episode xi ティーカップの底



「ナギ、ちょっと深呼吸して」
「……え」
「いいから、深呼吸」
 ファイルを取り上げられた。だからというわけでもないが言われるままに深呼吸をした。大きく吸ったはずの空気はほとんど肺を満たさず、吐いたつもりのそれは唇を震わせただけだった。
 シグはナギの様子を横目に、取り上げたファイルを手ずからめくる。捜索は史実通り十四日間で打ち切られていた。十四日間の活動報告の最後に、別途書きなぐりのようなメモが挟みこまれている。一度丸めたのか、はっきりとした皺が刻まれていた。どう見ても、正式なものではない、なのにここに一緒に保管されている。理由は一目瞭然だった。
「『捜索初日に保護した子どもについては、一切他言無用。生存者は零として報告を上げる。』これって……まさか、ヘラの生き残り……?」
シグの抑揚のない音読に、ナギも青い顔を上げた。
「そう、だね。そうだと思う。記録は他に……?」
「ひとまずこのファイルには無い。……それより、息。できてんの、ちゃんと」
「できてる、ありがとう」
微笑むと同時に冷静に、冷酷に事実を咀嚼した。
 ヘラ・インシデントはファフニールによって引き起こされた。ナギがそう確信したのは、イーヴェル区と同じく遺体が少なかったからではない。そうでないと説明がつかない“現象”を、彼女はその目で見てその心に刻んでいた。
 ヘラの教会、その地下のカタコンベ、そこで母はニーベルングと化しグングニル隊員に討たれた。
 人体は大気中のニブルで一気にニーベルング化などしない。ニーベルングの体内から吐かれたニブルでも同様、ニブル病を急性的に発症しはすれども、肺をはじめとする内臓が硬化するに留まる。そして人は、それだけで死に至る。
 人が瞬時にニーベルングと化すときは、有り得ない高濃度のニブルを爆発的に大量に摂取したときだ。その条件を満たせるのは、ニブルの申し子であるニーベルングではない。人が産み出したファフニールという魔ガン、唯一それだけである。
 ナギとシグは手分けするのを止め、一冊一冊のファイルを二人で揃って覗きこみ始めた。ヘラの生き残りに関すると思われる記述は、その後何度か登場したがどうにも曖昧で、腑に落ちない点が多い。ナギ自身にも全く覚えがないものばかり。そもそもヘラ・インシデント後の彼女の記憶は霧がかかったように頼りないもので、頭の中できちんと形作られている次の光景は、既にニダの牧場でディランたちと暮らしているものだ。
「このネタバレ満載の資料庫でも、ヘラの生き残りに関するものはごく僅か。相当徹底して隠ぺいしたんだろうね。善意か悪意か知らないけど……あるいはそう単純なものじゃなくて、そうすることで利益を得る人間がいたのかも。……にしても、こっちまで混乱してんじゃん」
 シグが苦笑する通り、ヘラの生き残りらしき子どもは容姿、性別が箇所箇所によって異なった。少女と書いてあることもあれば、少年と書いてあることもある。黒髪だったり金髪だったり、肌の色までその都度違う。
「大事に隠匿して、こんなとこに保管しちゃう情報として、この適当さはどうなのかね。だから都市伝説扱いされるんだよ」
「そういう情報操作なのかな」
「だとしたら勲章もの」
 シグは今までよりも慎重に、今までと趣の異なる分厚い本を取り出した。鍵付の日誌のようだったが、鍵の部分は既に壊れている。誰かが無理にこじ開けたように見えた。
「……サクヤ、かな」
「その前にもいたかもよ?」
それは正しい見解だと思った。ここに入るために必要とされたグングニルのエンブレムは、もともとフェン・アルバートから預かったものだ。ということはフェンは、この資料室の内容は全て知っていたと見るべきである。グングニルの創設に関わった者がこの資料庫を封印していたのだとすれば、当然、容疑者はフェンだけに留まらない。
「総司令は……もちろんこの資料庫のことを知っている」
「じゃないとつじつまが合わないからね。知ってるっていうか当事者じゃないの」
記帳台の上に日誌を広げて、躊躇なく頁をめくった。

 アルバ暦809年、盃の月18日。
 政府の正式な依頼を受け、ムスペル地区の病の調査を開始した。病の症状は様々だが主に呼吸器に異常が認められる。何かしらの大気汚染が最有力とされ全調査員はマスク着用が義務付けられた。
 事前の報告通り空には「亀裂」があったが、そこから現れるという魔物に出くわすことはなかった。そもそも本当にそんなものが存在しているのかも疑わしい、とそのときはまだ思っていた。
 しかし調査三日目にして我々は魔物と接触してしまった。有翼、灰色の個体。体調は3メートルほど。病の原因は、この魔物の吐く霧状の息にあると思われる。
 これを仮に「ニブル」、魔物を「ニーベルング」と称する。


 同21日。
 ニーベルングに接触していない集落で病状の進行が著しいことを受け、付近の森を再調査する運びになった。正確な位置は記せないが、森の奥深くで我々はニブルの根源である「鶏」と「卵」を発見。この弱った鶏が絶命すれば、卵が孵化してしまう。かといって助けるわけにもいかない。結論から言って捕獲・監禁する他、策はない。
 鶏を管理するための土地はロイが準備することになった。私とアルバートは、このおぞましい卵を封じるための策を講じる。と、書きながら不思議に思うのだが、私たちは誰ひとりとしてこのことを公にしようとは言いださなかった。この空から降ってきた脅威は、人類の力に変えることができるのではないかという、研究者としての本能がそうさせたのだと信じたい。それも突き詰めれば私利私欲の類ということにはなるだろうが。


 同24日。
 アルバートの助言通り、ムスペル地区の病の原因を「ニブル」、その発生源は「ニーベルング」であると上層部に報告。嘘の報告をするわけではないから気に病むことはないが、隠し事があるというだけで私などは気が気でなくなる。その点、ロイはやはり凄い。ニブルやニーベルングへの対応策を提出し、それ専用の組織を立ち上げるところまで話をつけてきた。私も「卵」を覆う外殻の考案をまとめたところである。この外殻が完成すれば、ひとまずこれ以上の病の進行や新たな発症はないと思われる。ニブル研究はそれからとなろう。



「……確認、していい?」
「どうぞ。遠慮なく」
最初の頁を読み終えたところで、ナギが切り出した。
「この……“ロイ”っていうのがグンター総司令のこと、だよね。ロイ・グンター。で、“アルバート”は……」
「フェン教授だろうね? そりゃ。偽名くらい使えばいいのに。自尊心高すぎ」
「それじゃあこれを書いてる“私”は、総司令でもフェン教授でもない誰かってことよね」
「……そうなんじゃない」
 当たり前のことをいちいち確認し合わなければ、こうであってほしいという願望に流される気がした。
「グンター総司令とフェン教授、それにもうひとり、この日誌を書いた調査員は、ニブル研究を独占するために“鶏”と“卵”の処理を秘密裏に進めることにした。そこまでは分かる。でもその鶏とか卵ってなんのこと? 何かの暗喩ってわけでもないだろうし」
「鳥の名前でしょ」
「や、それは知ってる」
「じゃあある程度は予測できるんじゃない。俺たちが知ってる、鳥の名前がついてる鳥じゃないものなんて一つしかない」