episode xi ティーカップの底


 サクヤも以前から(趣味で)何度も出入りしていたところだ。それでも、ここに何もないという確証はないから壁面伝いに目を凝らして歩く。とりあえずといった感じで、シグもそれを真似て反対回りに確認作業を行った。ランプの炎が揺れ、映し出される自分たちの影が蠢く。せっかく照らされた場所を自らの存在で覆い隠しているようなもどかしさがあった。
 ナギは各隊の所属履歴や報告書類のファイルの前で足を止め、いくつかのファイルを棚から抜き出した。ランダムに、ではない。シスイ・ハルティアがグングニル機関に入隊した821年、ヘラ・インシデント前の最後の記録824年、そしてインシデント後の828年、その一番隊と二番隊の名簿だけに目を通した。825年から827年の記録はサクヤが言っていた通り、はじめから存在しなかったかのように抹消されている。
(ヘラ・インシデントがグングニルの闇に関係してる……)

 ──ナギは、ヘラ・インシデントが何故起こったか考えたことがあるかい? ──

 声が響く。頭の中で。
 ニーベルングは、空の亀裂からグングニル塔がある東へ侵攻し続けている。大襲撃を受けたヘラもヨトゥンも、その軌道上に位置する大都市だ。それだけで説明は事足りると思っていた。イーヴェル区という矛盾を指摘されるまでは。
「何かめぼしいものあった?」
シグが上から顔を覗き込む。二番隊の名簿を虚ろに眺めたままのナギも、かぶりを振ってファイルを棚に戻す。
「逆。ヘラ・インシデント前後の記録が抜け落ちてる」
「ヘラの資料なら上にもあるじゃん」
「あんな後世のための資料~みたいなのじゃなくて、生の報告書。……ここに無いとおかしいでしょ。二番隊隊長が作ったはずのものが」
 824年と828年のファイルは一切の隙間なく敷き詰められている。ナギは、その本来あるべき隙間の位置を指さした。二番隊隊長、と言ってはみたが当時の隊長が誰なのかさえ自分たちは知らない。
「ここに無いなら下にあるんじゃないの」
壁にかけたままにしていたランプのひとつを取って、シグは隅にある鉄扉を照らし出した。おそらくは煉瓦と同じような赤茶けた色で、蝶番付近に見慣れた形の窪みがある。絡みつく二頭の翼竜を貫く一本の槍──グングニル機関のエンブレム、同じ形のものが二人のジャケットの襟にあり、またナギの手元でも揺れていた。
「ぱっと見、物置かなって思う」
「だから誰も気に留めないんだろ。俺が昔聞いたときは、緊急時のシェルターじゃないかとか言ってた奴居たよ」
「私は地下牢があるとかって聞いてたよ?」
「地下牢って……勘弁してよ」
 割にあっけらかんとホラーな考えを披露してくれるナギ。地下も暗闇も駄目なくせにこういう肝だけは座っているのが彼女らしいと言えば彼女らしい。
 他愛のない話で誤魔化しながらフェンに譲り受けたエンブレム型のラインタイトを嵌めこむ。冒険小説に出てくる謎解きだの仕掛けだのを解いている気分だ。が、高揚感は無い。緊張ばかりが増幅されて手が震えた。蝶番を外し、扉を押しあけたのはシグだった。
「階段か」
 地獄へ続くような、ただ暗い、先の見えない下り階段があった。シグはランプをもう一つ取り外して先陣を切る。切ってすぐ、つまりは下りて二段目だか三段目だかで振り返って、微動だにしないナギにランプを持ったままの手を伸ばした。
「つなぐ?」
「……なんで」
「だって恐いんでしょ、こういうの」
「カタコンベじゃないから平気だって言ってるでしょ」
伸ばされた手からランプだけを奪って、ナギはシグを追い越した。シグはシグで、あっそうなどと半眼で見送るだけだ。
「カタコンベだって用途は地下シェルターなんだから、似たようなもんだと思うんだけど……」
「あのねえ。別物だって今、けっこう一生懸命刷り込んでんの。似てるなんて言いだしたらおしまいでしょ?! そういうとこに気まわしてくれると大変ありがたいのですがっ」
「それは、すいません」
「分かれば宜しい」
「じゃ、気分悪くなったら言って。そういうの、言ってくれないと分かんないから。今は特に」
 立ち止まったナギを追い越して進むと、小部屋のような空間に出た。シグが持っていたランプひとつで全体をぼんやり照らすことができる。地下一層の資料室の半分ほどの面積だろうか。天井も第一層より低く、3メートルあるかないかという程度だ。ひとまずカタコンベでもシェルターでもなく、地下牢でもないことは確かである。
「記帳台があるね。ランプも」
ナギの分も合わせて三つ。小部屋は充分に明るく、細かい文字に目を通すことも苦ではなさそうだった。ナギの緊張状態も多少は緩和されたようだ。ただ、閉塞感だけはぬぐいきれない。そしてこの小さな空間に渦巻く、例えようのない嫌な空気も。
「さ、まずはヘラの記録? 片っ端からめくってもそんなに時間はかからなそうだ」
 資料棚は二つ。天井から床まで余すところなく敷き詰められているが、総量は多くはない。一人が一つの棚を担当することにした。背表紙には何も記されていないから、面倒だがひとつひとつ手に取って頁を繰る。
 暫くは頁を繰る音だけが場を支配した。しかしその暫くという時間は、そう長いものでもなかった。シグが踏み台を下りて、ナギの後方から一冊のファイルを差し出す。
「ヘラ」
 挨拶でも交わすように、あるいは何かの合言葉のように、シグは無感動にその言葉を口にした。そのファイルは一冊で一年分をまとめたような分厚さで、頁を繰るにも注意が必要だった。細心の注意。だから指先が震えるのは条件反射みたいなものだと割り切ることにした。
 それは、地下第一層の資料室から不自然に消えていた“二番隊によるヘラ・インシデントの報告”ファイルに間違いなかった。そこには事細かに捜索箇所と進捗状況が記されている。彼らはニーベルングの巣窟と化したヘラで、討伐ではなく人命救助を最優先に動いたようだった。捜索三日目に隊員二名が殉職している。四日目には放棄した地区名が並び、五日目にはいくつかの死体を発見。六日目以降はその繰り返しが続いていた。
 ナギはそこに書かれた所感を、指でなぞった。覚えのあるフレーズだった。
「遺体が、少なすぎる」

  ──ナギは、ヘラ・インシデントが何故起こったか考えたことがあるかい? ──

「ナギ……?」
サクヤの声が脳内を反響する中で、シグの心配声が遠くに聞こえた。
 サクヤはあのときそう言って、イーヴェル区の話を始めた。遺体が無く、綺麗過ぎた現場。
そこに横たわる矛盾と絶対的な違和感。それらの糸を手繰り寄せ、ファフニールが使用されたのではないかという仮説を立てた。思い出す限りそういう流れの会話だったと思う。
 では何故、彼は話のはじめにヘラ・インシデントを引き合いに出したのか。
 ナギは遠ざかるシグの声を無視して、夢中で頁を繰った。七日目、発見したには二名の遺体。八日目、無し。九日目、一名。九日目の所感には、次のように記されていた。

 今まで収容した遺体は全て、重度のニブル病患者のものであった。ニーベルングが人体を食らうという事例は上がっていない。ヘラのニーベルングだけがそのような特性を持つのだろうか。それにしても様子がおかしいように思う。上層部の調査結果を待つ。