episode xii 神か屍


「だって思わないでしょ普通。『ヘラの生き残りは二人いた』なんてさ」
 金縛りにあったかのように、息が止まった。シグは何でもないことのように口にしたが、ナギにとってそれは存在そのものが足元から崩れ落ちていくような衝撃だった。
「ナギは? 種明かしはもういい? それともまだ話す? ……俺は何一つ忘れてなんかないから、今なら全部もれなく教えてあげられるけど。先生、マリナの母さんのこととか? マリナ自身のこともまあ、話せるか。教会に来てた、仲良かったやつらのこととか。ヘラ・インシデントの前の話だけどね」
シグが発する一言一句が、ナギの心の扉を激しくノックする。忘れたかったわけじゃない、忘れようと思ったわけじゃない、気づいたらそうやって生きていた。目を逸らし、逃げることこそが生きていく術だと思った。そんなナギの姿は、シグにどう映っていたのかはしらない。
 ナギは答えられないまま、シグの顔を見た。
「……じゃあインシデントの話でもする? 知りたいだろ? 先生が、あんたの父親が何をしてどうやって死んだか」
 地下の空間にはシグの穏やかな声しか響かない。鶏は常に傍観者だった。ナギは常に逃亡者だった。物語の主人公ははじめからシグで、彼は一人で全ての配役をこなさねばならなかった。

 先生──アシュレ・ウィンストンは、ロイ・グンター、アルバート・フェンと共に鶏を発見した調査員の一人だ。卵【エッグ】からのニブル流出を防ぐための外殻【ファフニール】を開発し、それを持ってヘラに身を隠した。……鶏と卵で世界を掌握しようとするロイや、ニブル研究にのめりこんで倫理の道から外れたアルバートについていけなくなったからだ。
 ヘラで身を隠しながら、ムスペル地区でニブル病を発症した者の治療にあたってた。マリナの母さんはムスペル出身だったとか、言ってたような気もするな。マリナは母胎感染で重度のニブル病を持って産まれてきた。まあつまり、俺の母さん同様「炭みたいに真っ黒」の体でって意味。西部はどうか知らないけど、中央ではもうそういう患者は見なくなったな。皮膚の黒化が始まる前に肺が先にやられて死ぬパターンが多いし。マリナが産まれてから、先生は闇医者みたいな真似はやめて教会の牧師になった。それでも知識と技術があったから、医者の真似事は続けてたみたいだけどね。
 そんなときに、西部にニーベルング討伐にきていたイオリ、俺の母さんと再会。鶏とエッグの話をべらべらしゃべってくれたんだろうけど、詳しい経緯は知らない。結果はさっき話したとおり、母さんは上層部に撃たれて重症を負った挙句、ニブル病で再起不能になった。……いや、そんな顔されても事実だからさ。先生はニブル病の特効薬を持ってたわけじゃない。免疫強化だか洗浄だかで死ぬまでの時間を多少延ばせたとしても、治せるわけじゃなかった。事実、最期の最期まで母さんは家から一歩も外には出られなかったから。
 ヘラに落ち延びた母さんと俺を、先生は献身的に世話してくれた。けしかけた罪悪感もあったんだろうけど、それでも俺たちには救いの手だった。
 俺は先生を実の父親みたいに慕ってた。マリナと出会って、毎日一緒に遊ぶようになった。そういうのは? 覚えてはいるの? ……ま、どっちでもいいんだけどさ。ノウヤクイラズって呼ばれてた白い花があったろ。あれが一面に咲いてる原っぱが俺たちの秘密基地だった。確か私有地で、入っちゃだめだって意識はあったんだよね。そういうのが秘密基地っぽくてよかったんだけど。花の蜜がとにかく凄く甘くて、そこらじゅうに咲いてんだからいいだろってかんじで花びらを千切ってはかじり千切ってはかじりして。……そういや俺、マリナにプロポーズした覚えあるんだよね。なんて言ったかまでは覚えてないんだけど、マリナが何て言ったかはよく覚えてる。病気が治ったら凄くかわいくなるから、そうしたらライトのお嫁さんになってあげる、てさ。マリナの母さん綺麗だったからそういう発想になんのかな。それにしても横着だよね。
 先生がおかしくなり始めたのは、ヘラ・インシデントの数ヶ月前くらいから。まぁまた別のおせっかいな誰かから、余計な情報を仕入れたんだろうけどね。
 先生がつくった「ファフニール」はエッグの密閉カバーみたいなもの。……臭いものに蓋しただけ。中でニブルはどんどん溜まる。放出されなかった分とんでもない濃度で。

「こいつはそれを知ってた。だからここでこうして何もしなくても、エッグがいずれ人間の手に負えなくなると思ってた」
 骨と皮だけになった囚われのニーベルングの王に、シグは侮蔑の眼差ししか向けない。そこには一切の憐れみも同情もなかった。鶏に反論はない。彼は傍観こそが最大の復讐になることを知っている。

 ──十年、長くて二十年? 待ってれば、エッグは濃縮ニブルをぶちまけて暴発する。つまり、先生がつくった外殻【ファフニール】は、全くの逆効果だったってわけ。エッグをファフニールで覆ってから既に十五年以上が経ってた。後はただのタイミングの問題。今日爆発するのか、一ヵ月後爆発するのか、そういう違いだけ。先生はぱんぱんに膨らんだ風船を最期まで一人で大事に抱え込んでた。どっかに捨ててくるとか、そういう発想はなかったのかって思わない? いっそここに仕掛けてくれれば、せめてこの腐ったバゲットみたいな塔は吹っ飛んだかもしれないのにね。
 そういうわけで、ヘラ・インシデントは起こった。ヘラ地区一帯はニーベルングに襲われてなんかない。へラの住人が一人残らずニーベルングになっただけの話。運悪く「なれなかったやつ」はほうっておいてもニーベルング化したやつに殺されるし、全自動の殺戮現場ができあがったって寸法。ナギはカタコンベに居たんだっけ? そこを二番隊に救出されたっていう、都市伝説どおりか。

「シグはどうして……助かったの」
「さあ? 知らないよ。ナギもそうだろ? あのニブル量と濃度でカタコンベなんか意味なかったことくらい分かる。ただ、ものすごく運が悪かったってことだけははっきりしてるけどね」
 ナギはシスイの言葉を思い出していた。老朽化が進み、教会のカタコンベはほとんどニブルを遮断していなかったと。だからこそ、母はカタコンベの中でゆっくりとニーベルングと化したのだろう。その一部始終だけは、細部まではっきりと思い起こせる。むせ返るような血のにおいと、骨がひしゃげる不協和音、そこにか細く響く母の断末魔を。
 シグはニーベルング化しなかったことを、生き残ったことそれ自体を「運が悪かった」と称した。否定する心と肯定する心がせめぎあった。
「……カタコンベにナギをつっこんだのは先生だろ?」
「……そう」
「じゃあその後だと思う。先生来たよ、うちにも。」
「シグの家に、行ったってこと……?」
「そう。もう、ほんと、史上最悪のありがた迷惑。最悪だよ。先生さえ来なければ……ほんと、全部違った。生きなくても良かった。ちゃんと選択できたんだ」
 淡々と物語を語るだけだったシグの表情が、はじめてぐにゃりと歪んだ。ニブルだらけの空気を大きく吸い込んで、吐く。間があった。何かを押し殺すための間だったのか、何かを切り替えるための間だったのか、長い長い沈黙があった。
「先生は俺の家でニーベルングになった」
 ナギは何かを声にしようとして、息を吐けずに無意味に口をあけたまま。どうせ何かを口にしても、馬鹿みたいに鸚鵡返しするだけだ。
「わざわざうちまでやってきて……何がしたかったんだか。とんでもないショーを披露してくれた挙句、助けにきたはずの母さんを切り刻んでくれちゃって、もうなんか、最悪の恩人だったよ、あの人」
「父が……シグのお母さんを、殺した、の」
「……復唱しなくていいよ。持たなくていい罪悪感だし、それ。俺はとにかく運悪く、ニーベルングが親を殺す瞬間に立ち会っちゃっただけ。で、もの凄く運悪く母さんの魔ガンでそいつを撃っちゃっただけ」
 そう長く自分に言い聞かせ続けてきた。罪悪感? 良心の呵責? 自責の念? そんなものは息をしているだけでひとりでに湧いてくる。夜眠る前、瞼を閉じるとああすれば良かった、こうしなければ良かったと安全地帯にいる自分が身勝手に回想しはじめた。それを毎夜繰り返すうちに疑問を持つようになった。この後悔は正常なものなのか疑わしくなった。──冷静に、客観的に、自身が持つ能力と状況を分析して何度も何度も過去をやりなおす。結果は同じだった。