(まただ……私)
放棄したくなる。考えることを、歩くことを、信じることを全て投げ出してしまったときに訪れる解放感を既に彼女は知っていた。一生懸命馬鹿みたいに想うから、こんなに悲しい目に合わなくてはいけない。そういうときは、どこかの部屋に何もかも全部を詰め込んで、ドアを閉めて鍵をかけてしまえばいい。不安なら幾重にも鎖を巻いて南京錠を。鍵をかけたら後は全速力で逃げるだけだ。
簡単で効果てきめん。しかし彼女はもう、その道を選べない。その過程で誰かをどうしようもなく傷つけることを知ってしまった。例えば今、無言の背中しか見えなくなってしまった仮初のパートナー。そして、破壊衝動に身をゆだねるしかなくなったかつての──。
「司令! 報告致します!」
上層から下りてきたらしいグンター直属の部下が、血相を変えて走り寄って来た。
「サギ討伐に出向いたグングニル小隊が襲撃を受けています!」
「そんなことは知っている。指揮系統を正せ。配置は?」
「そうではなく! 謀反……謀反ですっ! この混乱に乗じてか仕組んでのことかは分かりませんが……!」
謀反──? 誰もが胸中で一度、鸚鵡返しした。我関せずだったシグが振り向き、ナギが顔を上げた。グンターは顔色を変えない。そう振舞っているだけのようにも見えた。
「規模は」
グンターの冷めた追及に、報告という名の煽りにきただけの隊員は言葉に詰まるだけだった。
「シグ」
「……いやいや、どう考えても管轄外でしょ。そっちはそっちできちっとやってよ。俺は、当初のご命令どおりサギを討ちにいく」
「それでいい。余計な動きはとるな。反乱分子の鎮圧はこちらでやる」
「申し上げます! 司令!」
話がまとまりかけた矢先に、別の男が階段から転げるように下りてきた。
「新たなニーベルングの襲撃です! 漆黒の、その……魔ガンを持った人間がそれを駆っていると!」
舌打ちが響いた。グンターのそれである。俄かには信じがたい、想像しづらい情報ばかりが五月雨式に飛び込んでくる。サギの襲撃、規模不明の謀反、そして謎のニーベルング使い? ──どれかひとつはデマであってほしいものだ。そう思いながら歩みを速めた。
枯れ枝にとまった美しい蝶のように、サギはグングニル本部塔のちょうど真ん中にしがみついていた。宿舎塔や演習塔からは、その異様過ぎる光景が如実に見える。主に悲鳴が上がったのは、就寝中だった隊員が多くいた宿舎塔からだった。そして本部塔にちらほらと残っていた、運の悪い隊員たちから。
好きなお菓子が買ってもらえない駄々っ子さながらに、サギは塔の外壁を一定間隔で蹴り続けていた。内部が揺れているのはそのせいだ。窓らしき窓はほとんどが割れた。そこから直接見えるサギの羽や爪に、免疫の無い隊員たちは後ずさるしかなかった。格が違う。今まで“ニーベルング”と称してきた化け物たちと、そして自分たち人間とは一線を画す高次の生き物だ。そう本能が告げるから、蹂躙されながらも神々しいとさえ感じてしまう。
幾度目かの足での痛烈なノックが、塔全体を掻きまわした。その瞬間は敵も味方も関係なく、身動きがとれなくなる。
男は魔ガンを構えた矢先だった。
「ぬおぉう! 鬱陶しいったらねぇな本当に……! レーヴァテインの連絡網はどこまで節操がねぇんだ? あれもハルティアが呼びつけたんじゃねえのか」
女は男の方を見向きもしない。眼前でよろめく知った顔の隊員たちに向けて──実際は少し照準をずらして──魔ガンの引き金を引いた。バーストレベルが低い彼女の魔ガン「エルダ」は、ほとんど護身用や威嚇用だったが対人兵器としてはそれで充分だった。破裂音と共に廊下に熱風が渦巻く。
「どっちだっていいでしょう。私たちの標的はこっち」
グングニル本部塔5階。上層部の執務室が固まるこのフロアで、バルトとアンジェリカは文字通り大暴れしていた。二人はサギが出現する数分前に、宿舎塔の空中庭園を経由して(詳しくは語らないが)このフロアに直接侵入した。目指しているのは地下だ。地獄の底の蓋を開けにいったらしい向こう見ずな二人のバックアップが目的である。情報源は全て、レーヴァテイン代表、シスイ・ハルティアだ。
二人は、八番隊査問の後、零番隊には加わらず監視付の執行猶予期間を選んだ。その間に魔ガンの闇市を通じてシスイと接触し、情報を交換し合っていたというわけだ。その分野で言うなら、シスイだけでなくアンジェリカも精通しているところだった。
「外からはサギの攻撃、中は魔ガンの撃ち合い……滅茶苦茶だな」
焦げて黒ずんだ廊下にサギのキックと雄叫びが響く。
バルトは既に先刻、自らの一発で5階の天井、つまり6階の床を完膚なきまでに破壊している。それを繰り返せば1階までは容易く辿り着けるのだろうが、どうにも気が引けた。おかげで今度は引き金を引くのをいちいち躊躇う始末だ。
廊下の突き当たりで響く新手の足音に、一度口元を大きくひきつらせた。
「もう! 撃たないならどいてっ! 役立たずったらありゃしない……!」
「待て待て待て待てっ。これ以上撃ったらエルダでもフロアごと吹っ飛ぶっ」
「だったらどう──……バルト。あれ」
アンジェリカが、廊下の奥を指さすまでは二人には揉めている余裕があった。二人が共有した視界には、頭が黒い、腕が黒い、全身真っ黒い“生き物”が走ってくるのが映った。それが黒いフードと黒い包帯だということに気が付くまで数秒を要した。さらにその後方から、おそらく六番隊と見られる小隊が魔ガンを構えながらやってきた。
「アンジェリカ!」
伏せるというセオリー通りの行為が正しいのかは分からない。が、直撃は避けることができるはずだ。なりふり構わず放たれた魔ガンの一発は、その黒い生き物を追い越し、うずくまったバルトとアンジェリカの頭上を通り越し、壁に大きなクレーターを作った。砂埃が視界を覆う。
「どうしてこう六番隊ってのは……」
考えなしなのか、という嫌味は噎せかえったせいで言葉にならなかった。
「いいからどいて。次が来るわ」
自分の身体に覆いかぶさったバルトの顎を、扉でも開けるようにすんなり押してアンジェリカは低い体勢のまま身を起こす。その際「グキッ」という生々しい効果音が響いたが、この場ではなかったことにされた。
二人は固唾を呑んで、その光景を見守るしかなかった。全身黒い包帯に身を包んだその男は、いきなり立ち止まって振り返る。その勢いをバネ代わりに背後の隊員の鳩尾に渾身の肘をたたきこんだ。倒れこむその隊員を踏み台にしたかと思うと握られていたお飾りに等しい魔ガンを奪い取って間髪いれず撃ち放った。考えなしに、ではない。天井の一部だけが崩落するように計算しての一発だと思われた。
「なんだ、あれ」
黒い男の独擅場は続く。向かってきた残存兵の腕を引き、またもや鳩尾に重い拳が入っていく。野生の獣のような、無駄を一切省いた獲物を仕留めるための鮮やかな動きだ。そんな時間はないと知りながら、バルトもアンジェリカもただ茫然と見とれていた。
「おい。あのミイラ男みたいなのは味方なのか……?」
「知らないわよ……っ」
二人の視線の先で、男は自分の後方にいた六番隊を全て蹴散らした。そして、一呼吸だけ置いてまた脇目も振らずこちらにひた走ってくる。
「おいおいおい! 来るぞ、突っ込んでくるぞ! 撃っていいのか駄目なのか、どっちだあ!」
「知らないって言ってんでしょ! ちょっとは自分で考えなさいよっ。っていうか何とかして!」
「何とかっつったってなぁ!」