「なるほど、全て承知済みというわけか。であれば、去れ。私はもはや、それ以外の方法でお前たちを許す術を持たない」
「そんなことはないんじゃないかな。僕は何とか、あなた方のもとにエッグをお返ししたいと思っている。全ては無理でも、それで戻るものも確かにあるはずだ。……だから、取引をしませんか」
「取引、だと」
「ええ。中身はシンプルです。もし、僕が無事にエッグを取り返すことができたら……あなたには、他のニーベルングを連れて亀裂の向こう側の世界へ帰ってもらいたい」
「随分虫の良い話を思いついたものだ。今更エッグを取り返そうなどとは思わない。私はただ死を迎え、この世界を塗り替える」
「それはあなたの自己満足に過ぎない。あなたが王だというなら、死を望む前に果たすべき責任があるはずだ」
この、城のように巨大なニーベルングが、王という名の冠を与えられただけの飾りでないのならば。いや、希望的観測は持たない方がいい。例え飾りであったとしても、その責務だけは果たしてもらわねばならない。
「お前は、人間の責任のために動くのか」
「僕は王じゃないから、そんな大層な責任はない。あなたに課せられたものよりもはるかにちっぽけな責任と、いくつかの約束があるだけ」
その腕で守れるものは、そんなに多くはない。そのくらいの弁えは持っている。それでも、限られた命の時間でできるだけ何かを守ろうと、残そうとして生きてきた。命の逆算出。それは億劫ではあるが、それほど難しいものではない。できることと無理なことが明確になった。した方がいいことと、しない方がいいことに折り合いがつけられた。伝えるべきことと、伝えてはならないことに細心の注意が払えた。
ただ何事も計画通りにはいかないもので、サクヤは自分で取り決めたはずの短い人生設計の中で何度かぼろを出している。とりわけナギに対しては致命的な「しない方がいい」ことと「伝えてはならない」はずのことを、うっかりやらかしている。挙句、「生きている限り」などという期限つきの、逃げの一手を講じることになった。何度思い返しても苦笑しか出ない。そのいくつかのぼろのおかげで、欲が出たのも確かだった。
「昔、お前と同じことを言った娘がここへ来た」
サクヤがぼんやりと自分の半生を振り返っている間に、鶏は何かしら決断を下したようだった。
「え? 取引? えぐいですね」
「そうではない。エッグを返す、といった娘だ。お前と同じ魔ガンを使っていた。澄んだ眼、闇を知らぬ眼をしていた。そして闇に呑まれて……死んだらしい」
「……らしい、か」
「ここへはその息子がニブル供給に来る。人間風情がどういうわけか、ニブルを無毒化できる術を持っているようだ。……エッグを持っているのはその男だ」
無造作にばらまかれた情報に、サクヤは強い眩暈を覚えざるをえなかった。
記憶が正しければ、ジークフリートを所持した女性隊員は今までに一人だけ。総司令の亡くなった妻で元二番隊所属のイオリ・グンター。子どもはいなかったはずだが、その情報操作が易いことは想像に難くない。
「男はエッグの中の濃縮ニブルを定期的に放出している。暴発を防ぐため、らしい。健気なことだ。奴は私を哀れだと言うが、私はこの男こそがこの世界で一番哀れな装置に思える」
「少し、黙ってくれないか」
サクヤは手持ちのカードを一枚一枚頭の中でめくっていった。不正に入手した隊員健康診断の結果。家族構成と養子縁組の情報。所持している魔ガンの記録。そして誓願祭の夜の、行動。
「名を、教えようか」
「いや……必要ない」
鶏が、その皮だけの口角をあげた。サクヤの苦悩が彼には大変に嬉しい見世物だった。
「心当たりがあるようだな」
そのどうでもいい追いうちに、サクヤは答えなかった。
「それからは、シグの経歴と動向を徹底的に洗った。もともとフェン先生がかんでたからね、あの人からの情報も合わせれば、ファフニールのガンナーを特定するのは難しくなかった。どこかの段階でシグと話をする必要があったから……そのために、保険としてユキスズカを摂取しはじめたんだ」
サクヤの足元で、またユキスズカの蕾が花開いた。アルブではプロポーズに使われる祝福の花。ヘラではお茶やお菓子として振舞われ、農地の浄化に一役買う花。
「シグにファフニールを撃たれたときの保険、という意味よね。それは」
「あわよくば説得、無理ならファフニールの奪取にこじつけるつもりだった。結果は両方失敗に終わったんだけど。だから、保険をかけていた方の作戦でいくことにした」
「それが“レイブン”として動くことだったの?」
「あー……いやー、あれはね。正直予想外だったというか、予想以上だったというか」
今までの淀みない口調とは打って変わって、サクヤはお茶を濁す。ナギはわけがわからないから、素直に疑問符を浮かべるしかなかった。待つこと数十秒。愛想笑いで誤魔化し続けるサクヤの代わりに、彫像のように身じろぎひとつしなかったカラスが文字通り首をはさんできた。
「吐くほど得体のしれない薬を摂取した割に、肝心のニブル抗体とやらが思ったよりもできていなかったというわけだ。サクヤの当初の計画では、ファフニールは無効化できるはずだった」
「あ、なるほど」
「うんまあ……そういうわけで、生死の境を行ったり来たりしながら、思いっきり重度のニブル病患者に扮して(というよりそうせざるを得なくて)、再起を待つかんじになっちゃったんだよね」
「死ななかっただけマシという捉え方もある。そもそもあのくそまずそうな胡散臭い薬が、ファフニールに対抗できたというだけで奇蹟だ。一歩間違えば本当に我々の仲間入りだっただろうに」
カラスは暇を持て余したのか、積極的に話に首をつっこんでくる。その上どこで覚えたのか、やけに人間味あふれる単語をチョイスして、ユキスズカの新薬がいかに生理的に受け付けないものかをさりげなく、かつ直接的に教えてくれた。
「黒いボロぞうきんのようになったサクヤを塔から連れだすのに、私は相当な苦労をしたのだ」
「……その話ならもう何度も聞いたし、お詫びもちゃんとしたよね?」
「この娘にはまだ話していない」
「いや、そうかもしれないけど……」
二人の会話に割り込む形で、ナギが笑いを噴き出した。
「仲がいい……っ」
改めてそう思うと、何とも微笑ましい光景だった。想定外だったのは、カラスのとっつきやすさだ。このニーベルング、リベンティーナの時計塔では、この世のものとは思えない凄まじい執念で壁にへばりついていたはずなのだが。
「その解釈はいささかずれたものだな。私とサクヤは協力体制をとっているにすぎない。いわば契約上のやりとりだ」
ずれているのはあんたの方だと指摘してやりたかったが、どう考えてもこの手のタイプはまともに相手をすると面倒そうだ。ナギは顔を背けて笑いをこらえながらも、あのとき起こったことへの疑問を解消しておくことにした。
「それならそれで構わないんだけど。塔から連れだしたってことはつまり、やっぱりあの白いニーベルングは全く別ものってこと、なんだよね?」
「“サギ”だね。彼があのタイミングでグングニル塔に現れたのは全くの偶然だった。運が良かったというか悪かったというか……。シグも含めてほとんど全ての人を目を欺けたという点では助かったというべきなのかな」