静かすぎる階段室、一段一段を慎重に上る。待ち伏せされている可能性、背後からの奇襲の可能性、そもそも階段で上ってくるという想定が間違っている場合もある。
(床つきやぶって出てくるってことも、ある、よな)
想像するにひどい絵面だが、だからと言って考慮しないわけにはいかない。
地下第一層に出た。出てすぐに、床に何か宝石めいたものが無数にが散らばっていることに気が付いた。それがラインタイトの欠片だということに気付いたのは、足元が爆発を起こしたのとほぼ同時だった。シグは咄嗟に階段室に引きかえし、鉄製の扉を盾に直撃を免れる。
直接ジークフリートを撃ったのでは威力が大きすぎてサクヤ自身も巻き添えを食う。それゆえに、むき出しのラインタイトを起爆剤にバーストレベルの低い魔ガンで攻撃するという策らしい。
「こういう手段をとってくるってことは、生き埋め心中は選択肢から除外でいいんだよなっ」
だったらこちらにも動きようがある。ばらまかれたラインタイトを逆手にとって、ローグとヴォータンの低いバーストレベルを補強できる。
扉を盾代わりに、その隙間から適当な床を撃った。轟音と火柱があがる。バーストレベルの高い魔ガンをぶっ放すような開放感があった。が、手ごたえはない。
(間接じゃだめだ。直接、あてる)
視認できないのなら他の感覚に頼るしかない。何かあるはずだ。満身創痍で並以上の動きをとれば、どこかに綻びができるはず。聴覚を研ぎ澄ました。足音はしない。ただ、聞き慣れないざらざらとした空気の音が微かに鼓膜を揺らした。
シグは再び、今度は適切に狙いを定め床を撃った。四散する閃光の中にサクヤの姿が見える。ヴォータンを持ち直して一気に駆け抜けた。頭部めがけて腕を伸ばしたところで、突然に胃酸がこみあげてきた。サクヤの膝が綺麗にシグの脇腹に収まっている。蹴られたのは胴でも、ダメージはすぐさま脳と脚にきた。更に視界が暗転する。息もできない。激痛と混乱で何も考えられなくなった。何か樹の幹のような分厚くて固いもの──おそらくサクヤの腕か──が、背後からシグの気道を圧迫していることくらいしか分からない。
(まずい……落ちる……)
手段を精選している余裕はない。もう一度、撃つしかない。下半身をまるごと飛ばしてでも、今撃たなければこれはまたゾンビみたいに蘇ってやってくる。それはもうごめんだ。
力なく握っていたヴォータンを、手探りで自分の背中にねじこませた。と、覚悟を決めた矢先に呼吸が楽になった。無意識に酸素供給を優先させたせいで最善の瞬間を逃したのが分かる、サクヤはバックステップでとれるだけの距離をとった。
最善を逃したとしても、直撃に至らないとしても、この一発には充分に意味がある。相手は装甲皮膚のニーベルングじゃない。生身の人間だ。シグは息を吸って、振り向きざまにヴォータンを、そして軌道を上向きにしてローグの引き金を引いた。
足元のラインタイトも巻き込んで、空間が爆ぜた。熱風で肌が焼ける。全てを外側へ薙ぎ払おうとする強大な力に逆らってシグは立ち、かざした腕の下で舌打ちをするしかなかった。
シグの必中の二発は、またしてもジークフリートに相殺された。だからシグとサクヤの間の空間が弾け飛んだのだ。ただ、それでいい。今一度自分に確認をとる。相手は生身の人間だ。そして、ニブルに全身を汚染された劣化品である。
「ほんとにどうやったら、そこまで動けるんです? サイボーグとかいうオチは無しですよ」
白く霞んだ視界の中で、黒い男は異物としてよく目立つ。男は床に仰向けに倒れていた。静かになると、あのざらざらとした空気の振動が聞こえる。サクヤの呼吸音。どう聞いても、正常な人間のそれではない。シグは引き金に指をかけたまま、ゆっくりとサクヤを見下ろせる位置まで歩いた。
「ナギを……守るなら、優先順位が違ったんじゃないですか」
「そうなんだけど……シグを救うには、今しかないのも事実だった」
勘弁してくれ、とシグは口の中で呟いた。
「いい加減悟ってくださいよ、あなたじゃ俺は救えない。あなたは、俺が欲しかったものも憧れたものも持ちすぎてる。……だからそれ持って、早く俺の前から消えてください」
すぐ傍で、一メートル四方の天井が崩落し音をたてて砕けた。そんなものに気をとられたつもりはない。ただ、その無遠慮な騒音のせいで聞き逃した音はある。サクヤのブーツの踵が鳴らした微かな金属音だ。
そして彼は飛び起きた。踵に仕込んだ何とも単純な切り札を握り、シグに体当たりする。
「なん……っ!」
勢いよく噴き出した血は、苦痛に歪んだシグの顔面まで飛んだ。燃えるような痛みが左大腿に広がる。ナイフの柄らしきものがめり込んでいた。いや、めり込んでいるのは刀身なのだろうが、それはもう視認できない。形勢は完全に逆転した。
「サクヤ……隊長っ!」
「普通は足を狙えば止まってくれるらしいからね」
サクヤの手元は容赦なく回る。握られたナイフの柄が回り、刀身がシグの中で回った。
悲鳴を上げたのか、声にならなかったのか、とにかくシグの耳に自分の声は聞こえなかった。足に走った神経と共に意識が途切れ途切れになった。
「救えないなら全力で止める……!」
「それでも……!」
黒い男の黒い瞳に、シグが足掻く姿が映る。シグは自分の姿よりもその瞳の色を見ていた。 もっと淡い色だったと記憶している。そりゃそうか、肌も髪も真っ黒になって虹彩だけ元のまま、なんてことはないだろう。綺麗な黒だった。黒い色に綺麗なものがあるなんて不思議な気分だった。いや待てよ。そうでもないか。母もマリナも、その瞳の色は美しい黒に輝いて一度も濁ることがなかったのだから。
黒くなっていく。意識が暗転する。自分の瞳はどうだったっけと、今まで気にも留めたことがないことを考えながら、シグは薄れゆく意識の中で天井に向けて魔ガンを放った。
地上一階。本来静まり返っているはずの本部塔周辺は、ニーベルングの雄叫びと、魔ガンの発砲音、そしてグングニル隊員たちの怒号と悲鳴が響き渡っていた。
「撃て撃て撃て! ありったけ撃て! ここで潰せなきゃ市街に飛ぶぞ!」
戦艦一隻に数多の戦車で立ち向かうような、どこか虚しい光景だった。それ一撃で岩壁も貫くはずの魔ガンの光は、ただ照明弾のように暗闇を照らすだけだ。その度に、闇夜に白い悪魔の姿がはっきりと浮かび上がる。
「司令……! お下がりください! ……と、そいつは……レイウッド曹長、ですか。何故彼女が」
「さあな。じっくり聞きたいが、そういう状況でもない」
ナギは背中を蹴られて膝まずいた。思いきり地面に打ち付けた膝よりも、後頭部に抑えつけられた冷えた銃口の方に意識が集中して痛みを感じない。
「問おう。貴様が、あれの扇動者か」
「扇、動……? 私が、サギの?」
どういう理屈でそうなるのか、という疑問が先行したが言葉にならない。奥歯がかちかち鳴っていた。視界は暗闇に光る銃口、扇状に広がるそれに埋め尽くされている。総司令が手ずから銃口を向けるという行為は、それそのものが合図になるらしい。加えて後頭部に、どうしようもない絶対的な感触がある。銃口という形のある殺意だ。
「こうなってしまってはどちらでも……同じことだがね」
撃鉄を起こす音が頭の芯まで響く。
こうなってしまっては──そうだ、ナギは既にパンドラの箱を開けている。死ぬのではないかと思うことは、今までも幾度かあった。しかし、それをこんなにも理不尽で恐いと思うことは初めてだった。何の意味もないとは知りながら、固く瞼を閉じた。
「サクヤ・スタンフォードがニーベルングと隊を率いて機関に謀反を起こした! スタンフォードの腹心であるレイウッド曹長を今ここで銃殺刑とする!」
次の瞬間、つまり最期の瞬間、頭の中いっぱいに響き渡るのは味も素っけもない銃声のはずだった。なのに響いたのはナギの名を呼ぶ、切羽詰まった聞き慣れた声。
顔を上げた。それが最期でも構わないと思って、声の鳴る方へ視線を走らせた。