episode xiv 君と凪の丘で


ナギが惜しげもなく眉を顰める理由は、言わずとも知れている。その名の男は、すべての中心に腰を据えていながら無関係を装い続けたペテン師だ。彼女とシグがフェンに面会していたことを“レイヴン”であったサクヤは当然知っている。
「彼は根っからの学者気質というか、野心家で知的好奇心に忠実な人だ。結果を出すという一点において最善の手段を選ぶところがある。それは否定しない」
「やけに肩を持つ」
「恩師で恩人であることに変わりはないからね。彼の協力がなかったら、僕は今ここに居られないわけだから」
「それは……そうかもしれないけど」
サクヤにもナギたちにも協力的であったのは、彼らがフェンの求める結果を出すための優秀な駒であったからだろう。フェンに悪意はない。そして善意もない。こちらが勝手に彼の掌の上で踊っていただけだ。
「先生の話は少し置いておいて、アルブでもうひとつ出会いがあったんだ。再会、かな?」
サクヤは肩越しに振り向いて、遠く木陰で羽を休める黒いニーベルングをナギに紹介した。魔ガンで痛めつけられた翼や背を労るべく、猫のように身体をまるめてくつろいでいる。こちらにはほんの一瞬視線をよこしただけで、概ね興味はなさそうだった。
 ナギは何とも言えず、馬鹿みたいに口を半開きにするだけだ。やっぱりそうなんだ──という、とても今更な理解と納得を抱く。サクヤが塔の地下に現れた後、怒涛のように事態が動いていったから確認している余裕がなかった。サクヤの登場以上に、ある意味で予想外すぎたのがあの黒いニーベルング“カラス”の存在だ。
 サクヤは、カラスともこの場所で再会したのだと言う。アルブ北部の丘陵帯。サクヤの生まれ故郷である町からほど近い、ユキスズカの群生地。サクヤがナギに見せたいと言った、ナギが夢の世界だと言った、美しく幻想的なこの場所で──。


 ユキスズカ草の持つ浄化作用をニブル病の特効薬として応用できないか、というサクヤの提案にフェンは歓喜した。狂喜した、というべきかもしれない。ニブル研究の第一人者は仮説とも呼べないこの段階で、なぜか絶対の自信と確信を持っていた。サクヤはサンプルと実験結果をフェンに引き継いで、定期的に様子を見に来ることにした。
 そういうことをざっくり取り決めた帰りの話である。アルブのこぢんまりとした駅まで、白衣を着たままの研究員が血相を変えて走って来た。彼の嘆願を要約すると「丘の上にニーベルングが出た。何とかしてほしい」といった内容だった。研究所の人間のほとんどは、サクヤがグングニル隊員であることを知っていたから(しかも彼は時折制服のまま訪ねたりもしている)、サクヤが帰郷していたことは不幸中の幸いだとでも思ったのだろう。が、サクヤの反応は鈍かった。
「こんなところにニーベルングか。参ったなあ……」
後頭部をぽりぽりと掻く。彼が帰郷しているということは、つまり本日は非番。魔ガンを所持していない。
「し、市街は大騒ぎですよっ。どどどどどうしたらいいですか、僕らも逃げた方がいいですかっ」
研究員はサクヤの応答をとかく無かったことにして、市街と自身の震撼具合を猛烈にアピールした。そうこうしている内に中央グラスハイム行きの列車が到着し、サクヤは思いきりそちらに視線を移動させた。冷静に、冷徹に考えるならばこのまま列車に乗り込み、報告なり応援要請なり、あるいは出撃準備などを整えて臨むべきだ。
「サクヤさぁん!」
「一応行ってはみるけど、討伐はできないよ」
ひとまず実物を見てから決めようという気になった。このまま帰ろうものなら次回からは研究所に入れてもらえないかもしれない。
「好戦的なタイプなら今の僕には手がつけられないから、避難誘導に徹することになる」
「そのあたりはお任せしますよっ。っていうよりですね、なんか空からドカーンって降ってきてそのまま動かないっていうか……死んでるんじゃないかって」
「墜落したってことかい?」
「どうなんですかね、分からないですよそんなのっ。動かないってだけで、いつ突然動き出すか考えたら逆に恐いじゃないですか。死んだふりしてるだけかもしれないですし」
「おもしろいこと言うなあ」
同じような台詞をどこかで聞いたことがあるような気がする。が、思い出すには至らない。真剣に考え込むような状況でもなければ、サクヤ自身もその必要性を感じていなかった。ともあれ暴れ狂って周囲はニブルだらけ、地獄絵図だ、なんて情報よりは遥かに有難い。純粋に好奇心を優先させるだけで良さそうだった。
 丘の上に続く小道は、一人で上った。このあたりの土地勘には明るいから案内は必要ない。街の人たちは思い思いに避難したり家屋に閉じこもったりしたらしく、不自然なほどに人気がなかった。そのせいか、よく知っている風景が別物に見える。静まりかえった空気に、鈴の音が響いた。
 上りきった先の高台は、その場所だけ世界から切り離されたような、現実離れした風景が広がっていた。視界いっぱいに咲くユキスズカの花。一際強く吹いた風に逆らうわけでもなく、なぎ倒されるわけでもなく美しく揺れている。と、その美しさに感嘆を漏らしている場合ではない。一面真っ白な世界に、その黒い点はどうにも目立ち過ぎていた。
(黒い、ニーベルングか。めずらしい、ような……いや? どこかで……)
 事前情報通り、その黒い塊は花畑の真ん中でうずくまって動かない。だからサクヤも躊躇せず突き進んだ。不発弾の解体を命じられたような気分だ。近づきながら視覚情報を整理する。とにかく黒い。イーグル級相当。動く気配、未だなし。
 既視感は常にあった。その正体は、目標物まで数メートルという近距離にまで近づいて、ようやく判明した。
「え……」
 風の音、鈴の音、それだけの音の世界にサクヤの声は不協和音だと言わんばかりに悪目立ちした。今の今まで微動だにしなかった黒い塊が、おもむろに首をもたげる。ニーベルングの翡翠のような両の目には、あんぐりと口を開けたサクヤの姿が映し出された。刹那。
 ぶふっ──凝固していた表情筋が緩み、あろうことかサクヤは笑いを噴き出した。
「いやっ……申し訳ないっ。だけどその、あまりにもその格好は……」
 ニーベルングの漆黒の翼は、いたるところに白い物質がへばりついていた。練乳を撒き散らしたお菓子のようでもあり、鳥のフンを一身に浴びた哀れな彫像のようでもあり、兎にも角にもお粗末だ。いや、見ようによってはお洒落かもしれない。などと視点を変えようと努めてはみたが、残念ながらその手の芸術性はサクヤは持ち合わせてはいなかった。だからどう足掻いても笑いが出る。多少の罪悪感を抱くのは、この白い物質、特殊な蝋を彼にぶちまけたのが八番隊だからである。
 このニーベルングの個体識別名は“カラス”。宗教都市リベンティーナで、サクヤ指揮のもと八番隊が意図的に討伐失敗、逃亡させた曰く付のニーベルングだ。
「ご挨拶だな。こうして討たれるリスクを冒してまでお前に会いに来たのだが」
低い低い、よく通る声が鳴った。サクヤはそれ自体にはたいして驚きを見せなかった。ニーベルングには知性がある。感情もある。それがどの程度かは測りかねていたが、人知を超えたレベルであることはこれで証明されたようなものだ。カラスの会話に驚きはしなかったが、おかげで笑いは沈静化した。
「君は人語を理解しているんだね。……というより、自由自在に操れる? ひょっとして他のニーベルングも」
「当然だ。音声による情報伝達に一定の規則が設定されているだけだろう。暗号性のないちゃちな規則だ。理解するなと言う方が難しい」
「言語学者が泣きそうな台詞だ」
 無理をせず会話が成立する。それは互いに敵意がないことの確認でもあった。サクヤにしてみれば魔ガンを所持していないのだから敵意の出しようがないのだが、そもそも、彼はニーベルングに敵意というものを抱いたことがないような気もした。個人的な恨みがないのだから当然と言えば当然だ。サクヤの中で、ニブル病とニーベルングの因果関係は、悔恨の念を直接結びつけるようなものではなかった。