしてそれが妙に笑いを誘う。ナギは自分でも分からないまま笑いを吹き出していた。
「分かった。次はそうする」
「何で笑ってんの。失礼じゃない? 空気読まなすぎじゃない?」
「ごめん、なんかシグがすっかり紳士になっちゃってるのが面白くて」
「……ナギがそういう態度ならいいよ、俺。六番隊が総動員でナギの部屋に侵入しても、クッキーかじりながら笑って見てることにするから」
「ごめんってば。ちゃんと、呼びつけさせていただきますから。六番隊とか、ゴキブリとか、なんだろ後……幽霊出たとき?」
「それじゃあサブローさんだろ」
意識しないままに、口から滑り出していた。シグは別段、しまったという顔もしなかったしばつが悪そうに顔を背けたりもしなかった。小さく吐息をつきはしたが。
「……撃った?」
ナギは残りかすのような曖昧な笑みのまま、それだけを口にする。
「撃ってない」
だからシグも、それだけを簡潔に答えた。ナギの安堵が手に取るように分かる。顔を見なくても、言葉を聞かなくても、空気がそれを伝えてくれる。半年間そういう距離にいた。
シグは、懐に入れっぱなしだったブリュンヒルデを取り出そうとして、やめた。
「別になんでもいい、何もなくてもいい。必要だと思ったら呼んで。行くから」
シグはそのままドアを開けて、ナギの反応も待たず室内へ消えた。
ナギも仕方なくというか、成り行きでシグの部屋のドアを開ける。室内は未使用みたく綺麗だった。一度も身体を預けていないのではないかと勘ぐりたくなる、皺一つないベッドに倒れこむ。今日はいろいろありすぎた。今日に限ったことではないかもしれないが、考え慣れないことに頭を使いすぎて脳が悲鳴を上げていた。
明日はサクヤの故郷であるアルブへ──そう思うと期待と不安の入り混じった、新鮮な気持ちになれた。大丈夫、前に進める。大丈夫、何か一つは変えられる。大丈夫、何もかもに一人で立ち向かわなばならないわけではない。大丈夫──繰り返しながら、瞼を閉じた。
それが毒でも呪いでも、立って進むために必要とされるなら飲み干せる。だから繰り返し、夢の中で呟いた。それが毒でも、呪いでも。
季節を問わず、アルブの土地は肌寒い。時折身震いするような風が、人を、花を、微動だにしない家々の間を何の断りもなく通り過ぎていく。
ナギとシグは、市街よりも一段高い丘の上にあるウルズ大学生態研究所を訪ねた。サクヤの恩師であるフェン教授に会うためだ。事前に約束は取り付けていたが、先方の実験が長引いているだとかなんだとかで結構な時間、待たされている。で、大人しく待たされてやるかというとそういうわけでもなく、三十分を越えたあたりでナギはさっさと見切りをつけて応接室を後にした。
「いやいや、ナギさん……どこ行くの」
「散歩? 来るとき、温室みたいなのあったじゃない。あの辺、うろうろしてくる」
「大人しく──」
「待たないよ、こんな謎のねずみがいるようなとこで」
それもそうか、とシグは二の句がつげずに押し黙った。ナギが言う「謎のねずみ」は、実験用に飼っているマウスのことで、先刻からしきりに奇声をあげてはケージをかきむしっている。それだけなら良い。否、良くはないのだが我慢はできたかもしれない。そのねずみには、骨と皮で構成されたような羽根があった。その隣のマウスは、セメントで塗り固めたような皮膚に全身を覆われてうずくまっている。生きているのか、死んでいるのかも分からない。大きめの観葉植物をちりばめた、白を基調とした部屋の中で、それらはどうしても際立ってしまう。
シグは残るようだった。ナギは気にせず颯爽と応接室を抜け出して、窓から見えていたガラス張りの施設を目指す。ガラスの奥には色とりどりの花と、中央区では見かけない背の高い木々が生い茂っていたから、ナギは勝手に温室だろうと判断していたが実際は微妙に異なるものだった。
「あれ、先生のお客さん? 迷っちゃいました?」
白衣を着た研究員らしき男性が、ガラス張りの施設の中からわざわざ顔を出した。
「あー……いえ、えーと、迷ったというか、真っ直ぐここを目指してきたというか……」
「ああ、どうせまだいらっしゃらないんでしょ。先生、時間にルーズだから。せっかくだし、中観ますか? ちょっと暑いかもしれませんけど」
「あ、いいんですか?」
「全然構いませんよ。ここのは実験用っていうより研究員が趣味で育ててるみたいなもんだし。他にも三棟あって、それぞれ高山植物と寒冷植物と、後は特殊条件なんかで育つやつに環境を合わせてあるんで、純粋に温室って呼べるのはここくらいですかね」
「へえ……。あ、わあ、すごい」
どうぞと中へ通された直後に、自然と歓声をあげる。ガラス越しに観るよりもずっと鮮やかな色彩で、見たことのない美しい花々が咲き乱れていた。燃えるような赤、輝くような黄、空と海を合わせたような深い青。生い茂る葉や木々は濃い緑で、そのコントラストが余計に花の鮮やかさを際立たせていた。まるでお菓子箱の中のような現実離れした世界だ。
「うちでいろいろ品種改良したのばかりです。あれなんかはもともと食用で、甘味成分をめちゃくちゃに上げて実験中です」
「ほんとにお菓子箱みたい」
「なんなら後でお茶菓子にして出しますよ。結構いけます」
研究員は暇なのか、ナギがいたく気に入ったのか、頼んでもいないのにあれこれと説明をしながら案内してくれた。とりわけ鬱陶しいというわけでもないので、ナギもそれに合わせて適当に相槌を打つ。
その気の抜けたやりとりのさなかに、さらに現実離れした光景が飛び込んできた。天井まであろうかという大木の根元で、白衣がしゃがみこんで一心不乱に土を掘っている。ナギは反射的に立ち止まった。そして割と機敏に、後ずさった。