episode x 嘘吐き だれだ


「あ、すいません。びっくりしますよね普通。レイヴンさーん、もう三時まわっちゃいましたよ。そろそろ薬の時間じゃないですかー」
研究員が声をかけると、狂ったように土を掘り起こしていた男はぴたりとその動作を止めて振り返った。その瞬間にナギはまた一歩、バックステップする。悲鳴を上げなかっただけマシだったかもしれない。
 男は──体格からして男だと判断した──全身余すところ無く黒い包帯を撒きつけて、片目と口周りだけが外気に触れる状態だった。ミイラである。単純に言えば。白衣の下は病院衣のような簡素な井出達で、よくみると足元もどこかの施設名が書いてあるスリッパだった。右手に小さなシャベル、左手に大量の芋虫が入った籠を抱えて、目の前の二人を凝視している。
「レイヴンさん、お客さん怖がっちゃうんで」
 その通り──ナギは取り繕うことも忘れ、露骨に口元をひきつらせていた。全身黒の包帯男が、親の仇のように土を掘り返して芋虫採集に励んでいれば、誰でもこうなる。
 ミイラ男は意外にも、無言のまま会釈をして──そしてその際、芋虫を数匹取りこぼして──よろよろと出口の方へ歩いていった。
「えっとあの方も、研究員、ですか?」
「そうそう。患者兼助手っていうか。彼、重度も重度のニブル病で先生頼ってここに療養に来てるんですけど、知識も豊富でよく働くし、いい奴ですよ。見た目がああで一切喋りもしないから、研究所の職員たちからは“アルブの怪人”なんて言われてますけどね」
「それはまた……凄まじい通り名ですね」
 あの包帯が黒いのは、体内から分泌されたニブル成分の色に染まっているからだ。元は当然白い。それが全身に及ぶ、ということはどういうことなのだろう。頭を掠める嫌な想像を遮断しようと、ナギは一度大きくかぶりを振った。
「そろそろ戻ります。見せて下さってありがとうございました」
「いえいえ、最後にちょっと衝撃的な現場に遭遇させちゃいましたけど。先生とこには良いお茶菓子をお持ちしますよ」
 研究員は和やかに微笑んで、ナギを温室の入り口まで送り出してくれた。
 シグが人目も憚らず大口で欠伸を漏らしたところに、ナギが戻ってくる。気分転換をしてきた割には神妙というか、険しい顔つきだ。
「温室、見てきたんだよね?」
「見てきた。や、なんか重度のニブル病患者さんが居て……」
「ああ。まぁ、気分は晴れないね、それは」
シグがすぐさま想像した風体とはいささか異なるような気もするが、事細かに説明するようなことでもないので黙っておいた。
 羽根のあるマウスはいつの間にやら大人しくなっていたから、二人が黙れば室内は途端に静寂に包まれる。日当たりの良い部屋だ。シグでなくても欠伸を漏らしたくなる環境ではある。
「すみませんねー、お待たせしてしまったようだ」
 入り口から聞こえるのんびりとした声に、ナギは出かけた欠伸を慌てて飲み込んだ。挨拶のために立ち上がるシグに倣って、襟元を正しながら立つ。
 フェンは自らティーセットと茶菓子の乗ったトレイを持って、よろよろとこちらへ寄ってきた。今時珍しい型の古いロイド眼鏡に、項の部分でひとつに束ねたうねりのある長髪。特徴的というか、はっきり言って風変わりだ。ナギは学者だの研究者だのという人種に面識がないから、とりわけ浮世離れして感じるのかもしれない。
「お忙しいところお時間を頂いてありがとうございます」
「二人ともサクヤくんの部下、だったね。こちらこそ、こうして訪ねてきてくれてありがたい限りですよ。僕に協力できることがあれば是非力になりたい」
 座るよう促されたので、ナギもシグも元の位置に腰を落ち着けた。フェンはローテーブルを挟んで二人の前に座る。
「もう半年か。改めて振り返ると、月日の経つのは早い」
「教授は……サクヤの件については、どの程度ご存じなのでしょうか」
「それを確認するということは、公にはされていない事実があるということだね。もしその部分で何かを期待してここへ来たのなら僕はお役に立てないかもしれない。確かに僕はサクヤくんについてかなり情報を持っている方だと思うけど、それはあくまでここでの彼の話だよ」
「むしろお伺いしたいのはそこです。サクヤは失踪前、特に冬前にこちらへ頻繁に伺っていたと思うんです。それはその、何のためだったのかとか、そのとき何か教授にお伝えしたりしなかったでしょうか。あるいは逆に、教授からサクヤに話したこと、とか」
「うーん? 普段と変わりなかったように記憶してるけどね」
 それはそうなのだろう。思い当たる節があれば、フェンの方からコンタクトをとってきたはずだ。こめかみをさすりながら記憶を辿っているようだが“普段通り”だと認識していた過去から宝探しをするのは至難の業である。
「何でもいいんです。こちらでサクヤがどのように過ごしていたかとか、どんな話をしたのかとか」
「話と言っても、どちらかと言えば僕が一方的に研究の進捗状況をばらす方が多くてね。彼は彼でここにも大学の方にも足を運んで、耐ニブルや抗ニブルの成分について調べていたよ。それはまぁ、自分の身体のこともあったからなんだろうけど……と、サクヤくんの病気のことは?」
「聞かされています」
「そう。……もともとサクヤくんがここへ通っていたのは、彼用に調合した強めの薬を受け取るためだったんだよ。当然市場には出回っていない。僕と雑談してたのはそのついでみたいなものだ。互いに良い気分転換にはなっていたけどね」
「強めの、薬」
 馬鹿みたいに鸚鵡返しした。実家に立ち寄るでもなく、知人に会うでもなく、サクヤがアルブに帰る理由はこれに尽きた。フェンが調合した非認可の抗ニブル剤を手に入れるためである。サクヤはニブル病であることを部下に明かしておきながら、その素振りを周囲に見せることは一切と言っていいほど無かった。だから、ナギには薬を呑むサクヤの姿が思い起こせない。事実、彼は人前では一度も服薬していなかった。
「彼は平気な顔で危ない橋をひょいひょい渡るタイプだったろう? だからここで何か大それたことをやっていたとしても傍目には気付きにくいんだよね。実験用のニブル水溶液なんか、手続きすっ飛ばしてすぐくすねちゃうし」
「あ、それ」
 シグと顔を見合わせる。ビフレストの運河で、バーディ級ニーベルングをおびき寄せるためにつかった餌がそうだった。出所を知るのが嫌で気付かないふりをしていたが、こんなところから持ち出していたとは。しかもフェンの口ぶりからすると、あれ一回きりというわけではないらしい。
「まさか人前で使っちゃったりしてたの? 困るなあ、うちの管理能力を疑われちゃうよ」
大仰に嘆くフェンに対して、ナギもシグも曖昧な笑いを浮かべることしかできない。グングニル隊員としてのサクヤ・スタンフォードではなく、一個人としての彼の軌跡を追ってここまできてはみたが、開けない方が良かった扉が多すぎる。
「そういや一時期、呪いのアイテムみたいなどす黒い花を持ちこんで分析してたこともあったよ。僕は勝手にイカスミマミレ草って呼んでたんだけど、見たことのない花だったなあ。新種かいって聞いても教えてくれなくてね」
 今度はナギだけが顔をあげた。フェンはその様子を見逃さず、柔らかく微笑む。
「……君は、知っているのかな」
「知っている、と思います。でも──」
 そうだ、あのとき──イーヴェルで採取した黒いユキスズカ、その分析結果について、サクヤは「おもしろいことが分かった」と言っていた。その先をナギは知らない。意気揚々と語ろうとするサクヤを遮って、自分の記憶にある“ノウヤクイラズ”の話を披露してしまったからだ。
 ナギが言葉を呑みこみ続けるから妙な沈黙が生まれる。茶の独特な甘い香りだけが、我関せずと立ち込めていた。その甘ったるい香りの茶に、更に砂糖を投入してフェンは音を立てながら飲み始める。
「君たちは、“蛙の足元にある秘薬”の話を知っているかい?」