しがらみから解放されたのだと言えば随分聞こえはいい。ただ彼の場合は、それはしがらみではなく舵だった。羅針盤であり、灯台だった。それらを一気に失った船は、漂って、流されて、やがて沈むだけだ。ずぶずぶと奈落に落ちていく船体を、止める術はもはやない。
「私が消えて、今更何かが変わると思うか。何も変わらない。何ひとつだ。世界の均衡は保たれている。それを人は秩序と呼ぶ。現に誰ひとりとして世界に違和感を覚えていない」
「俺にはその全部が狂ってるようにみえる。気持ち悪いんだよ……! あんた何がしたいんだ!? 狂った秩序の上に君臨して何が楽しい?」
「世界は私が狂わせたわけじゃない」
「あんただよ……! それとも地下の化け物か? ニブルそのものか?」
「はじめからだ」
「──は?」
「はじめから、狂っていたよ。この世界は」
ニブルが、ニーベルングが出現するずっと前から人は人を食い物にして生きていた。強者が弱者を搾取し、弱者がいなければつくりだした。生きてほしい者は死に、死んでほしい者は随分長く生きた。
「……人はいずれ、あまねく死に至る。それを鑑みれば、誰を生かすかではなく誰が生きるに値しないかをを選定する方がよほど重要で、効率的だ。人間の敵は、人間であってはならない。私の望みと理想はただそれだけだ」
シグは、胃の底からマグマのようにこみあげてきた吐き気で、一瞬間目の前が暗くなったのを感じた。悪寒が駆け巡る。血液が泡立った。
──目の前に鏡がある。醜いメッキの鏡がある。その前に立つ自分と、鏡の中の自分は双方共に被害者の顔をしていた。偽善者の顔をしていた。頭のてっぺんからつま先まで、はがれかけたメッキで構成されていた。
堪える必要がないことに気づき、シグは不快感のすべて胃液と共にを吐きだした。何度も吐いた。その間、グンターも周囲のグングニル隊員も微動だにしない。用意された結末を邪魔しようなどという者は、当人を含め誰も居ないのかもしれない。
吐くものが無くなると、ファフニールの銃身を握りなおした。無造作に構える。照準を正確に定める必要はない。躊躇う必要はもっとない。呼吸を繰り返し鼓動を重ねてきたのも、機械のように従順にファフニールを撃ち続けてきたのも、全てはこの瞬間のためだったと思えば。 最後は無心で引き金を引いた。そのシグの視界に有り得ないもの、あってはならないものが飛び込んできた。
これ以上はないというほど最高の笑顔を携えて、男はグンターの前に躍り出た。両手を大きく広げ、ひとかけらの迷いもなく、魔ガンをその身に受けた。
刹那、空間が爆ぜた。轟音と砂煙で聴覚と視覚が奪われる。それはグングニル隊員なら何度となく味わう、ある意味で日常の一部ともいえる感覚だった。その後、間髪いれず肉の焦げる匂いが立ちこめ、ニーベルングの断末魔が響く。それがセオリー通りの結末。ただ当然と言えば当然のことながら、今はその流れにない。砂煙が晴れる頃には、噎せかえるような血の臭いが漂った。
そこには小柄な壮年の男が立っていた。白と赤の奇抜な出で立ちにレンズの割れたロイドメガネ。その場に居た誰もが微動だにできずにいた。男の腹部は右半分が、大きくかじったパンのように欠けていた。その場に居た誰もが、固唾を呑んだ。その男を知らない者はいなかった。
「ついにだぁっ! これで僕もBルート進、化……っ!」
鮮血で真っ赤に染まった白衣を翻し、アルバート・フェンは両の拳を高々と掲げた。黒一色の天を仰ぎ、歓喜にうち震える、かと思うと糸の切れたマリオネットのように勢いよく膝をついた。満面の笑み、高笑いをあげていたその口から大量の血を吐く。
「フェン」
「大丈夫大丈、夫。これくらいは必要な痛、み、だろうね~。何せ生まれ変わるんだから。多少の……が、我慢は……」
顎から首へ、首から一気に地面へ、フェンの吐きだした血液は音を立てて汚物のように落ちていく。祈るように膝をついていたその身体も、気付けば四つん這いになっている。腹に空いた大きな穴と、笑みの止まらない口元からは絶えず血液が排出された。
フェンは、身を呈してグンターを庇ったわけではない。ユキスズカの新薬を投与し、抗体ができる状態になった身体が完全にニブルに適応するためには、瞬間的爆発的に高濃度ニブルにさらされる必要がある。それは自身が進化論の中で提唱したことでもあり、今までのBルート進化者が全員通った道である。その環境を実現できるのは、ファフニールくらいのものだ。
グンターは事情を察して、フェンには構わず塔の中へと踵を返した。シグもすぐにその後を──追う、という選択肢が彼にはもう無かった。
「……ファフニールじゃ、ない」
「は?」
息も絶え絶えに、這いつくばったままフェンは疑問符を浮かべた。シグは左手にぶらさがったままの──引き金に指をかけたままの、魔ガンを見下ろした。
ファフニールに弾丸は無い。どんなに近くで、例え零距離で引き金を引いたとしても高濃度のニブルが「爆発的」に噴出するだけで、人体に風穴は開かない。ましてやこんな大穴は。
「これは、ジークフリー……ト……?」
「は?」
フェンはまた同じ反応。自分で吐いた生温かい血溜まりの中で、状況が飲み込めず懸命に呼吸だけを繰り返した。酸素を吸って、ただ吐く。その無意識にできるはずの行動が、全神経を集中しないと止まってしまいそうだった。何故そういうことになっているのかは、分からない。分からないが進化には必要な過程だと解釈した。
「どうなってる……!」
一方で、シグは撃ち放ったばかりの魔ガンの銃身をがむしゃらに解体しはじめた。労力も時間もほとんど必要なかった。
「シグと同じトリックを使わせてもらっただけだよ」
“中身”が出てくるころに、一陣の風と共に仕掛け人が姿を現した。本当に、風に乗ってやってきたかのようだった。駆ってきたであろうカラスの輪郭は、ものの見事に夜の闇に溶け込んで肉眼では確認できない。そこにいるのかもしれないし、もうどこかへ飛び去ったのかもしれない。今はどちらでも良かった。
「サクヤ……隊長」
どこをどうとっても理解不能──シグは馬鹿みたいに口を開けたまま、電池が切れたみたいに動きを止めた。目の前に悠然と現れたのは、先刻死に物狂いで、本当に間一髪のところでこの場から逃げおおせたはずの男に相違ない。全身に巻いていたはずの黒い包帯は、ここまでの様々な大立ち回りでほとんど用を成さないものとなっていた。申し訳程度に肌を覆ったその隙間から、浄化途中の黒い皮膚が斑に覗く。
「ファフニールは、はじめからフリッカとして偽装されていた。それを逆手にとって、別の魔ガンをファフニールに仕立てることも可能だと思った。シグの言うとおり、それはジークフリートだ」
(あのときか……)
これでようやく合点がいった。塔の地下第二層でサクヤが現れたとき、ナギが絶体絶命のピンチにも関わらず、彼はシグを優先させた。あのときジークフリートを所持していた彼なら、そう苦労をせずにシグを戦闘不能にすることはできたはずだ。それなのに、やけにまどろっこしい戦い方を選ぶと思っていた。シグはそれを、情けや憐れみ、あるいはサクヤの甘さだと決めつけていた。それが何のことはない、手の込んだ最高に気分の悪い仕掛けだったというだけだ。ジークフリートを極力使わなかったのは、このファフニール仕立ての装飾を隠すため。シグの意識を落とすことにこだわったのは、すり替えるチャンスを作るためだったのだ。
(ということは、本物は……)
力のない目でサクヤを見た。彼が所持している、と考えられなくもない。が、シグは何故か確信に近いレベルで、そうではないだろうと考えた。