もう、いいか。
息をして、両手両足を操って、立って歩く。その原動力が、シグにはもうどこにも見当たらなかった。もともと外付けの動力だったのだ。最後のそれがどこかへ吹き飛んだ今、何かを想ったり考えたりするのさえもただただ面倒だった。
目の前では安い物語の最悪の結末がだらだらと展開されている。まさか、これを見守らなければならない? ──そう脳裏をよぎっただけで、また億劫な気持ちになった。
フェンが這う度に、身体を引き摺る不快な音が鮮明に鼓膜に届いた。
「どういう……。意味が、わからないな。し、進化は……」
「しません。それはただの、通常僕らがニーベルングを撃つために使う魔ガンですから。……あなたの言う『進化』が僕にはそうは思えないけど」
もう、いい。
「ただの……魔ガン? 僕は、魔ガンに、撃たれたの?」
「……大丈夫だと思いますよ。すぐに手当てをすればの話ですが」
もう充分だ。
「いいいぃぃ嫌だっ! 死にたくない!」
「教授、落ち着いてください。ジークフリートは人を殺せないようにできてます。僕や、イオリ少尉が使ってきたのはそういう魔ガンです」
「本当だね!? サクヤくん! 早く……! 早く手当てを!」
口から、腹から、血を撒き散らしながらフェンは凄まじい勢いでサクヤの足にしがみついてきた。サクヤの口からは深く長く、溜息が漏れる。こういうのをたぶん、殺しても死なないと言うんだろうな、などと漠然と考えた。
「罰だと思ってしばらくそのままのたうちまわってください。……あなたなら、止められたんだ。シグも、この馬鹿げた計画も」
「そんな……っ」
フェンの大きく見開かれたままの瞳には、地面すれすれの世界しか映らない。鮮血に濡れた自らの髪と、ひび割れたロイドメガネ、さっきまでしがみついていたはずのサクヤの足。
「なんでこんな……僕は、ただ……真理を追究……。人間の可能性を、広げよう、と……」
そうなのかもしれない。フェンの動機を否定することはできない。それは科学者特有の高級な好奇心だったろうし、あるいは誰しもが一度は胸に抱く、素朴でありきたりな夢のひとつだった。だからこそ彼は、その実現のために犠牲をいとわなかった。いや、犠牲を犠牲だとも思わなかった。Aのマウスが死ななければ、Bのマウスが生き残った理由を探れない。そういう、ある意味当然で、価値ある失敗を繰り返して、真理はじわりじわりと炙りだされる。Aの死の積み重ねは、フェンにとって貴いデータだった。「犠牲」などという無為な単語はそこには当てはまらない。
「なんで……なんでだ、ちくしょう……! 畜生! あと一歩で……っ」
激痛と共にずるずると血溜まりの中を這った。サクヤは瀕死の蛇と化した恩師を、憐みと蔑みの目でただ見ていた。宣言通り手は差し伸べない。放っておいても、フェンにはもう何をしでかす生命力も残っていないだろう。
そうやって期待はずれのラストシーンがただただ繰り広げられた。シグはそれを見ている。観客として、ただ見せられている。初めからそうだったのかもしれない。世界のねじれの中心にいたのは、いつもいつもこの人だったのかもしれない。
「……満足ですか」
絞り出した声は掠れていた。もはや正体を失っている血だらけの三文役者に向けたのではない。最後の最後まで一切の冷静さも欠くことのなかった、純然たる勝利者へ向けた皮肉だ。みんな、みんな、みんな、何一つ、誰ひとり例外なくサクヤの思惑通りに動いていたのだとしたら、こんなに笑える話はない。もう鼻で笑う気力すら一寸たりとも残されていないのに。
「シグ」
「結局……最後は何もかも、あなたの思い通りだ。狡いですよ……。俺はここまできて、何一つ手に入れてないのに」
「それは君が、望むものを手に入れるためじゃなく、望まないものを排除することだけに特化した生き方をしてきたからだ。逆に聞くけど、ひたすら引き算に明け暮れて、それで君の手元には何が残った?」
シグは言われるまま、自らの手のひらに視線を落とした。その手にあるのは、ファフニール仕立ての装飾を暴かれたジークフリート──他人の魔ガンだ。この光景が答え。すべてを象徴的に物語っている。そういう理解に達すると、シグの口から今度こそ力のない笑いが噴き出された。
「何も。……でも、最初から最後まで、空っぽってもわけでもなかったんですよ」
生かすべき者より死すべき者の選定を、優先してやってきた。手に入れたいものは勘定に入れず、手放したいものだけに意識を集中させた。それはサクヤが言うとおりの、極端に傾いた天秤による判断だ。そして本質的には、グンターの考え方と変わらない。
再びこみあげてきた吐き気に抗うために、息を止めて目を閉じた。そしてジークフリートを持ったまま、気だるく両手を挙げた。
「降参します。あなたの、勝ちだ」
「勝ち?」
「そう。俺はたぶんずっと……あなたと戦ってた」
眩しいと思った。羨ましいと思った。無意味な生にしがみつくための理由を、生き汚く探し続ける自分と、価値ある死に何の未練もなく突き進むサクヤ。その姿があまりに鮮烈で、憧れた。その人生を生きてみたかった。シグ・エヴァンスという人間が欲しがったのものは、後にも先にもそれひとつだ。
この手には何も残らなかった。それでもとても長い一瞬、シグは望むものを確かに手にしていた。
「もう充分です」
ジークフリートの銃身を、サクヤに差し出した。
「これは、隊長の魔ガンだから。俺には扱えない」
サクヤは黙ってジークフリートを受け取った。その瞬間に、シグは心底ほっとしたと言わんばかりの長い安堵の溜息をついた。
「シグ」
「少し後始末をして帰ります。上の騒音公害はどうにかしないと、ゆっくり眠れない」
言った傍から彼らの頭上、主塔の三階部分で再び大きな爆発があり、大小バラエティに富んだ瓦礫が自由気ままに落ちてきた。いつ根元からぽっきり折れてもおかしくない。あるいはサギが抱きついている中腹階層から真っ二つ、という状況が難なく予想できる。それにも関わらず、サクヤは落ち着き払っていた。手をかざして、ネズミがくいちぎったような穴ぼこだらけの塔を見上げるだけだ。
「塔を放棄するつもりですか」
「サギがそっちの作業に夢中みたいだから、やらせておけば時間稼ぎになる。ナギとリュカにもそう動いてもらってるしね。……塔は壊す。僕らの手で」
「地下のアレは……どうするつもりですか」
「ファフニールと一緒に、亀裂の向こうの世界へご退場願うつもりだよ」
「でもアレは……外界に出しただけで、死ぬかもしれませんよ。例え外に出せても、格好の的になる」
「その点に関しては手は打ってある。問題はまぁ、あれかなぁ」
二人は同じように空を見上げ、同じ視界を共有した。ああいうのは放っておいていいことはない、実際なかったではないか。そういう単純な思考もおそらく共有していると思われる。それがシグには無性に癪だった。が、感情よりも慣れ親しんだ確認のほうが、気付けば口をついて出ていた。