episode xiii 裁かれる衛兵,欺かれる奇術師


 二人を襲ったのは得体のしれない恐怖感だった。全身真っ黒のミイラ男が全力疾走で、廊下の端から自分たちに突撃してくる。のみならず、男に並走する形で既にガラスの入っていない窓の外を漆黒のニーベルングが飛んでいた。叫ぶ以外に対処のしようがないではないか、というのがこのときのバルトの本音だった。そしてそれは、この場に限り、最初から最後まで全て正しい対処だった。
 ほとんど抱き合った状態で妙な悲鳴を上げるバルトとアンジェリカ。その近くまでくると、包帯男は急ブレーキをかけ、膝に手をついて呼吸を整えた。随分荒い、そして濁った呼吸だ。あれだけの大立ち回りをして短距離選手のように廊下を走り抜ければこうなるのかもしれないが、それにしてもという安定しない呼吸だった。だから彼の息が整うまで、妙な沈黙と間があった。
「バルトとアンジェは、ここで増援を足止めしてくれ。僕はこのまま下層にナギを迎えに行く」
 その声を──
「……お? いや、えっと……」
 随分懐かしいと感じた。その感情だけは何の根拠もなかったが、確かなものだと思えた。ただ五感に自信は持てないから、バルトはどうしていいか分からず頭をかくだけだ。
「……了解! このまま時間を稼ぎます。隊長は下へ!」
アンジェリカの力強い応答に、男の包帯に覆われた目尻が少しだけ下がったのが分かった。男は眼を見開いたままのバルトにも目配せをして、その後はもう一度も振りかえることなく階下への道を突き進んでいった。黒いニーベルングだけが、変わらず彼の後を追っていた。
 アンジェリカはその後ろ姿を目で追いながら、泣き崩れそうになるのを必死に耐えた。瞳から溢れ出る涙は止められそうもないから、せめてしっかりと立っていなければと思った。ちょうどいいところに、ちょうどいい具合の木偶の坊が突っ立っていたからその腕を掴む。
「アンジェリカ」
「何よ、……いいでしょ、ちょっとくらい」
顔を上げた先で、バルトが泣いていた。すまん、と小さくこぼして空いている方の手のひらで顔を覆う。アンジェリカも、ゆるす、と小さく囁いた。


 本部塔の地下第二層は、一流ホテルのラウンジのようだった。アラベスクの絨毯がひかれ、広い空間の隅には会議用だか密談用だかのソファーが結構な数用意されていた。カタコンベとそう大差なかった宿舎塔の地下とは雲泥の差である。第二層に上がって、揺れは収まるどころかより一層激しく感じられた。天井が降ってくる可能性は、ここでは杞憂とはいえない。
 不透明な情報に、くだらない報告が続いた。次に階段から下りてくるのも、その類だと誰もが思っていた。が、その足音はどうにも不規則というか頼りなげに聞こえた。それが図らずも多くの注目を集める理由になった。
 足音の主は階段の陰に身を潜めたまま、なかなか姿を現そうとはしなかった。その行動が不審さに拍車をかけて、グンターの護衛である防護服たちは一斉に機関銃を構える。
 階段室から伸ばされたのは、黒い包帯が巻かれた腕とそこに握られた見覚えのある旧式の魔ガンだった。
「撃つな! 吹き飛ぶぞ!」
シグが必死に制した甲斐あってか、機関銃の引き金は引かれることはなかった。それはこちら側の話、階段室から突き出された魔ガンは、シグの叫び声を合図代わりに火を噴いた。整然としたラウンジは、爆発とそれによる爆風とでたちまちに景色が変わる。ニーベルングでも数体、一気に片づけられるバーストレベルの魔ガンだ。そんな魔ガンは、数えるほどしか存在しない。
(嘘だろ)
シグの中で主観と客観がせめぎ合う。
(そんなことは、絶対にありえない)
言い聞かせなければ、目の前の光景そのものに押し負ける。だが主観も客観もついには揃って肯定側に天秤を傾ける。──そんな魔ガンを手足のように扱える人間は、数えるほどしか存在しないと。
 一見すると浮浪者のような男だった。自身の身体も満足に支えられない負傷者であり病人だった。全身に纏った黒い包帯、それを覆うように更に黒いフードをかぶった男が立っていた。
「レイヴン、さん……? なんで、こんなところ、に」
 ナギはその男のことを見たことがあった。患者兼研究員としてウルズ大学生態研究所にいた男に相違ない。視覚情報は間違っていない。それなのに、一瞬、何故か別の名を呼びそうになった。全ての矛盾をあっさり塗りつぶすような何かが、その男にはあった。
 包帯の奥に見え隠れする目が細まった。この状況下でにっこりと笑ったらしい、その空気読まずな頬笑みは、間違いなくナギに向けられたものだった。
「約束を、果たしにきた」
 黒衣の男は随分穏やかな口調で、ただそう告げた。知っている声だった。
 シグは奥歯をかみしめた。認めたくない。認めたくなんかない。疑問符が次々とシグの脳裏をよぎり、形にならないまま渦巻く。シグにとって、その存在は今ここにあってはならないものだった。否定しなくてはならない。拒絶しなくてはならない。それがまだ間に合ううちに。
「サ……ク、ヤ……?」
 だからその名を呼ばないでくれ──名前を呼ぶとは、それがそこにいると証明すること。ここに居てほしいと渇望すること。ここに居ていいのだと、承認すること。
「サクヤ……!」
 ナギの絞り出すような声から逃れるために、シグは大きく嘆息してローグとヴォータンを引き抜くと、そのまま後方天井に向けて発砲した。弾幕はこれで充分。グンターたちには自分が足止めを買って出たように見えるだろうから、ほとんど自動的に邪魔者はいなくなる。去っていく足音を少しだけ気にかけながらも、シグは眼前の怪人に意識を集中することにした。
 あの日と同じように、またこの人と銃を向け合うのかと思うとうんざりする。しかも今度はどちらも魔ガンだ。
「どういうトリックを使ったか知らないけど、満身創痍ってかんじですね……。亡霊のあなたが、今更何の用です」
黒衣の男は、先刻とは打って変わって沈黙を守った。全身を覆う黒い包帯から唯一のぞく両の瞳は、シグの知っているその男の面影を残していない。それなのに。
「……今のあんたで、どう俺を止める」
 脳より先に、心が認めてしまっていた。目の前の男は、サクヤ・スタンフォードだ。シグがファフニールで撃ち、目の前でニーベルングと化したはずの退場者。
 動揺と混乱は抑えられるレベルをとうに越えていたが、シグは無理やりに思考を働かせた。
「やりようは、いろいろあるよ」
「そんな茶番に俺が付き合うとでも?」
 蘇ったなら、もう一度徹底的に潰すまで。
 サクヤに魔ガンの扱いで遅れを取るとは思わない。射撃速度、命中精度に関してはこちらの方が上だ。注意すべきは格闘になった場合だが、今ならその心配はいらない。どのようなカラクリがあるにせよ、サクヤがファフニール内のニブルをその身に受けたことは紛れもない事実だ。隅から隅まで汚染された身体で、どこまで動けるかは知れている。
 シグはローグとヴォータンの銃口をサクヤに向けた。それが開戦の合図になった。互いに惜しげもなく引き金を引く。ローグとヴォータンの二発を以てしても、サクヤの一発には競り負けてしまう。同じラインタイトで構成されているはずの弾丸は、二人の狭間で誘爆しフロアそのものを吹き飛ばすほどの爆風を巻き起こした。
 シグは煽られながらも、グンターたちが上っていった階段へ逃げ込んだ。酸素が薄い。息が上がっていた。
(ゲリラ戦になるとなんでこうも不利になるんだよ……!)
胸中で毒づき、ほぼ砂煙だけになった地下二層を後にした。ここに留まったら最悪フロアごと大爆発して生き埋めだ。普通は想定しない選択肢まで、残しておけなければならない。シグが相手取っているのは「ありえない」が辞書にない男だからだ。