「会いに来たって言ったね。僕にかい?」
「そうだ。あの塔にまで押し掛けるのはリスクが高すぎる。お前の行動パターンは予測しづらいが、ここには定期的に訪れているようだった。人目は避けたつもりだったが……うまくはいかないものだな」
「君はその……目立つからね」
この世界には調和しない、異端の漆黒。こんな明るい内から飛びまわって、よりにもよってこの当たり一面真っ白な地に降り立てば、どんなに視力が悪くても見つけてしまう。しかしそれで良かったのかもしれない。夜に来られたのでは、肝心のサクヤも気付かない。
しばしの沈黙が訪れた。カラスが本題をなかなか切り出そうとしないからだ。危険を冒してまでわざわざサクヤに会いに来たのだ、それ相応の目的があるに違いないのだが。何かこの場にふさわしい世間話はないかと、サクヤが模索し始めた矢先、カラスが重い口をきった。
「リベンティーナの時計塔で、お前が言っていたことがどうしても気にかかった。人間が組織化し我々を狩るのは、あくまで手段だと。そして、その手段は変えられるとも」
サクヤは頷いた。そこまであけすけな表現をした覚えはないが、今はそれについて細かく論じるときではない。
「そうだね。少なくとも僕個人はそう考えている。君たち側にも、それは当てはまることだと思うんだけど」
「だろうな。だからこそこうして、お前に会いにきたのだ」
「……話が見えないな。僕に何の期待を?」
「我々の目的は侵略と蹂躙ではなく、救出と奪還にあると明かした場合、お前ならどういう手段を選ぶのか興味があった」
「いや、明かした場合って……」
もはや仮定になっていない。この黒いニーベルングは、意志伝達のための言語のみならずユーモアの類にも精通しているのか。それとも至って真面目なのだろうか。
「グングニルの塔には我々の王たる個体が捕らわれている。お前たちが名付けた識別名は“鶏”、はじまりのニーベルングという意味らしいな。王には他のニーベルングにはない、特別な責務と能力がある。次代のニーベルング……数にして三億の新しい命が詰まった卵【エッグ】を産みおとすこと、それが、王が王たる所以でもある」
「へえ……。各個体に生殖機能はないみたいだから、どうやって種の存続をはかってるんだろうと思っていたけど、そういう仕組みなのか」
サクヤは素直に感心だけを顕わにした。空の亀裂の向こう側には、専制君主制のニーベルング国家が存在する。その王は全てのニーベルングの頂点であり、母である。その仕組みだけで十二分に興味深い。
「救出するのはニーベルングの王“鶏”、で、奪還するのはその“卵”」
サクヤの独り言のような確認に、カラスは静かに頷いた。そして、サクヤが疑問符を投げかける前に、いくつかの補足説明を行った。【エッグ】には新しい生命と、既存のニーベルングのためのニブルを生成する機能があること。ニーベルングの国家【ニブルへイム】ではエッグを産みおとすものを絶対とする王制に異を唱える者が出始め、内戦状態にあったこと。王である【鶏】を逃し、無事に卵【エッグ】を産おとすため、空の亀裂を作ったこと。
「ムスペル上空の亀裂は、君がつくった?」
「……そうだ。緊急措置として、こじ開けた。だから閉じることはできない」
サクヤは再び派手に感心し、間髪いれず渋い顔をしてみせた。
「今のところ、こっちの世界はとばっちりを受けているっていう印象しか受けないな」
「そうだな。ファフニールさえ作らなければ、お前たち人間の所業は正当防衛の範囲内だっただろう」
サクヤの顔色が変わった。彼が纏っていた空気が、といったほうが的確だろうか。
「ここでその名前が出る、か」
思わず漏れたのは苦笑だった。歪に組み立てていた仮説の塔を更地に戻し、カラスが無造作に投げ入れた正しい部品を加えて、もう一度積み上げる。面倒な思考の作業だった。が、出来上った新たな仮説には一切の揺らぎがなかった。
「派閥に関係なく全てのニーベルングが強行に及ぶのは、エッグがこちらの手中にあるせいか」
魔ガン“ファフニール”は、原初の魔ガンでも、現在の魔ガンの試作品でもない。人が持ち得ない「力」を制御し、所有するために作られた欲望の産物である。一方、その核となる卵【エッグ】は、ニーベルングにとって生存と種の存続に不可欠な代物。彼らの世界はエッグを中心にまわる。だから今人々が暮らすこの世界で、ニーベルングはまわっている。
「そのとおりだ。お前はやはり察しがいいな。我々はエッグ無しには生きられない。体内のニブルを使い果たした者から滅びる運命にある。さあ、こちらの事情は飲み込めたか?」
「だいたいね」
「では改めて問おう。お前は、手段を変えられるか?」
「……ひとつ質問がある。そのエッグを君たちの元に返せば、ニーベルングは人間を襲わなくなる?」
「さあな。お前たちは我々の怒りを買った。エッグが戻れば良しとする者もいれば、もはや怒りが収まらない者もいるだろう」
芳しくない回答だ。ニーベルング側の要求はそれに尽きるのだろうが、見返りが曖昧すぎる。それともフェアトレードを想定している時点で間違っているのだろうか。
サクヤは口元に手をあてがって、長いこと唸り声をあげていた。カラスはこれ以上何も話すことはないとでも言わんばかりに、堂々と構えているだけだ。
「質問追加。その“鶏”が既に死んでいる、という可能性は?」
「ゼロだ。王が絶命すれば、卵【エッグ】が孵化する。そういう仕組みになっている」
「なるほど。王という名の、切り替えスイッチみたいなものだね」
「……否定はしない。どうあれ、その存在は特別なものだ。他のニーベルングにはない業と役割、責務がある。我々は、その存在を王と呼び、ふさわしい終わりのときまで導き守るだけだ」
カラスは、さもそれが唯一の正しさであるかのように言いきった。サクヤは考える素振りを続ける。これに似た話を、知っていた。特別だからと特別な名前で呼ばれ、その業に追いたてられ、逃げながら居場所を探し続ける──その人に、ここに居てほしいと言った。それだけで、彼女はとても美しく笑って泣いた。
「君は、“鶏”を守りたいと思っている」
「……そうだ。質問はあとどれくらい増える?」
「今のは確認だよ。僕と君は基本的には利害が一致する。だから協力はできると思う。……だけどその先が必要だ。鶏に会ってくるよ」
カラスの翡翠の目が大きく見開かれた。その中で、サクヤがなんだか満足そうな笑顔を浮かべている。カラスはサクヤに賭けてここへ会いにきた、そう知った時点で心は決まっていた。ニーベルングには、目的があった。対話する手段があった。そうとなれば、こちらがとる行動は劇的に変わる。会って話せばいい。武器をとるかどうかの判断は、それからでいい。
それから彼は研究所へ戻り、事の次第をかいつまんでフェンに伝えた。単なる相談のつもりだったが、事態は思わぬ展開を見せることになる。フェンは何のつもりか、自身がグングニル機関創設の関係者であることを明かし、積極的に下層へ潜入する便宜をはかったのである。フェンにとっての桃源郷・ニブル環境に完全適応するための扉が開かれた今、鶏も、それを隠すためだけに存在するグングニル機関も、無用の長物と成り下がったのかもしれない。
サクヤは、グングニル塔の下層に潜入し、ナギと同じようにひとつひとつの真実を暴いていった。はじまりはムスペル地区で発見された鶏と卵、それらの力に魅入られた三人の研究者。彼らは目的を違え袂を分かちながらも、どこか同じ思想を共有し世界のねじれを一定に保ちつづけた。ねじれを正そうとした一名を除いての話だ。その綻びは、新たなねじれを生んだ。
最下層で対面した鶏は、やはり自分を殺すよう懇願した。それが唯一の救いの道だと悪びれもせず語った。
「……すまないがそれはできない。僕があなたを撃てばエッグが孵化してこっちの世界はめちゃくちゃになる。それにほかのニーベルングの怒りも止められない」