episode xiv 君と凪の丘で


 去年の誓願祭で、そう願った。ミドガルド郊外でファフニールを撃って、誰とも知れない人の形をした何かがニーベルングになるのを見届けた後、教会のいつもの席に座りこんでそう願った。
 優しくて温かい場所に立ってみたかった。大切な人を守ってみたかった。自分の存在に胸を張ってみたかった。そして、たった一人で構わないから、誰かの光になってみたかった。
 その願いは概ね満たされたのかもしれない。期間限定ではあったけれど、子どものごっこ遊びの延長でしかなかったけれど、憧れただけあって悪くない役どころだった。
 シグは虚ろな視界の中にグンターの姿を見つけた。お決まりの荘厳な儀式のように、銃口をその男に向けた。
「さあ、──審判の時間だ」


 頭の中に、心臓の奥に、肌の表面全てに、風の音がする。それがとにかく轟音で、目も開けていられない。当然考えなど、まとまるはずもない。
 ナギが断片的に見たのは惜しげもない精密な連射による、完璧な弾幕だった。ほんの少しずつ着弾点をずらしていたから広範囲に渡って視界が遮断されたはずだ。だから今、こうして無事に離脱できている。訳が分からない。状況はこんなにも瞬時に理解できたのに、文脈が理解できない。あれはシグにしかできない芸当だ。
 ごうごうと風の音。それしか聞こえない。自分が今どこに居て、どういう状況にあるのかが曖昧になっていく。ごうごうと風の音。自分が曖昧になっていく。溶けていく。流れていく。境界のない、輪郭のない、何にでもなれて何にもなれない、感覚だけが唯一の自分の証明だったが、それも風に混ざっていく。ごうごうと風の音。それが過ぎ去るのをただ待った。
 しばらくだか一瞬だか、意識していなかったので時間の感覚はない。気が付いたときには無音になっていた。それはそれで居心地が悪い。ナギは音を探した。草をかきわける柔らかな感触を覚えると同時に、リンという鈴の音が耳元で鳴った。それで慌てて飛び起きた。飛び起きてすぐ、どうやら自分は寝ていたらしいと気が付いた。まさか。あの状況で。なんたる太ましい神経の持ち主か。自分に嫌気がさす。
「気分はどう?」
間髪入れず、最悪だと答えたかった。しかし顔をあげてすぐ、ナギは口をつぐんだ。目の前でサクヤが笑っている。いつものサクヤだ。ナギがよく知る、柔らかい笑顔と銀の髪。
「……悪くない、と思う」
 もう一度確認をする。瞳に映るのは黒い包帯男ではなく、昔のままの姿のサクヤだ。夢なのかな、という割と短絡的な結論に辿り着いた。全ての矛盾をもれなく解消するにはこの結論が一番だ。そうでなくても、この場所は美し過ぎる。およそ現実という血生臭い世界とは同一視できない景色が広がっていた。
 視界一面に真っ白な、羽のような花が咲き乱れている。どこを見渡してもユキスズカの花。恥ずかしそうに、嬉しそうに、全てを許すように優しく、リンと鳴って花弁を開く。目で追えないくらいに、あちこちで花開いた。
 ナギが座りこんでいる地面は仄かに温かい。心地よい温かさだったが、サクヤが立ちあがるのに合わせて手を差し伸べてきたから、ナギもその手をとって立った。 
「いつかここに、君を連れてきたいと思ってた」
「ここって……夢の、中?」
サクヤは一瞬だけ目を丸くして、こぼれるように笑った。違うともそうだとも言わない。ただ笑うだけで、答えはないようだった。ナギもそれで良かった。
 ざっという音と共に風が通り過ぎた。ユキスズカたちは、皆一様に身を逸らせてしなやかに揺れた。ヘラの秘密基地に似ている。日が昇ってから暮れるまで“彼”といろんなことを語り合った、あの場所に。
「ヘラの人たちは、この花をノウヤクイラズと言ってたんだったよね? 調べて分かったんだけど、その名前はあながち間違いでもなかったんだ」
「土を綺麗にしてくれるんでしょ?」
「うん。実は根を中心に、強力な浄化作用がある。毒素のある地盤に根を張ると、その毒素を吸い取って花は黒く咲く。地盤の浄化が終わると花は元の真っ白な色に戻る。……だからニブル汚染の進んだイーヴェルは一面に黒いユキスズカが咲いていたんだ。あそこはまだ、浄化途中だったんだよ」
土が付着した状態で、根株ごとユキスズカを持ち帰ったのは正解だった。花弁の色素にばかり目を奪われていたら、ただのニブル汚染された花で終わっていたに違いない。イーヴェルの土中に正常な虫が住んでいたことも一役買った。
「僕はこの花が、ニブル病治療の鍵になるかもしれないと思った。……賭けた、と言った方が正しいかもしれない」
 フェンが実験していたマウスでBルート進化──元の形状を保ったまま、ニブルに適応できたのはアルブマウスのごく一部だけだった。同様にBルート進化したと思われるヒトは“ヘラの生き残り”。両者には、高濃度ニブルを瞬時に大量摂取したという、基本要素以外の共通項が必要だった。アルブとヘラ。二つの点と点を結ぶのが、ユキスズカでは? と。
「よくそんな……突拍子もない仮説に辿り着くね? や、平常運転か」
「突拍子なくないよ。君が言ってたんだよ? 『根っこを煎じてお茶にしてた』って」
「私?」
──言った。
「そう、君」
確かに言った。そしてそれは事実だ。母が毎日、お手製のおやつと一緒に淹れてくれた甘いお茶。ナギはそれが好きだった。よく知っている白い花が主成分だと知っていたから、その甘美な味をこっそり楽しむために、好きな男の子とだけ共有するために、群生地を秘密基地にした。アルブマウスがユキスズカを煎じて茶になどするはずはないから、彼らはそのまま根を食用にでもしていたのだろう。雑食万歳である。
「でも……だったらなんで。父も母も、他の子たちだってお茶は飲んでた。私ほどじゃなくたって……なのに」
「ヘラには“遺体”があった。あそこに居た全ての人間がニーベルング化したわけじゃなかったってことだ」
その記述は確かに地下資料室にあったものだ。二番隊の報告書に記されていたものをナギも読んだ。
「父も母も、ニーベルング化した」
「……思い出したの?」
「扉を、開けるだけだったから」
その表現がサクヤに通じるとは思わない。通じなくてもいい。それ以上に補足ができないのも事実だ。心の中の鍵付扉の奥で、母はニーベルングになって殺された。グングニルの地下三番目の扉の奥で、父はニーベルングになって人を殺した。ユキスズカの摂取がBルート進化とやらの鍵だったのなら、何故二人は人として死ねなかったのだろう。
「身体そのものを急速に自然改造するわけだから、抗体のでき方や速度に個体差は少なからずあったと思う。子どもの方が作用しやすかったのかもしれない。……どっちにしても、絶対という保証はないよ」
「難しい、ね」
 シグは、運だと言った。サクヤは同じ話を確率の問題だと言う。突き詰めれば同じことなのかもしれない。何もかも正確に、寸分違わずレシピ通りにやっても、最後は神の裁量ということなのだろうか。難しい。それが当然だと割り切ることが、こんなにも難しい。
「……それでも、君やシグ、あのときのヘラにBルート進化して生き残った人がいたというのも事実だ。だからこれは、賭けだと思った」
「サクヤ、あなたもしかして」
「それは順を追って話すよ。ナギにファフニールの話をした後……つまり、君と気まずくなってしまった後、という意味だけど。僕は、ユキスズカの分析とその結果をフェン先生と共有するためにアルブをたびたび訪れていた」
「アルバート・フェン、か」